ぱいの日父のような逞しい身体に憧れていたリチャードは、幼い頃から胸をさらしで潰して生活してきた。少しでも父のような男性に近づきたかったのだ。
成長するにつれ、肉体は丸みを帯びていった。
胸が膨らみ始める前から自分の体では父のようにはなれないと気付いていた。それでもリチャードは大学を卒業するまで己の身体の成長から目を逸らし続け、乳房の形を整え美しく魅せるための下着ではなく、スポーツ用の補正下着で胸を押さえつけてきた。
持ち主に省みられぬささやかな膨らみを長年の不遇から解放したのは、年下の幼馴染だ。
元々生意気な男ではあったが、過ちともいえる関係を結んでからは図々しさに拍車がかかった。
それまでの服装やリチャードが一人で暮らす部屋の装飾までを改変(幼馴染の言葉であらわすなら「改善」らしい)させられ、補正下着ではない、きちんとサイズの合うものを身につけるようになった。
その甲斐あってかリチャードの胸は形が崩れることなくすくすくと育ち、今ではふたりの子に遊ばれる大きさにまで成長した。
ふにふにと。
小さな手に押されて遊ばれる。
まるで子猫が足踏みしているかのように。
「すごいね」
「すごいね」
いつもより寝坊の子らを起こしに来ただけなのに、何故こうなった。
リチャードはチベットの高原に生息している哺乳網ネコ目イヌ科キツネ属の面持ちで子らの戯れを受け止め、戸惑いを押し隠した。
伴侶となった幼馴染に朝食の準備を任せて二階にあがり、先に彼に似た上の子に声をかけた。次いで自分に似た下の子の部屋にむかい、指をくわえながら気持ちよさそうに眠る肩を揺すった。ベッドに腰をかけて眺めていると、小さな子はぐずり出す前のように幼い声で唸り、寝返りを打った。目を擦り、あくびをして、ベッドの半分にも満たない身体がうんと伸びる。
寝ぼけ眼は見下ろすリチャードに気がつくと嬉しそうな笑みに変わる。「はぁうえ」と舌足らずな物言いで抱きついてきた体を受け止めると、寝起きのほかほかな笑顔は勢いよく胸に埋まった。
外出しないから構わないだろうと気を抜いて、下着はつけていない。代わりとなるカップ付きのインナーでもない。何の変哲もない、少し厚手の黒いシャツを一枚着ただけだ。伴侶は良い顔をしないだろうけれど、リチャードにも下着を身につけぬ事情がある。
違和感があったのか、小さな子は顔を離すと何かを確かめるように慎重にリチャードの胸を押した。そっと押して首を傾げ、またそっと押す。着替えを済ませた上の子がやってくるとベッドに乗ってリチャードの隣に腰を下ろし、不思議そうにしながらも小さな下の子を真似てこわごわと胸を押しはじめた。
右からふにふに。
左からふにふに。
生まれて数か月の頃は謎の力強さでつねってきたこともあるというのに、まるで初めて触れた物体であるかのような手つきだ。
胸を押して遊ぶ子らの口からは「ほおおお……」と感嘆にも似た声があがった。
「やぁらかいね」
「やわらかいな」
「パンとおなじ?」
「えー、おなじかなぁ。『白いの』のほうが似てるんじゃないか?」
「しろいの……」
小さな下の子はくっついていたリチャードから体を離すと、ころりとベッドの上を転がり、枕元に並ぶぬいぐるみに手を伸ばした。
『白いの』とは、国内の有名ブランドが手がけるぬいぐるみの通称だ。丸いフォルムに三角の耳と黒いつぶらな瞳。豚のような楕円形のピンク色の鼻。控えめについた手足。いのししを模していて、ロワイオテ・厶・リ〜白く気高く美しく勇敢で誉れ高い猪の云々〜と正式名称がとても長い。子らが覚えることは難しいため、見たままの色と形と名前の一部から短くそう呼んでいる。
滑らかな肌触りの生地で、綿ではなく微粒子ビーズが入っているので抱き心地がとても良い。
小さな子に無造作に掴まれ歪な形で運ばれてきた『白いの』が、ぽすっと気の抜けた音を立ててリチャードの膝に落とされた。
「にてる?」
紅葉のような手がぬいぐるみの頬を優しく押し、続けてリチャードの胸を横から押す。
逆側から紅葉よりもほんの少し大きな手が伸びてぬいぐるみをつつき、違いを比べるようにリチャードの胸をつつく。
ふにふに。
ふにふに。
「どっちもやぁらかいね」
「うん。でも、パンよりは白いのだな」
「パンじゃなくてしろいの!」
「お腹すいた」
「ごはんー!」
自分たちの疑問に決着がついたのか、子らはつい数秒前までの熱心さが嘘のようにころりと態度を変えて空腹を口にした。
ようやく当初の目的が果たせそうだ。リチャードはベッドから飛び降りて部屋を出ていく上の子の背中を見送り、ため息をついた。
目に付いたもの、感じたもの全てに興味を示し、好奇心の赴くままに立ち向かうのは、子が成長するうえで大切なことだろう。血の繋がりがあっても『知る欲求』を止める権利はない。それが先のような欲求でも……だ。
「リチャード、ご飯の前に着替えなさい。それと、白いのは必要ないだろう? そいつの居場所はここだ。置いていけ」
ぬいぐるみを小脇に抱え、パジャマのまま兄を追いかけようとする下の子を呼び止める。小さな足音は扉を開け放ったままの出入口で立ち止まり、幼くふっくらとした頬を不満げに膨らませた。
「……だめぇ?」
「駄目だ」
「でもね、はやくおしえないといけないの」
「教える? 何を……だ……」
リチャードは歩み寄りながら己の過ちに気付いて語尾をすぼめ、クッションフロアの床にゆっくりと膝をついた。
子が目を覚ましてからの僅かな時間で誰かに伝えたくなるような出来事など、一つしかない。
訊ねるべきではなかった……。だがもう遅い。
子は満面の笑みに少しの照れを含ませ、目線を合わせたリチャードの前にずいっとぬいぐるみを差し出した。
「おっぱいよっておしえてあげるの」
「そうか……」
そうだろうな。
予想通りの返事に、零れかけた溜め息を無理やり飲み込む。
「だれにだとおもう?」
稚拙なクイズは今までも幾度となく投げかけられてきたが、これほど答えたくない問題はない。
先程まで一緒に胸を突っついていた子と弄ばれていたリチャードを除けば、この家に居るのはあと一人だけだ。
「……お前の父か」
「よくわかりましたねぇ、せえかいです!」
どこで覚えたのか大人びた物言いだが、微妙に間違っている。
教えなくてもいいと止めるのは簡単だが、なぜ? どうして? の攻撃は避けられない。子が納得しそうな答えを用意してはみるが、不得手なリチャードは追撃重ねられると手も足も出なくなる。ナゼナニナンデ、は伴侶に任せるのが最善だ。その手が使えない今、リチャードにできることはただ一つ。ひたすらに子の興味をそらすしかない。
「誰かに何かを教えるのなら、パジャマは行儀が悪い。着替えて、顔を洗ってからでないと聞いてもらえないぞ」
「おきがえしてたらわすれちゃう……」
「忘れたら思い出せばいい」
そうはさせないが。
白いいのししをやさしく取り上げ、ベッドに放り投げる。二度弾んで転がり、顔が伏せた状態で止まったことを確認してから子の身体を抱き寄せると、パジャマの腕が首にしがみついた。
自分で服を選ばせながら声をかけていれば、ぬいぐるみのこともリチャードの胸に執着していたことも頭から消えるはずだ。靴下の柄で惑わせるのもありだ。
いつもより手間を要するが仕方ない。
手のひらで尻を支えて立ち上がり、収納チェストへ足を向ける。
あんなにも着替えを渋っていた子は、今度は駄々もこねずにおとなしい。リチャードの抱っこが余程うれしいようで、目が合うと「うふふ」と照れたように笑った。
つられて頬を緩めると、唸り声にも似た笑声を発してもじもじと恥ずかしそうに首元に顔を埋める。子が縋りつく力の強さを感じながら、リチャードはチェストの引き出しを開けた。
「何色の服にする? 昨日はしましまだったから、無地にするか」
「むじ?」
「絵が何も描いていない服だ」
いくつか取り出しながら訊くと、子はリチャードのシャツを握りしめて少し雑に収まった衣服を覗きこんだ。
小さなくちびるを引き結び、真剣なまなざしで引き出しの中を眺めている。
この様子なら、着替えに気を取られるのも時間の問題だ。『白いの』と胸のことなど、すぐに忘れてしまうだろう。着替えが済んだら「父が待っているぞ」と声をかければ、父親が大好きな子は空腹も相まってすぐ一階に下りたがるはずだ。
今朝の難件はどうにか解決できそうだ。
リチャードがそっと安堵していると見計らったかのように子は振りかえり、黒いシャツの胸元を押した。
「おようふく、くろいの! おそろいがいい! ははうえとね、くろいおようふくでね、しろいのとくろいのになるの」
「……そうか」
片手ではしっかりとしがみついたまま、胸の上、鎖骨付近を押して「ふにふに〜……じゃない……?」と不思議そうに首を傾げる。
リチャードは少しの諦めを感じながら所望のTシャツを取り出した。