晩餐会への招待は乗り気ではなかった。食事が済んだら早々にいとまを告げる。席に着くまでは確かにそう決めていた。
心変わりしたのはひとりの令嬢のせいだ。短く艶やかな黒髪。暗い濃紺のドレス。レースがあしらわれた飾りの多いチョーカーが白く細い首と鎖骨を隠す。頬に落ちる長い睫毛の影。蝋燭の炎に輝く瞳は二色の宝石のようだった。打てば響く落ち着いた相槌。鼓膜をやわらかく揺らす低めの声。交わす言葉は短いものばかりだ。もっとその声を聞きたい。もっとその双眸に映してほしい。もう一方の老婦人に微笑みながらも気はそぞろだった。すぐにでも振り返りたい。身に染み付いた作法がもどかしい。すぐに話題に困る。グラスを持ち上げワインを一口飲む。老婦人との会話が途切れる。目の前にデザートの皿を差し出される。取り分ける一瞬すら惜しい。給仕に不要だと示す。無駄の無い動作で隣へ移動した。しなやかな指がサービングスプーンを握る。うす茶に焦げ色がついた生地。形を残しているがとろけてくずれた赤い果実。それを煮詰めたソース。令嬢の手元が甘く彩られる。涼やかなくちびるがゆるやかに弧を描いた。
「クレープがお好きですか」
カトラリーを手にした令嬢がほんの少し首を傾ける。
「ノーサンバランド伯爵はお嫌いなようですわね」
「甘いものはあまり口にしません。けど嫌いではないですよ。緊張しているせいで断ってしまった」
「この程度の食事会ならば慣れてらっしゃるのではありません?」
「美しいかたの隣は初めてです」
「お上手ですのね」
ナイフが生地の上を走る。果実の色が染み込んだ欠片をフォークが掬う。ひとつひとつに思わず見入る。無意識に目で追ってしまう。向かう先はくちびる。気が付いて慌てて視線をそらす。グラスを持ち上げワインを一口飲む。静かにそっと息を吐く。横目でうかがうと食器は皿の上へ戻っていた。
「レディ。この場には私以外の伯爵もおられます。どうぞ、パーシーと……いえ、ヘンリーとお呼びください」
不躾にならぬよう所望する。令嬢は手を止め一拍置いて笑んだ。視線はデザートでもパーシーでもない。テーブルを隔てた向こう側を見ている。
「その名は身近に多すぎて、誰のことか分からなくなってしまいますわ。『あれ』も伯爵と同じ名を持っていますの」
令嬢の瞳はパーシーをとらえる。微笑みを残してまたナイフを動かす。クレープが刻まれる。令嬢の横顔が名を呼ぶ気は無いと語っていた。無下にされたと怒るべきか。地位のある男であればそうする。矜恃が傷付けられたと騒ぐ。だがパーシーは誇りよりも正義を重んじている。正しくあれと教えを受けてきた。令嬢の拒絶は己の無作法のせいだ。怒りなど抱きようもない。むしろ恥ずべきだ。不愉快にさせたのなら謝罪しなくては。グラスを持ち上げワインを一口飲む。令嬢の言葉を思い返し、疑問が頭をよぎる。同じ名の『あれ』とは? 令嬢は何を見ていたのか。気になり、向かい側を眺める。そっと視線を横にずらしていくと、聡明な顔立ちの少年と目が合った。両親や祖父母ほども年の離れた相手に挟まれた少年は、幼さの残る手でカトラリーを強く握りしめ、射殺さんばかりの鋭さでパーシーを睨めつけていた。