うわっ!?と大二は振り返った。大二の驚き方に驚いたのか、相手は壁に鈍い音を立てて肘をぶつける。
「痛ッ」
「えっ、あっ大丈夫ですか!?ヒロミさん」
「っ……。ああ、大丈夫だ。おどろかせて、すまないな」
肘を抑えてかがんでいる様子があまり大丈夫では無さそうだ。上司にはこういうところがある。ほんとすみません、と言いながら大二は慌ただしく立ち上がり、ベンチを左端に詰める。
「座ってください」
もう一度すまないな、と言い、礼を重ねたヒロミが座る。肘に当てていた手をはずし、白いコートをさっと折り込んで綺麗に座る仕草。それを見て、大二はこのひとの復帰を改めて見た気がした。少し年齢を重ねた肌には淡いベージュの細かな跡が重なっていて、それは頬に傷が付くたび、一つ一つを治してきた証だった。
「ああでも、それならやっぱりこっちの方がいいか」
大二の静かな感慨などつゆ知らず、ぽっと呟いたヒロミは、再び立ち上がり自販機の前に立つ。ガコンっと音がして、大二に笑顔で差し出されたのはカフェオレだった。
「無理して飲むものでは無いからな」
相変わらず笑顔が眩しい。べつに普通にブラックはもう飲めて……!の言葉は飲み込んで、お礼を言ってありがたく受けとらせてもらう。
ヒロミが座っていたところにはコーヒーが二缶置いてあって、大二は少し申しわけなくなった。カフェオレのプルタブを起こすと、中から窒素が漏れてぷしゅっと音がする。
「一輝は元気か」
「はい。おかげさまでピンピンしてます」
「さくらも」
「元気すぎるくらいですよ。昨日だってずーっと、ほんとずーっと長電話してて……」
花か、とヒロミが笑う。大二はその通りです、と苦笑した。女子高校生の深夜の長電話は、横並びの三兄妹の部屋の壁をつんざくようにかしましいのだ。兄のように全く気にせずすやすや寝ることも出来ないが、夜だぞさくら、と言いに行くだけの勢いも自分は持ち合わせていない。大二の表情から何かを察したのか、ヒロミがはは、眉尻を下げる。元気そうで、本当によかった。声色から伝わる暖かな温度に、大二はヒロミさんってほんとにいいひとなんだよな、としみじみ思った。
「大二のほうはどうだ?」
「俺ですか?」
「体制が変わってから、あまり顔を合わせていないだろう。気になってな」
大二はカフェオレの缶に目線を落とした。ぽかっと空いた黒い飲み口から、ベージュの液がたぷたぷと揺れている。舌にはまだ、さっきの一口の甘ったるさが残っていた。
「まあ、見てのとおり、忙しくて忙しくてです。休憩時間はぼーっとしちゃって」
「だろうなあ、」
大二もヒロミも、いまは組織の建て直しに奔走している。
フェニックスにしか無かった技術は、組織の瓦解とともに散らしてしまうにはあまりに惜しい。しかも、統率の取れた連隊や手元に残ったベルト、バイスタンプのような危険なものを野放しにはできない。戦いは、終わったあとの方が大変なのだった。
「あんまり根を詰めすぎないようにするんだぞ」
「ヒロミさんが言いますか?」
「俺も気をつけるから……」
目の前の上司が過労死とか冗談じゃない、と大二は密かに思っているのだが、ヒロミはそれを知らない。休憩時間は終わりかけている。腕時計を確認したヒロミは、ぐいっと残りの缶コーヒーを煽った。それを見た大二もあわてて残りのカフェオレを傾ける。少ししか残っていないのに、喉が焼け付くように甘かった。やっぱり今の大二に、このジュースはすこし甘すぎる。
立ち上がったヒロミは、そうだ、と言って残りの缶コーヒーを大二に手渡した。
「飲みたくなったら飲むといい、今の季節ならまだ冷たいはずだから」
「いや、悪いですよ、二本も」
「いいんだ、要らなかったら持ち帰るが、多分お前はそれも飲むんだろう」
不意をつかれて、大二は瞼を揺らした。それを見たヒロミの表情が、すこしやわらかくなる。
「自分がそのとき、そのときで選びたい方を選べばいい。飲めると飲みたいは違うしな」
大二はどうにか、ありがとうございます、と返す。ヒロミは残りもがんばれよと笑い、とんとん踵を鳴らして歩いていった。それを黙って見送る。
ヒロミのこういう、すこし抜けているような、それでいてたまにカキーンとバッティングを決めてくるようなところを、大二は不思議に思う。手元のブラックコーヒーはまだひんやりしていた。
(飲んじゃうか)
大二はえいっとプルタブを起こした。カフェオレよりも強いコーヒーの匂いがする。口を付けてガーッと流し込むと、食道をまっすぐ、冷たい液体が流れていく。苦いけど、もう飲める。
でも、ブラックが飲めたところで、どうにもならないのだ。自分は変わっていない。相変わらず大二は自分じゃ自分がわからない、甘いのも苦いのも、自分ではどうにもできない。こっちも飲めるようになっただけ。選択肢が増えただけで、選びきれないしどっちがいいかも分からない。ヒロミさんがそれに気づいて両方くれたのか、ただ後輩に一本多く飲み物を譲ってくれただけなのかは分からないけど、ほんとの大人には、自分はまだまだそういう扱いだ。そして、それはお子様な自分に妥当なのだった。
(これが飲めたって、仕方ないんだよなぁ)
あっという間に空になった空き缶を見て、大二はため息をついた。