御都合血鬼術御都合血鬼術ー…。
巷ではこの様な術を鬼にかけられて散々苦労したという話を幾度となく聞いた事がある。これがまた男が女になってしまったり二人の人間の身体と中身が入れ替わってしまったり身体が赤子の大きさまで縮んでしまったり二人で小さな箱に閉じ込められたりと実に様々で、その術をかけられたからと言って命に別状はないらしいがこれがまた厄介らしく、似た様な術をかけられたとしても症状は人に寄って少しずつ違っており治療を施すに当たっては毎回その人にあった治療法を考えなくてはならず、その術をかけられた人間が慌てて飛び込む先は大方蝶屋敷と決まっていて、俺の同僚で医者でもある胡蝶しのぶはその様な患者を幾人も診ては様々な思いを巡らせているのであった。
傍目に俺はこんな奇怪千万な術をかけられてさぞかし大変だろうな、と他人事の様に見ていたが、そうやってうかうかとしている間に俺の身近でも大変な事が起きた。
俺が任務で十日程遠征をしている間に俺の生家、煉獄家に鬼が入り込んだのである。家には父と弟がいたが、鬼はあろうことか弟に狙いを定め、この御都合血鬼術とやらをかけた。弟の悲鳴に驚いた父が酔いも醒める勢いで飛び起きて、自身の日輪刀を押し入れから引っ張り出し弟の部屋まで裸足で一直線に庭を駆け抜けて部屋の障子を突き破ると、『炎の呼吸壱の型、不知火』と口にし、そこにいた鬼を一太刀の元に切り捨てた。危うく鬼に喰われる寸前だった弟の目前に、真顔で赤色に輝く日輪刀を掲げ、寝衣の裾をふわりとなびかせる父の褌があった。
「ふん、鬼狩りの家にのこのこ入り込むとは、愚かな鬼だ。」
父は日輪刀を鞘に納めながら吐き捨てると部屋の隅で小さくなって震えている弟に目を向けた。
「怖い…、怖い…。」
「いつまで怯えている千寿郎!この程度の鬼も切れずにお前は今まで何の為に剣術を学んできた!」
父は弟を一喝した後、目に涙を溜めている弟を見て「情けない奴め。」と言い日輪刀を携えて部屋を出て行った。
「…褌…、怖い…。」
その時は父も弟が血鬼術にかけられているとは知る由もなかった。何故なら弟は至って普通だったからだ。傍から見ても弟は無症状で日常と何ら変わりはなく、誰もが血鬼術にかかっているなどと疑うことはなかった。弟すら自分が血鬼術にかかっているとは思っていなかった。だがある日その術は突然発症し、弟をみるみる別の人格へと変貌させていく事となった。
夏は夜明けが早い為任務の時間は短い。俺は遠征を終えた朝、家への帰路を急いだ。早く弟に会いたかった。弟は毎朝門前の掃除をしているから今は丁度その頃合いだろう。箒を手に「おかえりなさい、兄上。」と屈託なく笑う弟の顔が見たかった。
その角を曲がれば家の門が見える、という所まで来て俺は胸を高鳴らせた。あと少し、あともう少しで弟に会える…!そう期待して曲がり角を曲がったがそこには弟の姿はなかった。いつもならいる筈の弟の姿がない…、俺は首を傾げながら正門まで歩き家の中に入った。
「今帰った!」
俺は弟に聞こえる様に声を張り上げた。廊下の奥から弟がトトト、と駆けてくる音がした。きっと朝餉の準備で忙しかったのだろうと思い、自然と口角が上がった。留守の間家を守ってくれた礼に頭を撫でてやろうと考えていた。たが次の瞬間、目前に現れた弟の姿を見て俺は言葉を失った。
「兄上、おかえりなさい、任務ご苦労様でした。」
弟は笑顔で裸体に割烹着だけを身に付けた格好で俺を迎え入れ、片足でくるりと一回転した。膝丈までの割烹着の後ろは首元と腰で細紐を結んでいるだけの為、弟の小さな尻が間から丸出しになっていた。
「千っ…、なんだその格好は‼︎」
「兄上はこの様なものはお好きではありませんか?」
弟はふふふ、と可愛らしく笑っていたが俺は予想外の出来事に眩暈がし、慌てて隊服の上着を脱ぐとすぐさま弟に被せた。
「えっ、どうして隠すんですか?」
「そんな格好で出てこられたら普通驚くだろう!」
俺の隊服の丈が少し短めだったのか弟の剥き出しの尻を完全に隠せてはいなかったが弟はそんな事に気付いてはいなかった。
「そんな…、俺、兄上に喜んで貰おうと思って…。」
尻下半分を晒した状態で涙目になった弟を見て俺は喉をぐっと鳴らした。弟に一体何が起きたのかと思った。任務に出る前は普通に袴姿でいた弟が何故帰ったらいきなりこんな事になっているのか、その時の俺には全く意味がわからなかった。
「待て、千。お前の気持ちは充分わかった。この兄にはしっかり伝わっているぞ。だからとりあえず服を着よう、な。」
「うぅ…、はい…。」
ぐすぐすと鼻を啜る弟を部屋へと送り、任務の疲れがどっと出た俺はまず汗を流そうと風呂へと向かった。弟の部屋から俺を呼ぶ声が聞こえたが先に風呂に入ると伝えると声が途絶えた。
俺は掛け湯をしてからゆっくり湯船に浸かって遠征の疲れをとっていた。逃げるのが上手かった鬼を相手にしていた為担当区域の端まで鬼を追い、やっつけるのに随分と時間がかかってしまった。
ふーっ、と風呂の中で長い息を吐き、脱力状態で浮力に身を任せていると風呂場の戸が突然がらりと開いた。驚いて戸の方を見ると裸の身体の前側を手拭いで隠した弟がもじもじしながら入ってきた。
顔がぴき…、と音を立てて引き攣った。急いで桶の中に手を伸ばして手拭いを掴むと風呂の中に入れて下半身に被せた。
「兄上…、お背中…お流し致します…。」
何があったのだ千寿郎‼︎‼︎
頬を赤く染め、上目遣いで首を傾げながらそう言う弟に違和感を感じずにはいられなかった。
いつもの千寿郎なら俺の裸など恥ずかしがって見ようとしないのに!むしろそうだからこそ見せたくなる…、いや、この話はどうでもいい。千寿郎はもっと初々しくて穢れのない天の遣いの様な子だ。俺の弟はこんな積極的な子では無い!今、目の前にいるこの子は千寿郎では無いっ‼︎
俺は腰に手拭いを巻き付けて湯船から上がると弟を睨み据えて手首を掴んだ。
「お前は弟ではないな、誰が弟に化けているんだ。正体を見せろ!」
弟は身体をびくりと震わせた。
「兄上…、僕は千寿郎で…。」
「嘘をつくな!俺の弟がこんな事をする訳がないだろう!」
「う、嘘ではありません…。本当に僕です…。」
掴んだ手首ががたがたと震え、もう片方の手で押さえていた手拭いがはらりと落ちてその下の裸体が露わになった。
弟は俺の手を振り払い、曝け出された自分の身体の両肩を掴むとその場でしゃがみ込んだ。
「ふぅっ…、うぅっ…。」
弟が泣き出した。自分を恥じるかの様に顔を真っ赤にして震えていた。いつもの弟だった。
「お前は千寿郎で間違いないんだな。」
「さっきからそう言ってるじゃありませんか…。」
俺は涙でぐちゃぐちゃにした顔すら恥じて上げられない弟の肩を抱くと背中をぽんぽんと叩いた。
「俺のいない間に何があった。」
「鬼が家に来て…っ、俺に何か術をっ…。」
「そうかわかった、気付いてやれなくてすまなかった。」
「自分の身体がいう事をきかないんです〜…、うううっ…。」
「もうそれ以上は言わなくていい、あとは兄に任せるんだ。」
ひっくひっくとしゃくり上げる弟を安心させてから脱衣所へ送って今度はしっかり服を着させると俺もすぐ隊服に着替えた。
外に出ると空が曇っていた。今にも雨が降りそうな天気だった。俺は弟の手を引き蝶屋敷へと急いだ。
「して胡蝶、弟の症状は…。」
「間違いなく御都合血鬼術にかかっていますね。」
「やはりか。」
弟を隣の部屋へ寝かせて胡蝶に診断結果を聞いた俺は溜息を付いた。
「煉獄さんと千寿郎君の話と私の見立てから推測すると…、千寿郎君は煉獄さんの前で新妻行動を取ってしまう血鬼術にかかっています。」
「何だその新妻行動とは。」
「何って、言葉の通りですよ。結婚したばかりの妻が夫に対して取る行動ですよ。煉獄さんもしかしてわからないんですか?」
「むぅ…、宇髄に聞いたことはあるが…、あの裸割烹着とか頼んでもないのに勝手に背中を流しにくるとか、…正にそれか!」
「ええ、あの帰宅した旦那さんに夕餉かお風呂かそれともわ・た・し?とか言う古典的なアレですよ。」
「何という不届きな鬼だ!その場に俺がいたら瞬殺してやったものを!」
「ありきたりなネタ好きの助平鬼だったんでしょうね。まぁ、これで命を取られる様な事はないので安心して下さい。」
胡蝶はくすくすと笑った。
「で、どうすれば治るんだ?」
「それは分かりません。」
「分からないじゃあ困るだろう!千寿郎があのままでは流石に俺も嫌だ!」
「そんな事言って本当は嬉しいんじゃないですかぁ?」
「うっ!」
胡蝶に耳元で囁かれ心臓が跳ねた。
「ふふっ、冗談ですよ。」
「全く…。」
胡蝶の言った言葉に反論は出来なかった。
嬉しくないと言ったら嘘になるがじゃあ嬉しいかと言ったらはっきり言って複雑だった。正直言うと千寿郎の服は最初から自分で脱いで貰うのではなく自分が誘導して脱がせたいと思っていた。…何を言っているのだ、俺は。
「まぁ、鬼の方はもうふんど…、いえ、お父様が片付けた様なので明日には術は解けると思いますよ。後は念の為しっかり日の光を浴びて下さい。」
俺は隣の部屋へ行って千寿郎を起こすと、また手を引いて外へ出た。
胡蝶が屋敷から出てきて俺を呼び止めた。千寿郎の手を離して胡蝶と二人で屋敷の壁際に寄ると胡蝶が俺に耳打ちしてきた。
「今夜千寿郎君が誘いをかけてくる可能性が高いので気をつけて下さいね。」
「……‼︎」
空はまだ曇り空だった。雨が降るのか降らないのかよくわからないすっきりしない天気だった。湿気がまとわりついて不快だった。
俺は千寿郎を治してやりたい気持ちと良からぬ妄想の狭間でくらくらしながら千寿郎の手を引いて家へと戻った。
家に着いて俺は千寿郎を部屋へ送った後に仏間へ行って母の位牌に手を合わせた。
母上、大変な事が起きています。千寿郎が鬼に血鬼術をかけられてしまいました。千寿郎は血鬼術によってその魅惑的な身体を使って俺を誘惑する様になってしまいました。俺は辛いのです。俺は弟を心から愛しています。弟に対して不埒な欲すら持っています。だけど血鬼術によって自分の願いが叶ってもそれは違うのです。弟は自ら望んで俺の前に身体を開いてくる訳ではありません。俺は弟を傷付けたくないのです。なのに俺は今自分の欲ばかりが先走って煩悩の塊と化しております。俺は今のままでは耐えられません、どうか千寿郎を守って下さい、母上。
母に祈った後俺は、鎮、とおりんを鳴らすと仏間を出た。
廊下に出ると千寿郎がいた。
「どうした、千寿郎、ちゃんと部屋にいないと駄目だろう。」
「いえ、血鬼術に掛かってても身体は元気なので…、何かしていないと退屈で…。」
「次いつ発症するか分からないんだぞ。後、血鬼術が解けるまで今日は俺の側に寄らない方がいい。」
「兄上にだけ発症してしまうから…、ですか?」
「そうだ。」
弟は下を向いた。その顔が寂しそうだった。
「俺は今日は藤の家へ泊めて貰う。すまないが千寿郎、今夜は一緒にいてやれない。」
弟は目を潤ませて俺の顔を見上げた。
「兄上がそう仰るのなら…。」
そう言ってまた下を向いてしまった。
「今夜だけの辛抱だ。」
俺は弟の両肩を叩いて元気づけてから玄関に向かって廊下を歩き出した。後ろからぽすん、と何かがぶつかる感触があった。振り返ってみるとそれは弟で、視線が合うと涙目で俺を見つめ腰に腕を回して頬を擦り寄せてきた。
「…やはり行かないで下さい、兄上。」
「千…。」
「僕は兄上がいないと不安なのです。兄上に迷惑をかけるのは重々分かっています、だけど行って欲しくありません…。」
「しかしこのままでは…。」
「どうか傍にいて下さい!」
「……。」
「お願いです…、兄上…。」
俺は思わず振り返って千寿郎の身体を抱き締めた。弟も俺の背中に手を回してきた。
「…わかった、お前の傍にいる。お前の為に最善を尽くそう。」
「ありがとうございます…。」
弟を抱く両腕に力を込めた。
こんな奇奇妙妙な術をかけられた不安から俺にしがみついてくる弟が不憫で仕方なく、何としてでも守りたいと思った。胡蝶の本当は嬉しいんじゃないですか?と言う言葉が頭に響いてきたが気合いで振り払った。
軒下に吊るされていた母の江戸風鈴が風に揺られて、鎮鎮、と音を立てていた。
夜になり俺は千寿郎を布団に寝かせると隊服を着込んだまま壁際に座って寄りかかっていた。この服装の方が気持ちが切り替わって、今はまだ鬼との闘いの最中だと思えたからだ。
「兄上…?」
弟が目を閉じたまま声をかけてきた。
「何だ、千寿郎。」
「そこにいてくれてますか?」
「ああ、今日は一晩中いるから安心しろ。俺は何処にも行かないから。」
「ありがとうございます…。」
また弟はすうすうと寝息を立て始めた。俺は弟に近寄って自分と同じ朱の混じった金色の前髪をさらりと掻き上げた。
(弟にこんな術をかけて…、許せん鬼だ…。)
弟のあどけない寝顔をじっと見ながら、今は兄として弟を守らなければいけない、と思った。
また壁際に戻ろうと弟に背を向けた時、それは起こった。
弟の手が俺の隊服を掴んで離さなかった。
「はあ…、はあ…、兄上…。」
「千寿郎?」
ついに発症したか、と思った。弟は上体を起こすと光の無い目で俺を見てきた。
「兄上…、僕は…、兄上の子が欲しいです…。」
まるで媚薬でも飲まされたかの様に弟は顔を上気させ、涎を垂らして色欲のはらんだ笑顔を浮かべた。
「どうか…、僕を抱いて下さい、兄上…。」
着ている寝衣の帯を解き襟に手をかけて肌を露わにした弟は俺を求めて両手を真っ直ぐ伸ばした。
「千寿郎、服を着なさい。」
俺は冷静に弟を見据えた。下帯だけの姿の弟は不思議そうな顔をすると立ち上がって俺に近づき腰に腕を回して擦り寄ってきた。
「兄上、千は貴方を愛しております…。兄上の全てをこの身体に受け入れたい…。」
弟の身体がゆっくりと沈んでいき、俺の下半身に頬ずりをしてからベルトに手をかけると小さな金属音を立て始めた。俺の頬に汗が伝った。
このままでは弟はどこまでも俺を求めてくるだろう。俺自身この状況で一晩中冷静でいるのはかなり辛い。むしろこのまま自分の意思とは無関係に痴態を晒し続ける弟が傷つくのが何よりも心苦しい、そう思って弟の手にそっと手を置いて止めると畳に膝をついて弟の顔を見つめた。
「千寿郎、俺は今のお前を抱くことは出来ない、わかるか、お前は今正気を失っている。目を覚ますんだ。」
「何を言っているのですか?兄上…。」
弟は眉間に皺を寄せた。
「僕を抱いてくれないのですか?兄上は僕を愛してくれていないのですか?僕は…、僕はこんなにも貴方をお慕いしているのに!」
弟が俺の頬に両手を当て口に吸い付いてきた。柔い唇の隙間から小さな舌が出てきて俺の唇を舐め回し、俺の唇の間を割って侵入しようとしていた。あまり上手ではない弟の唇の愛撫に一瞬気を取られそうになったが堪えた。俺は弟の肩を掴んで腕を伸ばし自分の唇から引き離した。
「今のお前では駄目だ!俺はお前を悲しませたくない!」
そう弟に訴えたが弟は益々不満そうな顔をするだけだった。
「そんなに僕のことが抱けないのですか…、だったら構いません…、それなら…、それなら僕が兄上を抱きます!」
「!」
弟が俺の身体に勢いよく飛びついてきて俺を畳の上に押し倒し、隊服の前合せに手をかけると左右に引いて釦を全て弾き飛ばした。
「ま、待てっ!千寿郎‼︎」
「待ちません!」
「待ちませんじゃない!やめるんだっ‼︎」
「やめません!どうせこのままでは兄上は僕に何もしてくれない!」
「出来ないと言ってるだろう‼︎」
「だから僕が抱くんです!兄上は大人しく天井のしみでも数えていて下さい!」
「馬鹿を言うな‼︎」
血鬼術の影響か弟は物凄い力で俺の上半身の服を剥ぎ取ると先程外しかけたベルトにまた手を掛けて外し始めた。俺は咄嗟に袴の縁を両手で掴み、脱がす方向に引っ張る弟との攻防戦を暫く繰り広げた。
弟は俺の抵抗に苛立って両手を離すと服の上から俺のものを掴もうとしてきた。俺はすかさず弟の手首を掴んで上半身を起こし自分の隣に転がすと、四つん這いになってこちらを恨めしそうに睨む弟の首に「許せ」と手刀を打ち込んだ。
弟が気を失ってその場に崩れ落ち、危うく弟に貞操を奪われる所だった俺は乱れた呼吸を落ち着けて長く息を吐き、弟の身体を静かに抱き上げて布団に寝かせた。
「実に恐ろしい術だった…。」
先程とは打って変わって穏やかな表情に戻った弟を見て安堵すると自分が任務から帰ってきてまだ碌に休んでいない事に気が付いた。
「さすがに疲れた…。」
俺は弟の隣に寝転がると掛け布団を被って裸のままの弟を抱き寄せた。
自分の胸に触れる弟の肌のぬくもりが暖かくて心地良かった。
「む…。」
気が緩んで下半身が少々疼いたが母の風鈴の音が微かに、鎮、と聞こえて平静を取り戻した。俺の胸の中でくたりと眠る弟がうん、と唸った。その愛らしさに笑みが溢れ弟の額に軽く口付けをした。次第に眠気の方が強くなり目を閉じるとそのまま俺もすぐに眠ってしまった。
「わああぁ!兄上ぇえぇ‼︎」
弟の叫び声と共に俺はドン、と布団から畳の上に突き転がされて目を覚ました。
「いたた…、朝から何事だ、千寿郎。」
むくりと起き上がると弟が頭から掛け布団を被って青褪めた顔に涙を浮かべ震えながら俺を見ていた。
「兄上…、もしや、もしや俺に…。」
まだ寝惚けた頭で思考を巡らせて、ああ、と思った。畳に手を付いて弟ににじり寄ると弟がびくりとして掛け布団ごと後退した。
「そっ、そんな格好で近寄らないで下さいっ!」
弟に言われて自分の身体を見てみると、昨夜弟に服を剥がされたままだった為、上半身は裸でベルトは外れ自分の下帯が僅かに晒されている状態だった。
「この程度でそんなに怯えるな、千。何もしてない。」
お前にされそうにはなったが、と思ったがそれは敢えて言わなかった。
「昨夜の事は覚えてないのか?」
弟はまた身体をびくつかせ顔を真っ赤にしてこくこくと頷いていた。
立ち上がってベルトを締め直し、弟に放り投げられたシャツを拾い上げて着ると弟に布団の端に丸まっていた寝衣を拾って手渡した。
障子の向こうが明るくなっていて、雀が数匹チュンチュン鳴いていた。
「千寿郎、今日は天気が良い。後で散歩に行こう。」
「…はい。」
恥ずかしそうに俯く弟に笑いかけると俺は弟の部屋を出た。母の風鈴が風に煽られて涼やかな音を立てていた。
その後俺は弟が朝餉の支度をしている間に一通り家の中の掃除をしてから仏間に行き、母の位牌に静かに手を合わせて心の中で礼を言った。真っ直ぐ天井に昇っていた線香の煙がふわりと動いて消えていった。
「兄上、朝餉の支度が出来ましたよ。」
弟が俺を呼ぶ声が聞こえた。
「わかった、今行く。」
仏間を出て空を見上げると青空の下に母の笑顔が浮かんで見えた様な気がした。