プリマ・ステラの秘密「お気をつけください、将軍。嫉妬というものに。それは緑色の目をした怪物で、ひとの心を嬲りものにして、餌食にするのです。」
__シェイクスピア「オセロ」より
夜、ヘラクレスの神殿で耳を澄ますと、たまに何処からか歌う女の声がすると言う。
それについての話である。
昔々、とある豊かな国の国王と妃の間に、娘が生まれた。月の光のような黄金の髪の毛に、淡雪のごとく白く輝く肌、薔薇も恥じらう真っ赤な唇を持つ、まるで夕日のように美しい姫君だった。
その美しさは瞬く間に国内外へ広がり、ついには天界までも動かした。愛と美の女神アフロディテとその部下である三美神が、彼女の生誕祝いの宴に訪れたのだ。
「…あら、まあ、なんて美しいんでしょう。ほら、貴女たちもご覧なさい」
「本当ですわね。なんて愛らしい子かしら」
「この花の零れるような笑顔」
「きっと世界一幸せな女の子におなりになりますわ。ねえ、アフロディテ様」
「…ええ、きっと…」
彼女たちはこの王女をいたく気に入り、それぞれ彼女に贈り物を授けた。
愛欲の女神エウプロシュネは「愛に満ちた人生」を。
「どなたからも愛されて、幸せにお育ちになりますわ」
純潔の女神タレイアは「純真さ」を。
「あなたの魂は永遠に赤子のように清く美しく、きっと誰にも穢されないわ」
美の女神アグライアは「優しさ」を。
「いつまでもいつまでも、幸せでありますように」
そしてアフロディテは、愛と美の女神としての最上級の贈り物を。
「皆の者、よくお聞きなさい。私から王女様に、特別な加護を授けましょう。
この子の涙は乾いた土地に雨を齎し、歌声は花を咲かせ、そして笑顔は、天上天下あらゆる苦痛や困難を癒すでしょう。陽の当たる場所にいる全ての生き物に愛される娘になりますわ」
という加護と、アフロディテの血、そして名前である。
その日から、王女は「メグ」と呼ばれるようになった。(本当はアフロディテは真珠を意味する「マルガリタリ」と付けたかったのだが、この国の人々には少し発音が難しかったようで、苦肉の策としてメグと名付けた)
美しい王女の誕生、そして女神からの加護を受けた王国は幸せに満ち満ちていたが、それはそう長くも続かなかった。
運悪くも、美しき王女の噂は、天界の日陰者、冥府の番人ヘカテにまで伝わってしまったのだ。お花畑…平和主義で不用心な冥王妃・ペルセポネによって。
「…ヘえ😃そんなに美しいんですか、その人間の娘は」
「ええ。もう、『花も恥じらう』って、あんな娘(こ)のことを言うのね、きっと。唇は赤い薔薇みたいで、鈴でも転がしたみたいに愛らしい声で笑うのよ。あなたも見に来れば良かったのに!でも仕事だったんだものね、仕方ないけれど…
それでね、あのポセイドン様と奥様も、一目ご覧になったと思ったら、トリトン様の婚約者に相応しいと仰ったらしいのよ!」
ヘカテはその血染めの赤黒い長髪を鬱陶しげに掻き上げ、リリーの香りのする紅茶に口を付けた。
彼女は徹底した合理主義である。本当ならば冷まして飲まねばならない熱い紅茶も、必要量以上の糖分や乳脂肪も、このように結論のない会話なども「無駄」とする気質にあるのだが、直属の上司たるハデスに「妻の話し相手になってやってほしい」などと言われれば断れないのだ。ヘカテにとっては、冥王ハデスの機嫌を損ねるのが一番避けるべき「無駄」なので。
「なんとも気の早い話ですね😃トリトン坊ちゃんはまだ生まれたばかりでしょうに」
「そうでしょう?トリトン様はまだほんの377歳よ。婚約者を決めるにしても早すぎるわ…
それにね、なんでも、アフロディテ様が直々にご加護を授けられたそうなの。アフロディテ様が、人間の娘によ。信じられること?」
ペルセポネもまた、アフロディテに負けず劣らず美しいものを愛する女神であるためか、それとも、ヘカテが珍しく自分の話に興味を持った素振りを見せてくれたのが嬉しかったのか…とにかく彼女の口調は、いつにも増して興奮気味だった。
「アフロディテ様が。そりァ、マア、珍しい」
「そうでしょう?しかも『陽の当たる場所にいる全ての生き物に愛される娘になる』なんて、ありったけのご加護を。美と愛の女神からの最上級の贈り物と…それと、彼女の血を。人間の赤ん坊によ…」
「へえ。それは、成程」
…ヘカテは、天界での自分の地位の低さを憂えていた。優秀かつ巨大で強大な魔力を持つ「無敵の女王」たる自分が、冥界でハデスやペルセポネの部下に甘んじ、月へ冥府へ海へ地上へと駆けずり回らされ、裏では密かに「全自動書類作りマシン」などと揶揄され、挙句の果てには聞かん坊ばかりの魔物や死神、魔女どもの世話まで押し付けられるこの状況を恨み、人知れず神々に対する復讐の好機を伺っていたのだ。
ヘカテがその大きな翼を翻すと、よく分からない薬品と錆びた鉄のような匂いが鼻を突いた。
「それはそれは、大層な"ご偏愛"で…」
「あら、ヘカテ?どちらに行くの?」
「…失礼、奥方さま。用事を思い出しまして」
そして、王女の1歳の誕生日、新月の夜に、部下である死神・タナトス、ケル、モロスを引き連れて、ヘカテは王国に降り立ったのである。
この美しい王女を使って、天界を__ついでに人間界も__混乱の渦に巻き込んでしまうために。
「…ああイヤ、えー、どうもどうも、こんにちは😃イヤ今日はいつにも増していい天気だ!王女殿下の"特別"な日を、天界でもみなで祝っているかのようでございますね!
まあ、それにしても随分盛大なパーティーですこと。こんなに豪勢なのは世界恐慌以来かな。ァまだ起こってないか。失礼、忘れてください…これ何のお祝いですか?初めて素足でカメムシ踏んだとか?ァ違う。そうですか。ああ誕生日。こりァまた、失礼。冥界には誕生日を祝う習慣がないモンで。ああアフロディテですか?あの方はちょっとマア…"お忙しい"みたいでね。代わりに王女殿下にお祝いの品を預けてくるように私が、この私が!月の女王・魔女たちの守り神、ヘカテが、頼まれたンですよ。
…で、殿下はどちらに?😃」
ヘカテが歩みを進めるごとに、リリィの咲き誇る真夏の宮殿に霜が降り、死神たちの真っ黒いマントが大理石の床を撫でると、石はたちまち腐り、土塊と化してゆく。
「っい。いいえ、女神様。お祝いは結構。お気持ちだけで充分ですわ。去年、充分すぎるほど頂きましたから…
それよりも、ワインは如何でしょう。我が国で採れた白葡萄を__」
聡い王妃は、神様の機嫌を損ねないようにと、優しくヘカテを饗そうとしたが、彼女はそれを受け入れず、冷たい瞳で王妃を睨めつけた。宮殿の大きな扉から、冷たい隙間風がビュウビュウ吹き込んでゆく。まるで真冬のように凍てつく風であった。
「__あら、そう。」
…彼女の、鋭い矢尻のような眼差しは、見るもの全てを凍り付かせるようだった。
「そう。私からの贈り物は受け取りたくないのね。そうよね。冥界の嫌われ者、ヘカテからの贈り物なんて、穢らわしくて王女様に触れさせたくもないわよね。あなたがたにはアフロディテ様の御加護がありますもの。こんなもの無意味よね。私が贈り物をするのもここに来たのも生まれてきたのも全て無意味だって言うのね。誰にも必要とされてない私なんか死ねばいいんだわ。冥界に閉じこもって、誰にも会わず誰とも関わらずにケロベロスにでも首を食いちぎられて死ねばいいのよね…😢」
「あ、あの、女神様。ヘカテ様。わたくし、あなた様を傷付けるつもりは全く」
ヘカテの腰に携えられた短剣が、夜闇の中でテラテラと赤黒く輝いている。
「…いいのよ女王様。国を守るのが王族の役目、子を守るのは親の役目ですもの。あなたが正しいのよ。私はちっとも傷ついてはいないし、ほんの少しも怒ってはおりませんことよ。」
「ほ、本当に…?」
「ええ。ええ!本当ですとも」
___その証拠に、ほら。
ヘカテの手に握られた松明が、禍々しく輝く。
「皆の者、よく聞くがいい。冥界の番人ヘカテより、親愛なる王女殿下に贈り物と__武器を授ける。
殿下はアフロディテの加護に違わず美しく、幸せにお育ちになる。まるで花のように。まるで大河のように…」
禍々しい緑色の光が宮殿を包み、ヘカテは無感動に笑った。
「す、素敵な贈り物ですわね。ヘカテ様」
「…ええ、そうよ。
…彼女の美しさは歳を重ねるごとに輝きを増すだろう。輝く瞳は神をも狂わせ、甘美な香りは男たちの劣情を煽り、彼女に触れられればゼウスですらたちまち正気を喪うほどに…
そして16歳の誕生日、花の盛りに、その美しさは、嫉妬心と欲に溺れた男たちの醜い争いを招き、その罰を受けることとなるだろう。以上、御機嫌よう😄」
ヘカテはこれだけ言うと、煙のように跡形もなく消えていった。
後に残ったのは絶望と、不安と、大いなる恐怖だけ。国王と王妃はヘカテの授けた「武器」の恐ろしさに慄いた。それもそのはず、世界で1番幸せになるはずだった我が子が、世界に幸せを届けるべく生まれてきたはずの我が子が、恐ろしい兵器に変わってしまったのだから。
加えて、姫を見るヘカテのあの眼。刺すような、氷柱のようなあの視線。冥界というのは、一体どれほど冷たい場所なのかしらと、王妃は身震いした。
「…陛下」
「…」
「陛下、陛下!…あなた!姫は」
「…アレは」
「あなた」
「アレはもう、私の子ではない」
…
メグは、王国から追放され、高い塔の上にひとりで暮らすことになった。誰も彼女の姿を見てしまわないように。誰も彼女に触れてしまわないように。
王妃は産まれたばかりの我が子を手放すことを強く拒んだものの、国王に「ヘカテの呪いの餌食になった」とされ、3日後に断頭台へ送られた。
数日後、久しぶりにあの王女様のお顔を眺めながらお茶でも飲もうかしらとウキウキ王宮を訪れたアフロディテは、その変わりように、驚きのあまり暫く取り乱してしまった。
王女はどこかへ消え、あの優しく聡明なお妃様もどこにも見当たらない。毎晩のように楽しげな音楽が響いていたボールルームには、死刑囚のような顔をした使用人と、処刑人のような目つきの王様がいるだけ。
王女様に何があったのかと尋ねても、皆「あの子の話はしてはいけない決まりになっている」と、堅く口を噤んだまま。
「どうせ明日処刑されるから」と、やっと口を開いた国民も、多くは語らなかった。
ヘカテ。呪い。16歳の誕生日。塔に幽閉された王女。そんな恐ろしげな言葉ばかりが、アフロディテの混乱した頭の中で渦を巻く。
「女神様も、お気をつけになった方がいい。あの子はもはや、ただの怨霊だ」
「…そんな、では、あの子は」
「…………、…はあ。
山を越えると、港が見えるでしょう。あの辺りに、ウンと高い塔がありましてね。なんでも、どこかの国のお姫様が幽閉されているとか何とか…もしかしたら、もう手遅れかもしれませんが、私だったら、__たとえ手遅れだったとしても__絶対に近付きたくはありませんね」
アフロディテはその死刑囚を檻から出してやり、褒美をとらせ、沈みゆく太陽の十倍は夙く走り、メグの元へと向かった。
どうかどうか、間に合いますように、どうか生きていてくれますように、と、祈るような気持ちで。
高い塔をよじ登り、揺り篭を恐る恐る覗いてみると、メグはかろうじて生きていた。噎せ返るような花の香りのする、この独房で。
ダリアや薔薇の花が、まるで彼女を守るかのように見事に咲き誇り、朝露が真珠の頬を濡らしている。「幸せ」という言葉をソックリそのまま写し取ったように美しい光景だった。
「メグ。ああ!生きていたのね、良かった…」
風邪を拗らせたのか、揺り篭の中でケンケンと肺の悪そうな咳をするメグを、この性根の優しい女神はどうしても放っておけそうになかった。
食事を与え、暖かく清潔な布でやさしく包んでやり、頬や瞼をフワフワ撫でながら、とびきり柔らかく丸っこい声で…こう、語りかけたのだ。
「…ねえ、メグ。かわい子ちゃん」
「ァんぶ」
「あっコラ髪の毛にヨダレ付けないで。もう…
…ねえ、メグ、今からお前は、わたくしの娘よ。わたくしは、お前のお母さま。いいわね」
「ぶぅ」
「ママの方が呼びやすいかしら。ママとお呼び」
「…」
「聞いてるの?」
アフロディテはメグを引き取り、自分の娘として育てることにしたのだ。