恋するテイワット・カフェ「はー、疲れたぁ」
大学からの下校中、私は盛大な溜息をついた。本日何度目かはもはや分からない。
地獄の受験を乗り越え、念願のテイワット大学に入れたはいいものの…高校と違って一回一回が信じられないほどに長い授業、そして当然ながら内容は難しく。
(休みの数、逆にしてほしいなぁ)
入学して間もないというのに、早くも現実逃避をしてしまっているのだ。
折れた心を更に折るかの如く険しい坂道を進みつつ、私は商店街から漂ってくる揚げ物の匂いにまたもや溜息をつく。非常に、お腹が空いている。
立ち止まってゴソゴソとポケットを探り財布を取り出す。中身は案の定、百円玉が二枚だけ。
(無駄遣いは禁物、だよね)
海外で働いている両親からの仕送りは双子の兄・空と折半だ。そんなに沢山の額が振り込まれているわけではない。もちろん十分に感謝はしている。だからこそ、大事に大事につかいたいのだ。
(お兄ちゃんはもっとやりくり上手なんだろうなぁ)
難関大学に受かったお兄ちゃん。私よりずっとしっかりしていて、もしかすると貯蓄にまで回しているかもしれない。
幸い良心的な金額のアパートに入れたので赤字にはなっていないが、気がつくと月末は残高がギリギリという体たらくだ。お金って、魔法でもかかっているのだろうか?いつの間にか財布から消えている魔法。
買い食いを諦め、馬鹿なことを考えながら歩いていると。
「あれ?蛍じゃないか」
「え、っあ!」
名前を呼ばれ振り向くと、そこには同級生のティナリがいた。彼の友人であるセノも。二人して物凄く美味しそうなコロッケを持っている。
「偶然だな」
「うん。お疲れさま」
労いの言葉をかける私に真顔で頷いたセノが、サクリと音を立ててコロッケを口に入れた。うう、いいなぁ……。
食べ終わったティナリは、常備しているらしい袋にゴミを入れ、それを鞄にしまった。普段から環境について語っているだけはある、流石だ。
二人とも私と同じ大学に通ってはいるが、学部はそれぞれ違う。ティナリは植物学部で、セノは法律学部だ。
ちなみに私は国際学部。あらゆる国への理解を深めるのが夢だ。
(ティナリもセノも、ほんっとに頭いいんだよね)
入学式当日、道に迷っている私をティナリが案内してくれてからの知り合いだが(後日セノを紹介された)、圧倒的な偏差値の差で時々何語を話されているのか分からなくなる時がある。
自分の未熟さを恥じて唸っていると言い訳のしようもない、地の底を這いずるような音がした。私の、お腹から。目をまんまるにする二人。私はというと、あまりの恥ずかしさで火山に飛び込みたい気持ちでいっぱいになった。
暫しの沈黙が降りる。
やがて、ティナリがおそるおそる口を開いた。
「えーっと……お腹、空いてるの?」
「空いてない」
「なら、何らかの病か?病院に行った方がいい、凄まじい音だった」
「セノ、それ以上は黙って」
ド真面目に心配してくれちゃったセノに、ティナリが静かにツッコミを入れる。いっそ大爆笑された方がマシだ、どうするのこの空気。
「お、お金、なくてさ」
正直に現状を吐露した私に、ティナリが気遣いを見せてくる。
「そうなのかい?うーん……高いものでもないし、同じの買ってこようか?コロッケじゃなくても構わないけれど」
「や!いい、本当に大丈夫!気持ちだけ受け取っておくね!」
高速でブンブンと首を横に振る私。元より奢らせて平気な顔をする人間には見えていないのだろう、ティナリは少し躊躇ったのち納得したようだ。
すると、一連の流れを黙って見ていたセノがポツリと言った。
「金がないのなら働けばいいだろう」
「え?」
予想外の提案に私もティナリもポカンとしてしまう。「何かおかしなことを言ったか?」、セノが腕組みをして小首を傾げた。
金が、ないなら、働けば…。
私が彼の言葉を脳内で反芻していると、ティナリが腰に手をあてやれやれと息を吐く。
「学生の身で働くのって、結構大変なんだよ?」
「知っている。お前と同じで、俺も働いているのだから」
「分かってるなら肉屋にスタスタ歩いていく程度の軽さで言わな…」
「確かに!!」
勢い良く言い放った私に二人が完全停止した。
「こんな簡単なことに気づかなかったなんて」
「ほ、蛍?真に受けちゃダメだよ、セノはこう見えてひったくり犯を地の果てまで追い回せる体力があるんだ、学業との両立を考えて…」
悟りを開いた顔の私を見て、ティナリが落ち着かせるかのように肩を掴んできた。
「それを言うならお前もフィールドワークへ行った後バイト先に向かっているだろう」
「そうだよ、悪い?蛍を僕たちと同列にしちゃいけないと言っているんだ」
仲がいいのだか悪いのだか分からない二人を余所に、私は画期的な打開策に目の前の霧が晴れた錯覚に陥っていた。お金なら稼げばいい。ゴールドラッシュだ、気分は錬金術師だ。彼らも大学に行きつつ働いているらしいし、何もせずに嘆くより希望はある。
そうと決まれば吉日。
「私、やる」
拳をグッと握る。脳内には既に可愛い服やコスメの数々、ちょっぴり贅沢なスイーツ、プチ旅行もいいかもしれない。
叶えてみせよう。脱・貧乏。
「バイトする!」
¥マークに輝く瞳で、若干引き気味の二人に向かって私は宣言したのだった。
そして。
間の地味極まりない就活描写はすっ飛ばし、迎えた初出勤日。
「今日からここで働くのか〜!」
土曜日の朝、ワクワク感で目覚まし時計より早く起きた私はもやし炒めを食べてから部屋を出た。"ござる"などと変わった語尾で話す隣人と鉢合わせして、歯に挟まったもやしを指摘されたのは内緒だ。きっと二時間も経たない内にお腹が空くだろうが、豪華な賄いがあるらしいので無問題である。
(別に食い意地は張ってないけど)
テイワット・カフェ。
キラキラと光を放つ幻覚を視せてくれているその建物は、引っ越してきた日から気になっていた店だ。
ヴィパリャスやパティサラ等、色とりどりの花が植えられた花壇。気持ちの良い春風に揺れている風見鶏。メニュー看板には「お米に合う定食もたっぷり。コーヒーにぴったりのデザートはもちろん、ごま団子や桃饅頭などもございます」との文言。
可愛らしいが落ち着きも兼ね備えた外観の素晴らしさは言うまでもなく、いろんな国の要素を取り入れているところが私心をくすぐる。
カッコいい店員だらけとの噂を耳にするが、私は決してふしだらな理由で来た訳ではない。色恋沙汰はどうでもいいのだ。
(どうせ働くなら、自分が好きな場所だよね)
面接が通った嬉しさを噛みしめながら、私は深呼吸をして扉を開けた。すると。
「ゲッ、客か」
ぞくりとするほどに整った顔立ちの少年が、花瓶を拭いていたのであろう手を止め舌打ちした。切り揃えた藍色の髪は襟足が長く、跳ね方がなんとも可愛らしい。瞳には星が煌めいている、つい吸い込まれそうになった。
見た目はいい。見た目は。
(いや、"ゲッ"って何?)
およそ客に向けるリアクションではないだろう。
(そもそもお客さんじゃないし……)
そういえば、裏口から入ってくれと言われていたような。まずい、いきなりやらかした。内心慌てている私を知る由もないだろう少年が悪態をつく。
「誰だ、鍵開けたの。まだ開店時間じゃないんだけど」
失礼を凝縮した対応に絶句する私。不意にハッとした。待てよ?この子、どこかで…。
記憶の海を辿っていると、もう少しのところで遮られてしまった。
「スカラマシュ。またお客様を困らせてるの?」
呆れた様子で現れたのは長身の青年だ。くるりとした茶髪に赤いイヤリング、軽い雰囲気の口調…思いっきり偏見だが遊び人臭がする。自分の苦手な空気感を察知した私は、なんとなくスカラマシュと呼ばれた少年の後ろに隠れる。
「なに?僕の背後に回らないでくれる?」
「そういう言い方する〜。すみません、せっかく来ていただいたのに」
苛立ちを隠しきれていないスカラマシュに困ったような顔をした青年が、やんわりと謝ってきた。一見人が良さそうだが…。
(目が笑ってない)
光を宿していない気がする。青年から油断ならない何かを感じとり、私は無意識に身体を強張らせた。それに気づいたのか、スカラマシュが私と青年を交互に見て鼻で笑う。
「君の方が怖いってさ。タルタリヤ」
「ええ!?警戒する要素あった?スカラマシュと違って縦に長いから威圧感あるとか?」
「一言余計なんだよ、毎度!」
「おっと」
スカラマシュが青年──タルタリヤの腹めがけて振りかぶった拳は残念ながら空を切った。「避けるな!」、少年が怒鳴る。ケンカがおっ始められそうな険悪さに慌てていると、聞き慣れた声の救世主がやって来た。
「蛍!どうしてここに…」
「ティナリ!」
なんと、ウェイター姿のティナリだった。彼の後ろからひょっこりと、これまた見知った顔が。
「俺もいるぞ」
「セノまで!?な、なんで」
「バイト先だからな」
セノも当たり前のようにウェイター姿。二人ともよく似合っている、これはさぞかし女性客がついて…。
「じゃなくて。え、じゃあ私の先輩になるってこと!?」
「意味がよく分からない」
「あ、ああ……そうだよね。えっと、私さ」
セノにバッサリ斬って捨てられるのも当然だ、順を追って説明しなければ。だが、その役目は奥から現れた男性が果たしてくれた。
「ふむ、正面玄関から来たか。すまない、分かりにくかったか?」
「あ……!」
「分からないことは遠慮なく言ってくれ。これから共に仕事をする仲間なのだから」
一つに束ねたサラサラの長髪に端正な顔。タルタリヤ同様、すらりとした長身。この男性は鍾離と名乗ってくれた、
「店長!お、おはようございます、この度は雇ってくださりえっと、あの」
「堅苦しい言葉はつかわなくていい。皆にもそう言ってある」
「……!」
淡々と告げられたが、店長に敬語なしだなんて。ただでさえ面接時から神様じみた風格を漂わせているというのにそんな恐れ多いこと、とてもではないができない。
しかし、石像になりかけている私の横からスカラマシュが憎まれ口を叩いた。
「新人が来るなら言ってよ、客かと思って無駄に苛々しちゃったじゃないか」
「言い忘れていた、すまない」
「全く……」
至って普通に返答する鍾離店長。本当にこんなノリでいいんだ……。
(それにしても)
私は、生唾を飲み込んで同僚たちを見渡した。
「店長じゃなくて、先生って呼んであげたら喜ぶよ」
ヘラヘラと笑う遊び人(仮)のタルタリヤ。
「足引っ張ったら地獄に落とす」
仲間のはずなのに殺意を向けてくるスカラマシュ。
「無理だけはしない方がいいよ」
常識人オーラで安心するが知り合いで気まずいティナリ。
「いいか?肩に力が入るならこの話を思い出せ。昔とある行商人が…」
笑えない上に場違いな冗談を言う、知り合いで気まずい第二号なセノ。
(大丈夫なの、かな……)
やっていける自信がない。店員の下調べもしておくべきだった気しかしない。
私は、一抹も十抹も百抹もある不安を抱きながら深々とお辞儀をしてこう言った。
「蛍と申します。これからよろしくお願いいたします……」
波乱の大学生活が幕を開ける──。