はじめて愛したあなたへ それは、遠い昔の記憶。
卒業式の後、彼と二人で写真を撮った時。
意を決して告白をした時の彼の照れ臭そうに微笑んだ顔が浮かんだところで、半兵衛はベッドで目を覚ました。
頭痛がひどい。頭痛に加えて身体中が痛むがいつものことだ。ゆっくりとベッドから起き上がると、部屋の主はそこにいなかった。
覚醒しきってない頭に洗面所の水を流す音が聞こえてくる。ああ、顔を洗っているのかな…と家主の行動の癖を思い描いた。
「半兵衛起きたか」
「義龍様」
「目ぇ覚めちまってよ」
「珍しいですね、この時間にあなたが起きるなんて」
馬鹿にされたと感じたのか、彼が睨んでくる。朝からまた殴られてはたまったものでないので咄嗟に「すみません」と謝った。
もう何度こうして謝ったことだろう。「すみません」「ごめんなさい」はもはや癖になっていて、考えるよりも先に口から出てきてしまう。
彼は何か言いたそうにしていたが、何も言わずリビングのソファに座った。定位置だ。大きな身体にソファが小さく見える。決して小さくはないはずのソファに身体を預け、黙ってスマホをいじっている。ゲームのデイリーミッションでもこなしているのだろうなと、交代で洗面所に行くがてらチラと覗いたらその通りだった。
不機嫌な彼に、いつものように殴られた。父親とのいざこざの不満を黙って聞いていれば良かったが、つい諌めてしまった。「あなたが冷静にならないから」「どういう気持ちで道三様が言っているのかも考えてください」正論を言えば言うほど、彼は不機嫌になった。不機嫌になるとすぐ手足が出ることがわかっているのだから、黙っていればいいのに、いつも自分も自分で我慢が出来ず言ってしまう。殴られても蹴られても自業自得なのだ。それでも、言わずにいられなかった。
洗面所の鏡で痣の出来た顔と身体をくまなく見る。幸いにも酷い傷は無い。とはいえ人が見たら蒼白になって病院へ連れて行かれる傷だろうが、これくらいのものはいつものことなので慣れきってしまっている。
(昨日の義龍様はいつもほどじゃなかったな…)
殴り倒されてぐったりとベッドに臥せっていると、覆い被られた。興奮した気持ちを抑え込めないのか、暴力の後は決まってセックスに持ち込まれる。付き合う体力などほとんど削られているのにおかまいなしで、乱暴に彼は自分を抱いた。
不思議なことに、それまでもう起き上がる気もなかったはずなのに身体は正直で、愛撫されるとだんだんとその気にさせられてしまう。乳首を噛まれて跳ねる己の身体は、先程までその巨躯の暴力に怯えていたはずなのに掌を返したように更なる一手を求めてしまうのだ。
彼はセックスの間も気に入らないとすぐ殴りつけてくる。腰の位置が悪いだの、歯が当たっただの、思い通りの快楽が得られないと容赦なく拳を飛ばしてくる。
なのに、昨日はそれがいつもよりマシだった。どこか心ここにあらずで、四つん這いにさせられ後ろから突き上げられた時にはずみで膝を滑らせてしまったものの、何も咎めてはこなかった。二度目を要求してくることもせず、事後処理をする体力も無くはあはあと荒く息をする自分を一瞥しただけでさっさと寝られてしまった。
コップに水を満杯まで注いで、一気に飲み干す。その冷たさに、鈍い頭痛ともやもやした思考が少し和らいだ。
(もしかしたら、義龍様は気付いているのかもしれない)
タオルを水に浸し、よく絞って顔に当てる。熱を持った顔に冷たいタオルが心地良い。
(言わなくちゃ。もう逃げるわけにいかないんだから)
昨日ここに来て部屋着に着替えた後、脱衣場に置きっぱなしにしていた服に着替える。もうこの部屋着も着ることがないのかな…と思うと寂しくもある。その部屋着を無造作に畳んで持って出ると、彼はさっきと同じ姿勢でスマホを触っていた。デイリーミッションはまだ終わっていないらしい。
「義龍様」
ソファ前に置かれたテーブルのそばに腰を下ろす。いつもの位置だ。いつも自分はソファには座らない。テーブルでレポートや読書をしたいものあって、床に座るのが常だった。
「…何だよ?」
「義龍様と別れたいです」
「…いつからだ?」
「え…?」
予想していなかった返しに狼狽えてしまった。てっきり激昂されるかいきなり殴り付けられると覚悟していたのに。「いつから」とはどういう意味なのだろうと、考えが答えに至る前に彼が再び口を開いた。
「いつからだって聞いてんだよ。てめぇが他の男んとこに通い始めたのはよ」
「何、で……」
何でもクソもないな、と自分の甘さをすぐに反省した。気付かれないわけがないのだ。バレないように慎重にやれているはずだと思い込んでいたこと自体が甘かったのだ。彼が何も言ってこないのをいいことに、調子づいてしまってはいなかったか。
「俺が気付いてねえと思ってたのかよ?よそよそしくなってきたてめぇに気付かねえほど俺は阿呆じゃねえよ」
いつからだ?と再び聞かれ、三ヶ月ほど前からです、と答えると同時に脳が揺さぶられる衝撃を感じ吹っ飛ばされた。元々昨日から腫れている頬を再び殴られ、左目が開けられないほどに痛い。それなのに、ぼたぼたと垂れる鼻血の血溜まりに床の心配をしてしまう。床を汚したことをまた咎められると思い、身を縮こませた。
「申し訳ありません」
痛みと申し訳なさで涙が出てくる。涙が鼻血と混ざり床に無様な染みを広げてゆく。顔を上げなくちゃ…と思うものの、身体は固まったまま言うことを聞いてくれない。
「で?他の男に俺の愚痴をべらべら喋り、慰めてもらってたってわけか?」
「……」
「俺が何にも言わねえから、バレてねえと思ってた。そうなんだろ?」
ぐい、と髪を掴み上半身を起こされる。血と涙を流しながら醜く許しを乞う己の姿は、彼にどう写っているのだろう。
また殴られるのかな、とうっすら予測したが、殴られることはなく手を離された。起こされたそのままに、ぺたんと床にへたり込む。血を拭かなきゃ…とティッシュを探すのも面倒なので袖口で床を拭き鼻血を止めた。
彼はソファに座り直し、じっとこちらを見てくる。「義龍様」と恐る恐る声をかけると、舌打ちの後溜息をつかれた。
「てめぇ、何で俺のそばにいた?他の男とも付き合いながら、何で俺のとこにも来てた?」
「それは…」
「俺が“可哀想”だからか?」
「……」
違う、と否定の言葉が出せない。とはいえ、そうですと肯定してしまうと彼のプライドを傷付けてしまう。どう答えるべきか考えあぐねていると、彼は眉間の皺を少し緩めて鼻で笑った。
「そうかよ」
「違っ…!」
「違わねえだろ」
俺のことを哀れだと思って仕方なく付き合ってやってたんだろ、と言われ、返す言葉が見当たらない。自分のしてきたことは、そう思われても無理がないことだ。
「…可哀想、というのとは少し違います」
「じゃあどういう意味だよ?」
頭上から振りかかる苛立った声に、頭が上げられない。義龍様の顔を見て話さなければいけないのに、怖くて見ることが出来ない。
「僕はあなたの力になりたかったんです」
初恋の相手が思い悩む姿を見て、自分に出来ることがあればと願った。頼りない自分であるけれど、愛する人のために何か出来たらと。親子関係で悩む彼のために、自分だけでもそばに居てあげられたらと。
「ごめんなさい義龍様。そんなの、おこがましいですよね。僕なんかいなくても義龍様は大丈夫なのに、僕なんかが義龍様を助けてあげたいだなんて思ってて申し訳ありません」
鼻血と共に止めたはずの涙がまた溢れてくる。あまりに己は自分勝手で、人のためと言いながら人のことなどさっぱり考えてあげられていなかった。己の感情を満たすために、一体どれだけの人を振り回してきたのだろう。
そして今、こうして一人の大切な人を傷付けている。
ずっと何も言ってこないのをいいことに自分勝手なことをしてきた己はいくら殴られても文句が言えないのに、この人はソファに座ったままで何もしてこない。今まで散々暴力を振るってきたのが嘘のように、じっと座ってこちらを見つめている。
「てめぇのそういう態度がムカついてたんだよ」
無造作に机に置かれたタバコを取り、荒っぽく火をつけるのが視界の隅に映った。彼はそれを吸い、ふぅ、と一息吐くと「クソ不味い」と灰皿へ押し付けた。
「俺をあんまりみくびるんじゃねえ。てめぇがいなくなっても問題ねえよ。てめぇ何様だ?いつの間にそんなに偉そうになったんだよ?」
「…ですよね」
「別れたきゃ勝手にしろ」
今すぐ出て行け、でないと俺もこれ以上は我慢が出来ねえ、と彼は吐き捨てた。スマホを手に取り、ラインの通知にイライラとしている。
このまま居座り続けることもできず、痛む顔を押さえてのろのろと立ち上がり鞄を手に取る。部屋着を入れるスペースは充分にあったので、そこに部屋着を押し込んだ。部屋を見渡しても私物らしい私物は無い。歯ブラシ程度のものなら代わりに捨ててくれるだろう。
鞄のジッパーを閉めながら、不意に彼に告白した日のことをまた思い出した。乱暴な時もあるけど優しくて、頼もしくて。体が弱い自分が熱を出すと必ず来てくれて、そばにいてくれた。そんな彼が大好きで、いつかは自分が恩返しをしたいと思っていた。彼の力になりたかった。進路で悩み、家族関係で悩み、うまく感情のコントロールが出来ずに周りや物に当たり散らす彼のためなら、自分が犠牲になってもいいとさえ思っていた。いくら傷付けられようと、それで彼が癒されるのなら構わないと。
それらは全て、逆効果でしかなかったのだ。
彼が自分を殴るたびに、彼は自分だけでなく周囲そして彼自身への憎悪までも増幅させていったのだろう。
「義龍様」
閉め切ったジッパーを見つめて、彼の名を呼ぶ。
「僕は義龍様のことが好きでした」
あなたのことを好きになってごめんなさい、とだけ呟き、玄関へ向かう。服に着いた血はそのままだが、上着を羽織れば多少は誤魔化せる。血がついた顔を洗ってこなかったのはまずいが、すぐ下のコンビニで洗えばいい。
靴を履いている時、「半兵衛」と呼び止められた。
振り向くのが怖い。振り向いて彼の顔を見るのが怖い。「何ですか」と背を向けたまま答えると、こちらへと近づいてくる足音が聞こえた。
「一つだけ言っておく」
「…はい」
「お前に手ぇ出したのはお前が誘ったからじゃねえ。俺がお前に手ぇ出したいから出したんだ。うぬぼれんな」
予想だにしなかった言葉に思わず振り向いてしまった。彼は怒ってはおらず、罰が悪そうな顔をして頭を掻いていた。その仕草が子供の頃とそっくりで、懐かしい感情と悲しい感情が同時に押し寄せてきた。今の自分の顔はきっとまた泣きそうな顔になっているのだろう。
「俺だってなぁ、好きでもねえ奴を抱いたりしねえよ」
お前と違って俺は一途なんだよ、こう見えて、と鼻息荒く言う彼に、ああ僕が愛したのはこの人だ、とかつての幸せだった頃の光景が鮮明に思い出された。
思い返せば彼は一度も浮気というものをしなかった。それなりにモテていたのかもしれないのに、自分以外の誰とも関係を持とうとしていなかった。そういう真面目さがとても愛おしくて申し訳なくて、自分だけを求めてくれる彼といられて幸せだった。その幸せを壊したのは自分自身であるのだが。
「義龍様…」
「盆と正月は帰ってこい。仕方ねえから俺も帰ってやる。親父とうまくやってやるから、ちゃんと見に来い」
「出来ますか?」
慌てて口を手で塞ぐ。これを言うから駄目だと散々思い知らされてきたのに、まだ言ってしまう自分にほとほと呆れてしまう。
「殴るぞ」
と彼は言いながら、頭に手を置いてきた。ずし、とした重さに、もうこれで終わりなのだなと感じた。
「俺はやれば出来る男だっつの」
さっさと行け、と頭に置いていた手を離しひらひらと振られる。ぺこりと一礼して玄関を開けて外に出た。内側から鍵をかけられる音はせず、リビングに戻る足音もしない。彼は玄関前にまだいるのだ。一体何を今考えているのだろうと気にはなったが、自分に彼を気にする資格はもうない。
しばらくして、かすかに足音がしてすぐに遠ざかった。しんとしたマンションの通路に、テレビの音がわずかに漏れてくる。
「ごめんなさい義龍様。ありがとうございます」
その音を聞きながら、半兵衛はその場にうずくまった。