何年片想いしていたか正直もう覚えてない。
正確にどの瞬間好きになったのか、いつから好きになったのかわからない。気づいたらその感情は育っていた。大人になればそれは自然と消えて、そういえばそんな事があったなと一人笑っているものだと思っていた。
けれどむしろそれは消えることなく、子供の時には綺麗だった感情はどんどんと汚く見せられないものへと変化してしまった。好きという感情を隠すのは上手くなったものだが、蓋をするのが段々と難しくなってきた。
「…初恋を忘れましょう…か」
瓶のラベルにそんなフレーズが載っている。
錠剤が入ったそれを悪戯に持った。
正規の薬屋で買ったものではない。明らかに闇市らしきもので手に入れたものだ。こんなものに手を出してしまうほどには俺はおかしくなっている。これでただの同級生へと戻れるのならいいそう思って手に取ってしまった。店主を脅して聞き出した成分表には毒草などは入っていないし死にはしないだろう。あぁでもこれで死ねるのなら案外楽かもしれない。
「…何考えてんだ。死ねるわけないだろうが」
俺にはやる事がたくさんある。それにこんな俺にあいつは涙を流してくれるだろう。そんなのはダメだ。
「毎日服用…一日、四錠」
好きな人の想いを忘れたい。嫌いになりたい。
そんな悪魔(ヒト)にオススメです。
毎日服用しましょう。一瓶を飲みきったら好きという感情がなくなります。そんな説明文を軽く読んだあと瓶をあけて薬を出す。薄紫色の錠剤をじっと見つめたあと、勢いよくそれを口に入れた。水で流し込んでも独特な薬草の匂いが口に残る。好き好んで飲みたくない味ではあるなと上の空で考えてゆっくり蓋をして鍵のある引き出しに隠すように仕舞った。
「…即効性ではないか。毎日服用って書いてるしそれもそうか」
いつ効果が出る?いつ忘れられる?いつただの同級生へと戻れる?
「…早くしてくれッ」
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服用を始めて一週間が経った。特に何か大きく変化したことはなかった。所詮そんなものかと肩を落としたが一つだけ自分の中でなくなったものがあった。
__シチロウの夢を見なくなった。
ほぼ毎日のように見ていたシチロウの夢。一緒に出かけたり、想いが通じあったり、ただシチロウに愛してると言われ、そして肌を合わせる邪な夢を。それがこの一週間一度も見ていない。好きではなくなるということはここからということなのだろうか。
「(なら効果は一応出てるということか)」
残業を一人でする中、出来上がった書類をまとめながら先のことを考えた。
「カルエゴくん」
「!!」
トントンと書類を合わせていると後ろから銀色の長い髪が鼻にかかった。マスク越しの声が低く話しかけてくる。
「もー残業してたの」
「…シチロウかどうした」
「……どうしたって今日は約束の日だよ?」
「…は?」
約束?約束…あぁそうか今日は週末だ。いつもシチロウと飲む日だ。
「日にち感覚分からなくくらい忙しかったの?」
「みたいだ、詰め込みすぎた。完全に忘れてた。悪い」
「いいよ。お仕事終わった?」
「あぁ」
「じゃあ今から行ける?」
「あぁ」
「今日はどっちの家がいいかな?」
「お前ん家がいい」
「そ、わかった。何買って帰ろうか。あ、前食べに行ったお肉屋さんテイクアウトできるようになったんだって」
「ほぅ、いいじゃないか。それにしよう」
「美味しかったもんねぇ。個室で綺麗で…食べにもまた行きたいなぁ」
「なんだそっちの方がいいのか」
「行きたいけど今日は約束の日、お家で飲む日だよ〜。食べに行くのはまた今度がいいな」
「お前がそれでいいならいいが…あぁならワインを買い足そう」
「家に一応前のが残ってるけど?」
「違う、あの店と同じヤツを買うんだ。なら少しでも気分を味わえるだろ?」
「ふふ、そうだねぇそうしよっか」
ただワインを買うだけなのに、シチロウは頬を染めて笑った。何がそんなに嬉しいのか。
あぁけど俺はそんなアホ面にいつも心が暖まる。
「…?」
いつもならここで苦しいくらいに鼓動が激しくなる。けれども俺の心音は偉く大人しかった。手を当てて確認してもそれは規則正しく音を鳴らしている。
「カルエゴくんどうかした?」
「いや大したことじゃない。気にするな」
「そう?」
シチロウといて久方ぶりの楽な体だ。
「(…そうかこれが好きではなくなるということか)」
それは少し寂しいような
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シチロウの姿が見えれば、頬が歪んだ。
シチロウに笑いかけられればその日は機嫌がよかった。
シチロウの匂いがすれば安心した。
シチロウが隣にいれば体が熱くなった。
シチロウと呼ぶ声は自然と柔らかくなった。
シチロウを好きになって俺は少し変わった。
ワイングラスを揺らしながらぼーと考える。
前には肉汁を垂らしながら肉を頬張るシチロウがいる。
「美味いか?」
「うんッ」
「俺しかいないんだからそんな慌てて食うな。喉詰まらせるぞ」
「んぐ…カルエゴくん今日あんまり酔ってないね?」
「そうか?ペースはいつもと変わらないはずだが」
「んー確かに変わってないんだけど…なんていうかピーンってしてる」
「なんだそれ」
「なんて言うかね、家で飲んでるのに外で飲んでるみたい」
「?」
「何かあった?」
「いやお前が言ってることがわからん。…あぁけど確かにいつもより意識はハッキリしてるかぁ?特に意識はしてない」
「そう?ならいいんだけど」
シチロウが言う通り確かにいつもよりは酔いは回ってない気がする。ピーンというのは気を張っているということだろうか。相も変わらずシチロウの表現は大雑把すぎる。
酒も料理もいつも通り美味い。
ただ違うのは、シチロウの隣にいて体が落ち着いているということだけだ。
「(それが酒の酔いと関係してるとは思わないし、ただ気持ちが落ち着いてるからそう思われてるだけなのかもしれんが…そんなことコイツに言ってもな)」
「結構好きなんだけどなぁ」
「んぶッ」
好き、そんな単語のせいでワインが器官に入って思わず胸を叩いてるとシチロウは気にした様子もなく言葉を続ける。
「カルエゴくんが酔ってるとこ」
「…そんな変わんないだろ」
「えー変わるよ?何か念子さんみたいな甘えた声出すとことか」
「捏造するな」
「事実なんだけどなぁ」
「……おい待てまさか俺は外でもそうなのか」
「ううん僕の前だけ」
「そうかならいい」
「あとね、顔がとろーんってなるとこが…えーと面白い」
「あ"!?」
「怖い怖い。まぁ冗談は置いておいて、キミ本当に大丈夫?」
「だから酔いは…」
「酔いの話じゃないよ。キミの話」
「ッ」
目を少し細め、探るようにシチロウは俺を真っ直ぐ見てくる。何かを発すればすぐに綻びを見つけて追求するために。じっと強く見られ邪な感情が影を落とすとバレてはいけないと震え、目を逸らした。
「何かあったでしょ」
「…別に」
「へぇ僕にそれ言うの」
「……」
「ここ数日だよねキミの様子が変わったの」
「…酒が不味くなるからヤメろ」
「キミが言ったらね」
「…言いたくない」
「………はぁ」
カチャリと音を鳴らし、フォークとナイフを置くとシチロウの手が俺の頭へと伸びる。小動物を触るように優しく頭を撫でてきた。暖かくて気持ちのいい、ウザイくらいのデカい手のひら。いつもなら目をゆらしてしまうくらいに動揺して、嬉しいと心を踊らせてた。自分の体温でのぼせそうにもなった。
「………やめろ。ガキ扱いするな」
けれど今は___何も感じない
「…これ以上はもう無理には聞かないけど、一人で抱えれなくなったらちゃんと言ってね。少しでもキミの辛いものを一緒に持ちたいから」
「……ぁ」
小さく声が漏れた。大きな耳はその情けない声を聞き逃すことなく、優しく「なぁに?」と言って微笑んだ。
「………さ…みしぃ」
「そっか」
思わず自分の口を手で塞いだ。俺から出た情けない言葉に俺自身もついていけてないのに、シチロウはただもう一度頭を撫でてきては、おいでよと手を広げ俺を呼んだ。デカい図体が俺の体を包む。よしよしと子をあやす様に大丈夫だよなんてセリフを吐きながら、俺の背中を摩った。
「ここ最近仕事詰め込んじゃってたもんね。疲れちゃったのかな?大丈夫だよ、今は僕がいるから」
「……」
こんな風に優しく大事に抱き締められると、たまらなく幸せになってそしてこんなことを誰にでもするのかと心を痛め、同時に緊張して鼓動は煩くなっていた。そのどれもが何も無い。それがたまらなく虚しい。心に大きな穴が空いたようなそんな感じがして、シチロウに今抱き締められ頭を撫でられ、優しい声が耳に届いても俺の心は至って冷静だ。その寂しさは埋まらない。
「(好きではなくなるとはこんなに寂しいものなのか)」
これならばいっそ好きの我慢を自分ですればよかったとさえ思う。けれどそれを上回るのは早く楽になりたいというワガママだ。
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服薬を初めて更に一週間が経った。あれから変わったのはシチロウを見つけても喜ぶことはなくなったことだ。
今日は週末、予定は相変わらずない。いつも通り家に速攻帰って俺は制服を脱いだ。
瓶のラベルを変えておいた。もしシチロウに見つかった時ようにカモフラージュだ。まぁすぐにバレるだろうが年為とラベルをただの「眠剤」へと変えた。あと一つの理由としては俺がそれを見る度に少し躊躇してしまうからだ。これに変えて少しでも飲みやすくするため。段々と幸せな気分を自分で消していっているのだ、踏みとどまってしまうのは当たり前だろう。
毎晩寝る前に服用にして、眠剤へと近づけた。
瓶を開けて、四錠取り出しては俺はまたそれを飲んだ。残りあと計算ではあと一回分、上手くいけば明日にはこの感情とは完全におさらばできる。
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「な〜んか最近カルエゴ先生ピリピリしてません?」
「特になにもありませんが」
週明け、いつも通りに仕事をしていて放課後になると、書類整理をしている俺にダリ先生がウザ絡みしてくる。椅子ごとこっちに来るな。
ピリピリなどしていない。むしろ清々しいとさえ思っているのにやはり俺を理解する奴はいない。いてたまるかと眉間に皺を寄せた。
「あ、今日バラム先生と帰ります?よかったらこれ渡しといてもらえません?」
そう言いながらダリ先生は書類の束を無理やり俺の胸に押し当ててきた。だからコイツは嫌いだ。
「自分で行ってくださいッというか私は__」
「あ、どうやら来てくれたみたーい」
くるりと椅子ごと回ると入口で大男が立ってはこちらを見ていた。こちらに優しげに手を振ってきてはゆっくりと近づいてくる。
「ね!ね!カルエゴくん!!今面白いもの見つけたんだ少し来てくれない?!」
ググと体を近づけては長い銀色の髪が鼻をくすぐりさらに深く俺の眉間の皺は深くなった。
「粛に。貴様…いきなり馴れ馴れしいぞ」
「___へ?」
「新任か?にしては若くないが」
「カ、カルエゴくん…?」
「なーに?やっぱ機嫌悪いんです?カルエゴ先生。バラム先生にそんな態度なんて」
ピョンと飛ぶように椅子から立ち上がるとダリ先生は俺と男の間に入った。
「はぁ…あぁお前がバラムか。先のことは許してやろう。で、なんですか」
「ぁ…」
「なーに初対面な言い方してるんですか?そういう遊び?珍しいですねぇ」
「遊びも何も初対面なんですから、そういう態度取りますよ」
「どーせそんな嘘バレちゃいますよぉもーカルエゴ先生らしくないなぁ」
「………………ダリ先生…どうやら嘘ではないみたいです」
「___え?」
大男は体を小さく丸め、目線を落とすのをダリ先生は顔を引き攣りながら見つめた。長い髪のせいで顔が見えないがどうやら落ち込んでいるらしい。
「引っかからないんですか…?虚偽鈴(ブザー)に…?」
「___はい」
ふざけた顔はいきなり真っ直ぐ見つめてくるとダリ先生は強く俺の腕を掴んだ。
「…カルエゴ先生、とりあえず保健室いきましょうか」
「_は?別に私は何も」
「何も無くないんですよ。特にあなたにとっては自分より大事にしてることを忘れてるんです」
「は?」
えらく冷静なダリ先生の顔に思わず体が固まる。滅多にしないその顔が状況に真実味を出した。
___俺はこの男のことを忘れたということ
保健室に数名の教師が集まっていた。先の騒ぎのせいとこのダリ先生の雰囲気のせいでだ。
椅子に座らせられるとモモノキ先生が少し涙目になりながら俺に解読魔術を施した。
「……酷い。回路がめちゃくちゃです。正確な組み方なんてしてない。素人が作ったものです。私たちで解くのは難しい…」
「……カルエゴ先生がそんな魔術に引っ掛かるなんて信じられないけど実際かかってるわけだし…どうしようか」
「…特に今のところ支障はないのでもういいですか」
服を少し整えると立ち上がる。
俺が魔術にかかっている?そんなわけが無い。そんなものにかけられた記憶すらない。というかそんな事実があるだけで腹ただしい。
「バラム先生には申し訳ありませんが、彼だけを忘れているのならそこまで問題はないでしょう」
じっと黙って下を向き続けるバラム先生の前にやってくると彼は少し体を震えさせた。
「…あなたには不快な思いをさせてしまうが許してくれ」
「…………はい」
「この件は私は自分で調べますので、皆さんもこれ以上は関わらないでください。大丈夫ですので」
明らかに皆不愉快そうに顔を歪めた。何やかんやで面倒見がいい人達が多いからな。少しだけ申し訳なく思うが、これは俺の問題だからと襟を正した。他の者より一段と落ち込んでしまっているバラム先生は顔を見ようともしてくれない。彼には本当に悪いことをしてしまった。少し素っ気なすぎたただろうか。しかし彼の性格も何もわからないし、俺と彼の関係性もわからない。どう声をかけてやるのが正解かわからないから仕方がないだろう。
「はぁ…仕事も片付けてますし、今日はこれで帰宅します。念の為安静にしてますので」
では失礼しますとだけ言っては俺は居心地が悪いその空間から逃げ出すように去った。
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帰宅してから一時間は経った。いつも通りに夕飯を食べ、音楽を聴きながら本を読む。
魔茶を飲みながらソファでゆっくりと本のページをめくった。
「……こんな味だったか?」
確かに家で飲む味とは変わらない。しかしいつもよく飲んでいた味ではない気がした。俺がいれたこれは少し熱めだ。
いつも飲んでいた魔茶は程よい温かさで、あまり俺が買わない味ばかりだった気がする。心も暖かくなってとっても美味かったはずだ。
「…バラム先生だけではなかったのか?俺が忘れたのは」
何か日常までも忘れてしまったのだろうか。
それは困る。これからどんとんと俺自身の記憶に問題がでてきてしまうのは普通にダメだろう。
「しかし魔術にかかった覚えはないぞ。何か他に変わったこと…」
頭を捻ってもその答えは出ない。特に何か変わった行動をとったこともないからだ。
ただ部屋の時計の針の音が響く。この部屋はこんなにも静かだったか。
「…いや何を考えてるんだ。この家には俺しか…」
ゴーンと外のベルが鳴る。こんな時間に来客とは誰だと、溜息を零しながらゆっくりと立ち上がった。
「…雨か」
窓から見えた景色はいつの間に雨に染まっていた。早めに帰宅していて正解だったなとゆっくりと玄関に向かい扉を開ける。
「!!…バ、バラム先生どうしたんです」
「…今お邪魔してもいいかな」
長い髪はすっかり雨に濡られ元気を無くしている。顔に張り付いた髪を払うことなく視線を落としてきた。影を落としたそれに思わず身震いをしてしまう。その雰囲気だけで彼の階級(ランク)が俺に近いと予想ができた。
「……連絡せず来訪は非常識じゃないですか?まぁ流石にそんな状態で帰れとも言いませんが、タオルを用意するので少し待ってて下さい」
「うん」
「なんなんだアイツはッ!!」
忘れられたのがそんなにムカついたのか?わざわざ人の家まで押しかけてきて何しに来たのだ。ドンドンと足音も大きくなるものだ。勢いよく浴室に入りタオルを仕舞っている棚を開けた。
「……こんなの持ってたか?」
それは俺の体には似つかわしくないサイズのものだ。サイズを間違えて買ったことがあったのか??そんなことも俺は忘れてしまったのか?
「まぁいいアイツに丁度いいか」
まずは体を拭かせて、あぁ脚用にもタオルを用意しなくては。それから茶でも出せば満足するだろうか。それともアイツにまた謝ればいいのか?忘れてしまって申し訳ありませんと?
「なんで俺がそこまでしなくてはならん」
はぁとまた溜息が出る。魔茶を飲んだあとはゆっくり風呂に入り寝るだけだったのにとんだ邪魔者が来たものだ。
再び玄関に戻るとあの男はまだ下を向いたまま固まっている。なんなんだ。本当に何を考えてるかわからないやつだ。
「どうぞ」
「…ありがとう」
タオルを受け取ると彼は黙って頭を拭いた。それを見ながら俺は壁に凭れては腕を組み彼に問いた。
「…何しに来たんですか」
「キミが心配だったから」
「ほっておいて下さいと言いましたよね?」
「…それでも心配だから」
「はぁ…あなたの事を忘れてしまったのは申し訳ないとは思っています。けれどこれ以上関わらないでもらいたい。私の問題です」
「少しでもキミの辛いものを一緒に持ちたいって言ったから」
「は?」
ゆっくりと頭からタオルを取ると彼はそれを抱きしめる様に持った。今にも泣き出しそうな顔で見つめてくるものだから、微かな良心が痛む。
「…これね、僕用なんだよ。カルエゴくん家によく遊びに来るから僕がお風呂入るように置いてくれてたんだ」
「……」
「……いつもならね、この玄関の端にタオルが敷いてあるんだ。僕が脚を拭くようにって…いつ来てもあったんだ…今は…ない…ね」
ポツポツとバラム先生は話し出す。潤んだ瞳から一筋、涙を零すと床を見た。
「ねぇカルエゴくん、本当に僕のこと忘れちゃったの?」
「ッ……な、泣かれても困ります。というか男がそんなメソメソするな情けない。覚えてないと何度言えばいいんですか」
「……うんそうだね…キミは何も嘘をついてない。…本当のことだってわかってるんだ」
大きめなタオルは床に落ちると同時にゆっくりとバラム先生の手が伸びてくる。彼の手が俺の頬に触れようとした瞬間に咄嗟にそれを強く弾いた。
「__気安く触れるな」
「ッ…」
「俺に触れていいのは"アイツだけ"だ」
「え…?」
「は…?」
アイツ、あいつ?アイツとは誰だ。自然と出た言葉に俺自身が首を傾げる。その言葉を聞いたバラム先生は俺よりも目線を泳がせていた。
しばらく二人のあいだに沈黙が続き、それを破ったのは俺の方が先だった。
「……魔茶一杯だけ飲んでいってください。今火の魔術で服は乾かしますから、飲んだら傘でも何でも貸すからさっさと帰れ」
「……うん」
手のひらに炎を宿すと、それは糸のように広がり、バラム先生の周りを漂う。どんどんと彼の服や髪は乾いていったのを確認すると俺はもう一つ持っていたタオルを彼に投げるように渡す。
「敷いてなくてすみませんね。どうぞこれで脚拭いてください。私の家来たことあるんですよね?なら客間に勝手に来てください」
ではと彼に背中を向けて俺はキッチンへと向かった。本当は勝手にされるのは嫌だが、これ以上このしみったれた空気にいるのは堪らなかった。イライラする。
キッチンにたどり着いて客用食器が置いてある棚を開ければ、また見覚えのないコップが一つあった。明らかにサイズがデカい。なるほど過去の俺はどうやらアイツに専用湯呑みまで用意していたようだ。
「__……流石に言いすぎたか」
過去の俺がそれほど気に入っていた奴ということだ。ならアイツにとっても俺に忘れられたのは確かにキツいものなのかもしれないなと形だけ反省して、詫びとして風呂上がりに食べようとしていたフルーツを出すことにしてやろう。
「カルエゴくん」
「!!」
彼の声に思わず体が反応した。勢いよく振り向けば体を丸めて、下を向いてそこにいた。
__今少しだけ胸が鼓動が大きく跳ねた。
いや驚いただけだと首を振る。
「……客間にいてくれって言いましたよね」
「今のキミとは少しも離れたくないから」
「はあ?」
「魔茶は僕が準備するから」
「客にそんなことさせられませんよ」
「……僕はこのキッチンに何があるか全部わかるよ」
「__だとしても今の私は客にプライベートを勝手に触れるのは嫌です」
「僕は!!お客様じゃない!!」
先程までモジモジとしていたくせにいきなり大声を出しては彼は俺を睨んだ。
前言撤回、コイツに詫びる必要などなかった。
「えぇそうですね、客なら休息を取るとわかっている同僚のところにくる非常識なことしませんね」
「ッ」
「ならもうお前を建前でももてなしてやる必要もないな」
勢いよく棚の扉を閉めると先程のおかえしで強く彼を睨む。
「ささっと帰れッ!!!」
「帰らない!!」
「ッ!」
威嚇のつもりで気配を全力で出した。それなのにこの男は後ろに脚を引くことなく、むしろ前に出ては俺の腕を掴んだ。
「キミの様子がおかしかったのは気づいてた。けれどあまり触れて欲しく無さそうだったからあの時は、少し聞いただけだった。今はそれを凄く後悔してる。あの時しっかりキミの声を聞いていたらこんな事にならなかった。__僕はキミを守れなかった」
「……」
デカい手は俺の腕を強く掴む。魔術でもお見舞いすれば、そう思ったが、奴はあまりにも泣きそうに顔を歪ますものだからその手は止まった。俺はこの顔が嫌いだと心の底で訴えてる。この男にこんな顔をさせてしまった自分を恨むくらいには嫌だと警告音が鳴る。
「…離せ」
「離さない」
「…………これでは魔茶も用意できん」
「!」
「………悪かった。言いすぎました」
「カルエゴくん…」
「……まだ私はあなたとどう接すればいいのかわからないんです」
「なら、敬語はやめてよ」
そう困ったように彼が初めて笑った。そんな事でいいのかと俺は小さく頷いた。
「ねぇ今ハグしていい?」
「調子に乗るなッ!」
近付いてくるバラム先生の顎を目掛けて俺の力いっぱい殴ると彼はしゃがみこみ、やっと俺の腕から手を離した。流石に強くやりすぎたかと手を差し伸べれば今度は手を取られ強く握られる。
「…キミが僕を忘れてても僕はキミのことたくさん知ってるから、だからカルエゴくんが知らないことを僕が教えてあげる」
「……」
笑っているくせにポロポロと涙を流し俺の手を離そうとしない彼の視線に合わせるように俺もしゃがみこむ。
「……お前のこと忘れて悪かった。辛いお前のこと考えなさすぎた」
「…うん、いいよ」
「それから_私はお前に守られるほど弱くないぞ」
「そんなの知ってるよ。キミは強い悪魔だ」
「ならあんなこと言うな。お前は悪くないだろ。だから泣くな」
「……うん」
「…なぁバラム、お前は私にないものを教えてくれると言った。なら一つ最初に教えてくれ」
顔を擦っては涙を拭うと、バラムはニッコリと笑った。
「なぁに?」
「…私の好きな魔茶を教えてくれ」
「え?」
「自分でいれたものが何だかしっくり来なくてな」
「……うん、いいよ。僕がいれてあげる。キミが好きな魔茶を」
_______________
他人にキッチンを立たれるは心底嫌だったが、体を丸めてお湯を沸かしている奴の背中を見るのは案外悪くなかった。どうやら過去の俺はだいぶとバラムのことをお気に入りだったようだ。
「(まさか俺がそんなに色々と許してるとはな…)」
「カルエゴくんちゃんと見てる?」
「うるっさいさっきから何回聞くんだ」
「だって急にいなくなってさよならって今のキミなら有り得そうだもん」
「うぐ…」
「お湯湧いたよ。ほらこっち来て」
火がついたらダメだからとバラムは髪を纏めていた。やっとハッキリ見える顔に少し安心している自分がいる。おいでよと手招きされて隣に経つと指差しで教えてきた。
「…魔茶っ葉二つ使うのか?」
「うん、キミが好きなのはいつも飲んでるこれに少しだけこっちの魔茶っ葉を混ぜたブレンドが好きなんだよ」
「…だからこれだけでは少し物足りなかったのか」
「それからお湯は沸騰したてはいれないこと。少し冷ましたものでやると味が濃く出るし、あとキミ少し熱いの苦手だしね」
「…苦手ではないぞ」
「あーなんだっけ。あぁそうすっと飲める方が作業効率がいいとか言い訳してたかなぁ」
「絶対事実だろうが」
「はいはい」
それではとバラムはお湯を急須にいれてじーと少し待つとやっと急須を持った。こいつが持つとただの急須も偉く小さく見えるものだ。
「こ、零さないよーに…零さないように…」
「…おい」
「待って今集中してるから」
「代わるぞ」
「今僕がいれてるの!!」
「……」
コイツ案外頑固だな。
面倒くさそうだ、勝手にやらせておけばいいかとそのうざったい行動をただ見つめた。
「へい!完成!」
「なんだそのノリ」
「カルエゴくんの湯呑み小さいからいれづらいんだよ」
「どう考えても貴様が規格外にデカいんだろうが」
「ふふ、実は僕昔はキミより小さかったんだよ?」
「?」
「僕らはバビルスからの同級生なんだ」
「そうなのか」
「…うん」
俺がそう答えるとバラムはまた目を細め困ったように笑った。その度に俺の心はなぜか縛られる。
奴の答えで一つわかったことがある。俺らの関係性だ。まさかバビルスからだとは、なるほど俺が色々と許している理由は付き合いが長かったからなのかと一人頷いた。
湯呑みを置いたお盆をバラムが持つと客間にではなく、悩んだが居間の方へと案内した。
バラムは客扱いされるのを嫌がっていたから。俺自身もプライベートな空間には入れたくなかったが、それよりもまたコイツのあんな顔を見る方が嫌だと思ってしまった。
ソファの前に湯呑み二つ置くと、俺をソファにバラムは俺の対面に脚を組んで丸まって座った。
「__記憶を無くした理由何か心当たりある?」
「…いやないな」
座った瞬間、真面目な顔して問うてきた。なるほどこれがここに来た本題か。
「前の週末キミと飲んでいたんだ。その時のキミにはきっと心当たりがあったんだと思う。それからこの間の週末にはキミは来なかった。僕らの約束の日なんだ。だからきっとその頃にはもう…」
「…そうか。ということは私はもうだいぶと前から変な魔術に犯されていたということか」
「そうなんだろうね…気づけていたのに…」
「…貴様その顔やめろと何度言えばいいんだッ」
「え!?な、なに僕どんな顔!?」
「私が当事者だというのにそんな私よりも泣きそうで後悔で押しつぶされてる情けない面だ」
「…………うん」
湯呑みを悪戯に触りながらぼそりとバラムは眉を下げた。
「だって僕にとってキミは、自分自身より大切な悪魔(ヒト)だから」
「……ふーん」
「うっわ何その適当な返事」
「よくもまぁそんな恥ずかしいことを言えるもんだなと」
「!!あー!!もう忘れてて!」
「というか、ソレ取らなくてどうやってこのフルーツやらを食べるつもりだ?」
トントンと俺は自分の顎を指で示した。バラムのマスクを外せと伝えると奴は少し体を固まらせた。
「…キミには見せ慣れてるだけど改めるとなんだかな。少し驚かせちゃうかも」
「?」
そう言うとカチャリと金属音を鳴らしてはゆっくりとそのマスクを外す。そこから覗かせたのは肌が少し抉れ、牙がむき出しになった姿。
目線を困らせながら横へと動かすバラムに俺は目を奪われる。
「なんだ、悪魔らしくていい面じゃないか」
「!!」
「…何驚いた顔してるんだ貴様は」
「あー…うんいや、僕との思い出がなくてもキミは同じ言葉をくれるんだなって思ってさ」
「?」
「学生のとき初めて見た時もキミ同じこと言ってさ、普通怖がっちゃうんだよ?皆。けどキミはそう言ってくれた。本心ってやっぱり嬉しいから」
「思ったこと言っただけだろ」
「それが嬉しいんだよ。本心っていうのは一番心に刺さるんだから」
「へぇ私が今建前で言ってるかもしれんぞ?」
「僕にはわかるの。嘘か本当か。そういう家系能力だし」
「……なんだそういう事か。あの時いってたぶざぁ?だったか?それか」
「うんでも_」
髪を揺らしてはバラム頬を少し赤らめては俺に微笑んだ。
「能力を使わなくってもキミが嘘をついてるかなんてわかるけどね。実はキミ嘘をつく時と恥ずかしいことがあると耳が下がるんだ」
「!!」
バッと勢いよく俺は自分の耳を隠した。なんだその情報。なんだその優しい顔はッ!!
少しずつ俺の体温が上がったのがわかった。
「あ、ほら今照れてる」
「ッ〜!!し、粛にっ!!」
「ははッ久々に言われたソレ」
「?」
「あんまりそれ僕に向けて言わないから何か新鮮」
ああまた目を伏せる。何がいけない、何がお前またその顔にさせる。聞き出してみたい。けれどそんな勇気も資格も俺に_ない。
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