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    syk_1529

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    syk_1529

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    🍜🥷🎍 ハピエンまでの最後の一ヶ月、のはじまり

     診療日ではないというのに快くドアを開けてくれたあさくらクリニックの院長には感謝しかない。ダメ元でと電話をしてみたら、今すぐ来てと返ってきた。大ごとなのだと察してくれたからだろう。院長は彼が怪我をする理由を知っている。着いたらドアの鍵は開けられていて、入ると白衣の院長が待っていてくれた。
     やっぱりね、とすぐに診察室に招かれ、彼の傷の具合を見せた。マスクを外した顔は唇が切れており酷く腫れ、体中も痣があちこちに出来ていた。そのうち右腕に巻かれていた包帯からは血膿が滲み出ていた。殴られて倒れた時に家具の角で切ったという。「どうしてその時すぐに来なかったのですか」と院長に叱られうなだれる彼の代わりに、自分が謝った。「何できみが謝るの」と少し顔を上げて苦笑いを浮かべる彼は、今までとは様子が違った。
     彼の治療を待っている間、待合室に置かれた雑誌を見る気分にもならず独りで考えた。恋人が荒れるから酷いことになる、傷だらけで会いたくない、と言っていたから、部屋に引きこもる彼の様子を伺いにこちらから行くつもりをしていた。
     彼はよほどの時はこちらに来なかった。どんな時でも来ていいと言った時に彼もわかったと頷いていたのに、こちらに気を遣っていて今回のような大きな怪我の時は絶対に来ようとしなかった。
     心境の変化、というものなのだろうか。それだけ頼ってもらえることが嬉しかった。自分の部屋を避難場所として自分の存在を安心出来る場所としながらも、彼は自分に対して遠慮もしていた。どれだけ体を重ねて彼に全てを放とうと、最後の奥にある一枚までは浸し切れないと感じていた。
     それが、浸されたと感じた。インターホンが鳴り痛々しい姿で現れた彼を見た時、焦りと同時にどこか嬉しかった。彼は逃げずに頑張ってここまで来てくれたのだ。もう、隠し通されていた最後の一枚は目の前に見えて た。
     治療を終えた彼が出てくる。「頑張りましたね」と頭を撫でてやると、照れ臭そうに俯かれた。縫ったし経過観察のためにも明日もう一度来て、と院長が言う。縫うほどだったんですか、と問うと彼は、すぐに病院に行かなかったことを咎められたと感じたのか更に顔を背けて右腕を握りしめた。コラコラ駄目だよ、と柔らかく笑いつつも彼の行為をやめさせない院長の存在がありがたい。もしここに二人きりなら、無理矢理手を離させて彼を余計に落ち込ませていたかもしれない。
     彼の代わりに支払いを済ませ、病院を後にする。院長はドアの外まで出てきて見送ってくれた。見送る前、院長に手招きをされた。何事かと近寄ると、治療中の彼の様子を教えてくれた。いつもは苦笑いを浮かべながら何ということのないフリをしているのに、あんなに神妙な顔で一言も喋らない彼は初めて見ましたよ、と。何か思い詰めてるんじゃないですか、と院長は自分に告げた。心当たりはあったので、「大丈夫です」とだけ返しておいた。
     帰り道、彼はずっと俯いている。目深に被った帽子と顔の半分を覆うマスクで表情は全くわからない。時々こちらの様子を伺うように、チラと視線を寄越してくる。いつもあれやこれやととめどなく喋る彼だが、初めに発する言葉を選びあぐねているのだろうか。もしかしたらこちらが喋るのを待っているのかもしれない、と思い口を開いた。
    「頑張りましたね」
     口にした後、待合室で言った言葉も同じじゃないか、と後悔した。同じことを二度言ってしまったが、頭に浮かんだ言葉はそれしかなかった。
    「うん…」
    「来ないかと思ってました」
    「だって、きみに部屋にこもるって言われちゃったし…」
     きみを頼っていいんだと思ったから、と続けたそれは、車道を過ぎるワゴン車の音に半ば掻き消された。黄色信号に突っ込み右折してゆくワゴン車を目で追いながら、彼の言葉を反芻した。
    「来てくれて嬉しかったです」
    「きみの顔を見た時、一瞬ほっとした顔してくれたよね?」
    「…顔に出てましたか?」
     表情は変えていなかったつもりだったが、無意識に眉でも下がっていたのだろうか。
    「うん、出てた。きみの顔を見て、僕の居場所はここでいいんだな、って嬉しかった」
     だから、と彼が続ける。縫ったばかりの右腕をすぐ触ろうとするので、左手を掴んで自分の手と繋がせた。その意図に気付いた彼が「ごめん」と左手に力を込めてきた。
    「本当にうまくやれるかすごく不安なんだ」
     横断歩道で赤信号に引っかかる。歩みを止めてしまいたくない。彼を一旦立ち止まらせたら、次の一歩が踏み出せないかもしれない。「違う道から帰りましょう」と強引に彼の手を引き左の道に折れた。
    「見ての通りね…酷いものでさ。まあ、僕も僕で悪いんだけど。殴られてると怖くて、謝ることしか出来なくて。謝ったって殴ってくるから意味はないんだけどさ」
     ぎゅっと握られた手を握り返す。怯えているのが体温を通して伝わる。彼の恋人の姿を見たことも、彼が恋人にどんな仕打ちをされてるかも見たことがないのに、ぼんやりと頭の中にイメージが広がる。怪我を見ているので、どういうことをされたのかは容易に想像が出来た。
    「こんな調子で本当に別れを切り出せるのかな。言い出すのが怖くて、言えないんじゃないかって。すごく不安なんだよ一氏くん」
     きみと約束したのに、と呟いて彼はその場に立ち止まった。控えめに手を引いてみても、動こうとしてくれない。
    「竹中さん」
    「ごめん…不甲斐ない僕でごめん」
     しっかりしなきゃいけないのに、頑張らなきゃいけないのに、と顔を覆うマスクを濡らしながら彼が漏らす。通りがかる人達が怪訝な顔をしながらこちらを見ては、そそくさと足早に去っていく。まるで自分が泣かしているように思われてるのだろうが、泣かせる原因を作ったのは自分なのだからそれは誤解ではない。
    「…ここで泣かれると目立ちます。今のあんたは注目をされたくないでしょう?帰ってからいくらでも泣けばいい」
     見られることに抵抗はなかったが、彼の姿を誰にも見せたくなかった。彼を見せ物にしたくなくて、彼の手を無理矢理引いた。先ほどの抵抗とは違い呆気なく彼はついて来た。

     部屋に戻り、彼を座らせる。上着も帽子も身につけたままだったことに気付いたようで、彼はもそもそと上着を脱ぎ始めた。マスクを外し、躊躇いがちにこちらを仰ぎ見てくる。顔の半面に貼られた湿布が痛々しい。帰る道中も泣いていたのか、真っ赤になった瞳からまた涙が溢れ出た。
    「頑張るって決めたんだ。僕は頑張らなくちゃいけないんだ。なのに、頑張れなかったらどうしようって。一氏くんの気持ちを裏切って、独りにさせてしまったらどうしようって。頑張れなかった僕のことを嫌いになったらどうしようって。そんなことばっかり考えちゃうんだよ」
    「あんた…」
    「僕は弱いんだよ。弱いから、義龍様にも逆らえなかった。きみの好意に甘えてしまった。僕が強くて、頑張れていたら、義龍様をしっかり支えることもできたし、きみと──」
     ハッとして彼が言葉を切る。その続きを言い止まり、狼狽えた目を向けてくる。血の気の引いた怯えた顔をして。
     咄嗟に彼を抱きしめた。腕の中ではあはあと彼が荒く呼吸をする。過呼吸にならぬよう、背中をさする。しばらくしたら落ち着いてきたのか、呼吸が緩やかになった。
    「弱くていい。頑張れなくていい。あんたは頑張ると言いましたが、頑張れなくていいんです。おかげで俺は、あなたと出会えました。あなたは弱いのではなくて、優しいんですよ。優しいから暴力に逆らわなかったし、優しいから俺に気を遣ってくれた。…あんたは、人のことばかり考えてる優しい人です」
     ごめんね一氏くん、と何度言われたことだろう。それは口癖のように、会うたびに必ず一度は言われていた。自分の存在を都合の良い避難先として利用していると彼はずっと気にしていた。いくら自分が好きでやっているから構わないと言っても「迷惑かけてごめんね」は毎回別れる時のお決まりのフレーズだった。しかし、気にしているのなら来なければいいはずなのに、だんだんと彼は何もなくとも来るようになった。彼の本心はもうその頃には本当は決まっていて、それでも彼は自分と恋人のために本心に向き合うことが出来ずにいたのだろう。そういうものもすべて包括して、彼は自分や恋人に謝り続けていたのだろう。
     彼は腕の中で落ち着きを取り戻したようだが、黙っている。こちらが話すのを待っているわけではなさそうだが、何かを言わねばならない気がした。
     彼を解き放たねばならない。彼が彼として生きるために、己の感情に蓋をせず放出させるために、まず痛みを認識させねばならない気がした。
    「もうあんたは、自分のために生きていい。痛みを痛みとして声をあげていいんです」
     縫われたばかりの右腕をそっと掴み、彼の目の前へと持ち上げる。動かすと痛むのか、彼は眉間に皺を寄せて辛そうな顔をした。
    「痛いでしょう?」
    「…うん」
    「我慢しないでください。痛みに慣れないでください。痛いのが嫌なら、嫌だと喚いていいんです。あんたの思ってることを出してください。誰にも気を使う必要はない、あんたの本音を出して欲しいんです」
    「僕の思ってること…」
     普段いくらでも言葉を紡げる人なのに、喉にものがつかえたかのように苦しそうな顔をしている。言いたいことを整理しているのか、あふれ出る言葉の堰を切らないよう耐えているのか。
    「言ってください。あんたがいつも俺に言ってることだ。ゆっくりでいい、俺は待ちますから」
    「一氏くん…」
     もう一度抱きしめる。何度抱きしめても、自分の仕方が正しいのかわからない。彼以外の誰かに最後に抱きしめられたのはいつだったのだろうか。遠い遠い昔でもう顔すら覚えていない母親の、細かった気のする腕の感触さえも思い出せない自分は、彼をうまく抱きしめられているのだろうか。
    「痛いのは嫌だよ。殴られるのも、命令されるのも嫌。もう無理なんだ、僕はもうあの人のそばにはいたくない」
     相槌の代わりに頭を撫でる。言葉は挟まない方がいい気がした。
    「逃げてしまいたいよ。あの人の未来に付き合いたくない。苦しい思いはもうたくさんだ。僕はあの人とじゃなくて、一氏くんといたいんだよ。一氏くんにとって僕の存在が本当は迷惑だとしても、本当は僕なんかじゃなくて別の人といた方が一氏くんが幸せにならるとしても、僕はきみがいいんだ。きみのそばにいてあげたいんじゃなくて、僕がきみのそばにいたいんだよ一氏くん」
     そこまで言うと彼は顔を上げた。一体どこからこれほどの涙が出てくるのだろうというほどボロボロと泣き続ける彼の瞼に口付ける。彼はピクリと体を硬らせたが、すぐにフッと力を抜いた。
    「…あんた、本当に俺のこと信用してなかったんですね」
    「え…?」
     浮かんだままに答えたら怯えた顔をさせてしまったので、すぐさま「ああ、いえ」と首を振った。ここで誤解を与える発言はしない方がいい。
    「俺はあんたのそばにいたいって、ずっと言ってるじゃないですか」
    「一氏くん…」
    「あんたが不憫だからじゃないですよ。あんたは迷惑なんかじゃなくて、あんたといたら幸せになれると思うから、俺はあんたのそばにいたいんです。あんたは俺を救ってくれたじゃないですか」
    「僕が、一氏くんを?本当に?」
    「俺は人に抱きしめられた記憶がありません。母親の記憶も曖昧です。ずっと独りで生きてきて、これからも独りで生きると思ってました。そこにあんたが現れた。あんたは自分が苦しいのに、俺のことまで気にかけてくれましたよね。嬉しかったんです。会うたびに、もっと会いたいとか、離したくないとか、あんたに対する欲求がどんどん増えていきました」
     ありがとう一氏くん、と言われるたび、それは自分こそ言いたいことだと彼に返したかった。俺のところに来てくれてありがとうございます、俺を抱きしめて、頭を撫でてくれてありがとうございます、俺を愛してくれてありがとうございます、そう言いたいのに、いつもどうしても声にならなかった。口にして彼を困らせてしまうのなら、永遠に胸にしまっておかなければならないと覚悟も決めていた。
     もっと早く言えていたら、彼はここまで苦しまなかったのだろうか。自分が彼を彼の恋人から奪うつもりでいたら、彼の心を無理矢理にでも変えさせることが出来ていたのだろうか。彼に消えない傷痕ばかりを多く残させることもなく、幸せだと感じられる思い出を多く残させることができたのだろうか。
     ああすればよかった、こうしていればよかったのか、と今更過去を悔やんでも遅い。停滞を良しと判断してきたのは自分であり、彼でもあるのだ。お互いに前に進むことを躊躇ったから、ここまで時間がかかってしまったのだ。
     しかし、この時間が無ければ、これから先の未来は無かったかもしれない。
     急速に事を運んでしまい、脆く壊れてしまったいたのかもしれない。
     随分と彼に傷を増やしてしまった。それでも彼は前へ進もうとしている。傷をどれだけ負おうと、進むことを決めているのだ。
     彼の背中を押さねばならない。否、彼の手を引っ張るでもなく、彼の肩を抱き彼を励ますのが己のやるべきことだ。
    「ありがとうございます竹中さん」
    「……え?」
     いきなりお礼を言われると思ってなかったのか、それとも名を呼んだからなのか、彼は不思議そうにこちらに顔を向けてきた。名を知っていても呼ぶのが照れ臭く、いつもあんたと呼んでいた。下の名前で呼ぶのはもっと照れ臭いので、きっとまだしばらくは呼べない。
    「俺を愛してくれてありがとうございます」
    「一氏くん」
    「俺を選んでくれてありがとうございます。あんたがあんたの意志で、俺を選んでくれること、俺はあんたに感謝してますよ」
     だから俺をもっと信用してください、と彼の鼻をちょんと小突いてみた。ん、と眉を顰めて、彼はいじけたような顔を見せた。
    「あんたのことが好きです。もうどうしようもなく、あんたのことばかり考えてます。本当はあんたを奪いたい。俺自分で言いますけど喧嘩には自信あるんで、奪う自信はあります」
    「……でも」
    「わかってますよ、そんなことはしません。一般人相手に喧嘩はしませんよ」
    「僕は一氏くんが傷付くのは見たくない」
     ぎゅ、と服の袖を掴まれる。これだけ傷付きながらも、人の心配をする彼の優しさがいじらしい。
    「そんなにそいつ強いんですか?弱い者に暴力を振る奴なんて大抵弱いですけど」
    「小さい頃から空手習ってたし、喧嘩も強かったよ」
    「そうですか。ならますます相手をしてもらいたいですね」
     ふふっと笑うと「そういうのやめてよ」と目で訴えられた。
     図体がでかくて力任せな相手なら倒すのは容易い。話を聞くに良いところの息子なのだ、大した苦労もせず生きてきた奴など自分の敵ではない。
    「冗談ですよ」
    「冗談でも言わないで」
    「ていうか、気付いてます?あんた」
    「何が?」
     キョトンとした目で彼が首を傾げる。もう泣いてはいない。
    「あんた、俺の心配してるくせに、そいつの心配してませんよ?」
     つまりはそれが答えなのだ。今までの彼なら自分と向こうのどちらもの心配をしただろう。あの人にもあの人の事情があるから、と庇うような事も言っただろう。
    「え?あ…そっか」
    「あんたは別れられますよ。大丈夫です、うまく出来ます」
     未練があるのなら失敗するかもしれないが、今の彼なら大丈夫だろう。
     うまく出来るかな、と彼が小声で反芻する。「うまく出来るかな」もう一度、今度はこちらに問いかけるように言った。
    「出来ます」
     何なら援護しましょうか?と笑いかけると、首を横に振られた。「自分でケリをつける」とハッキリと。
    「一氏くんがついてくれてると思うと怖くない。ごめんね、この間頑張ってみるって言ったばかりなのに、いざ荒れてるあの人を前にしたら自信が揺らいじゃって」
    「無理もないですよ。いくら覚悟を決めていても、強い奴と対峙する時はそうなります」
    「一氏くんもなの?」
    「ええ、まあ…。ま、そのうち喋りますよ」
     きみ過去に何やってたの?と彼が訝しげに探りを入れてくる。隠すことでもないので話してもよかったが、今バラす話でもない。これから長い時間があるのだから、少しずつ話していけばいい。
    「ねえ一氏くん」
     彼が体を擦り寄せてくる。つん、と湿布の匂いが鼻をついた。この匂いを嗅ぐのもあと少しなのだなと思ったら、無性に彼を抱きたくなった。いや駄目だ今日は彼の体に障る、と欲情を押さえつけようとしたが、下半身は言うことを聞いてくれそうにない。
    「何ですか。あまりくっつかれると理性が飛ぶんですけど」
    「飛んでくれていいよ」
     抱かれていた方が痛みがまぎれるから、と更に体を寄せてこられる。本当に知りませんからね?と語気を強めると、返事の代わりに微笑まれた。
    「俺を選んでくれてありがとうございます」
     あんたを愛してます、と言おうか迷っているうちに、彼の方からキスをされた。傷に障るからと控えめに舌を入れると、彼はすぐさま受け入れて絡め返してきた。
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