耳元で名を囁く声の甘さに、体の奥が熱くなった。
飲み明かすつもりかと問うリチャードに、求めていた言葉だと口づけを捧げれば、ほころんだ顔で手を引かれた。
二階に部屋がある、王宮の寝台より硬いかもしれないが水辺よりは寒くないぞ。と、凍えて死んでもいいと零したことをからかうような口調に、バッキンガムは小さく苦い笑みを落とした。
「静かだ……」
「あぁ」
悪魔の宴で踊り狂う悪魔たちの騒々しさも、森の奥にまでは届かない。
使用人を遠ざけても、夜が更けても、常に他人の気配はあった。
けれど、この屋敷には誰もいない。
王と公爵ではないリチャードとバッキンガムの二人だけだ。
リチャードとバッキンガムが言葉を交わさなければどんなに耳を澄ましても話し声は聞こえてこないし、呼びつけても誰も来はしない。
ただの二人だけ。
松明を手に先導するリチャードに続いて暗い階段に足をかけると、ふいに心臓がドッ、ドッ、と音を立てて大きく脈打ちだした。
まるで別の意志を持ったかのように内側から強く胸を叩く。
こんなことは初めてだ。
絡めた指から振動が伝わっているのではないかと眉を寄せて注意深くリチャードの背を眺めるが、後ろ姿に変わった様子はない。
静寂に満ちる屋敷の中に響くのはふたつの足音だけだ。なのに、バッキンガムにはうるさいほどの心音が聞こえている。強く波打つ心臓が血管を揺らし、肉を揺らし、骨を揺らし、鼓膜を揺らし、脳を揺らしている。
どうにも落ち着かず数秒息を止めてみるが、効果はなく、簡単には静まりそうにない。
階段を上がりきる直前の突出し燭台に松明を差し、廊下にいくつも並ぶうちのすぐの扉を開けてリチャードが振り返る。
やわらかく濡れる色違いの眼と視線が交わった瞬間、激しくもゆっくりとした速度で跳ねていた心臓が早鐘のように乱れだした。
「少し埃臭いかもしれないな」
「そう……か」
身体中の血液が沸騰するようなほてりに手のひらが汗をかく。返事をしようと口を開くが、急激な喉の乾きに、擦れた、か細い声しか出てこなかった。
繋いだ手に誘われて部屋に足を踏み入れる。リチャードの言う通り埃っぽさは感じるが、不可解な動揺のせいで全く気にならない。
気にする余裕が無い。
いまだ呼吸は浅く、鼓動は強く激しい。
与り知らぬリチャードは絡ませた指をきゅうと握って、皺なく整えられた寝台へと向かってく。
暗い室内でリチャードの細い首は純白の輝きを放ち、バッキンガムの視線を奪う。
その肌に触れたのはほんの寸刻前のことだ。水の冷たさなど忘れるほどの熱さで体を重ねた。今までも、何度も熱を交わした。バッキンガム自身の手で、リチャードすら知らないリチャードの姿を暴いてきた。苦痛に顔を歪め、快楽に戸惑い、恥じ、とける姿を見てきた。
今夜初めて触れるわけではない。なのに、心臓が落ち着きを取り戻してきたかと思えば、今度は微かに手が震えだした。
バッキンガムは漸く己の異変の正体に気がついた。
緊張だ。
王でも摂政でもないただのリチャードと二人きりという現状に、心と体が張り詰めている。
戦の前ですらこれほど精神状態が揺さぶられたことない。
人を愛するということは、これほど苦しいことなのか。
「ヘンリー」
寝台に乗り上げたリチャードに引き寄せられ体勢を崩したバッキンガムはあとを追うように寝台に膝をついた。このまま組み敷くことはたやすい。だが体はそれ以上動かない。
「リチャード……」
名を呼ぶと可憐な笑みが口付けを求めるようにくいっと顎をあげた。
誘われるがまま顔を寄せると、早くしろと言わんばかりに胸ぐらを掴まれる。リチャードが敷き詰めた枕に倒れ込む。潰さぬよう寝台に腕を付いて勢いを殺し、口付けを落とす。柔らかく甘い舌を味わいながら不慣れなガキのような覚束無い手つきで身体をなぞると、息継ぎの合間の吐息が「くすぐったいぞ」とわらった。