過去は夏の笑い話 魏無羨と藍忘機は互いに険しい表情で対峙していた。彼らの周りには泥に塗れた修士達が座り込んでいる。
「魏嬰」
「……藍湛。俺に清心音は効かない。知ってるだろう?」
「魏嬰、陳情を下ろせ」
藍忘機のいつになく強い口調に、魏無羨は眉間のしわを深め、陳情を握り締めた手を突き出す。
「無駄なことを言ってないで、ほら、かかってこい!」
「魏嬰!」
藍忘機が迫る中、魏無羨は手早く陳情を構えた。
そして発せられたのは高く鋭い笛の音、ではなく。
「食らえ!」
快活な掛け声と、細く伸びる水飛沫だった。
「藍湛! 水も滴るいい男、っていうのはお前のためにある言葉だな!」
***
「……あつい」
静室の床に転がる魏無羨の口から零れたのはその一言だけだ。
「心頭滅却したところで暑いものは暑い……」
清心音で心を鎮めたところで変わらない。雲夢にいた頃の夏は、皆上半身裸で過ごしていたというのに、姑蘇では誰も襟を緩めることさえない。
脱ぎ捨てた外衣と共に放った陳情が視界に映る。
なんの気なしに眺めていたそれが、遠い夏の日の記憶を呼び覚ました。
「よし!」
魏無羨は勢いを付けて立ち上がると、陳情を引っ掴んで外に飛び出した。
***
雲深不知処の裏山。川岸に腰掛けた魏無羨が水を蹴り上げる。
「いやあ、やっぱり水浴びは気持ちいいな!」
「それはそうですけど、冷泉に浸かるんじゃ駄目なんですか?」
何も俺達を巻き込まなくても、と泥の跳ねた外衣を洗いながら藍景儀がぼやく。
「冷泉は夏場でも凍える冷たさじゃないか。俺はこの暑さを乗り切るための楽しく涼しめるものを求めていたんだよ」
お前達も楽しんでただろう? と魏無羨は何処吹く風だ。藍景儀と同じように泥汚れと格闘している歳若い門弟達は、魏無羨に襲撃された被害者だったが、最終的には一緒に水遊びに興じていた。
「それにしても、陳情を水鉄砲に使うなんて」
陳情は適当に切り出された竹筒に差し込まれていた。魏無羨が竹筒を川面に浸けたまま陳情を引けば、巻き付けた布が竹筒との隙間を埋めていて、竹筒には水が溜められているのがわかる。水鉄砲と化した陳情を振って、魏無羨が笑う。
「手馴染みが良くて長さも手頃だったからな」
夷陵老祖を畏れる者達が聞けば卒倒しそうなことを、魏無羨はさらりと言ってのける。夷陵老祖の法器として有名な鬼笛をこんなことに使うのはそれこそ魏無羨をおいて他にいないだろう。