残心 暗灰色の雲が空を覆う。見上げた暗雲からは大粒の雨が降りしきる。泥濘んだ地面はけたたましく雨を跳ねさせ、被った頭巾に雨音を鈍く打ち鳴らす。
視線を戻し前を見れば、よく見知った顔と海を彷彿とさせる深い青を湛えた双眸が俺を捉えていた。
「海。……あぁ、なんだか懐かしいな」
随分前か、少し前か……この名前を親しげに呼ぶのは、久しぶりな気がして。けれど、親しみを込めて呼ぶには俺と彼は、変わってしまった。
いや、変わったのはきっと、俺だけ。
だから、対峙した俺達の間に流れる空気はひどく張り詰めていた。
「……春、本気でやるのか?」
「仕方ないでしょう? 俺と君は敵なんだから。敵同士は切り合わないと、ね?」
鞘から刀を引き抜き、鞘を投げ捨てた。しかし、海は依然として刀を引き抜くことをしない。
「早く刀を抜かないと、俺に殺されちゃう……よ!!」
「っ!」
一気に距離を詰め躍り掛かれば刀を抜くかと思ったが、海は鞘に収めたまま刀を構え防ぐ始末だった。鞘に刀は容赦なく刃を切り込んでいく。それでも鍔迫り合いが拮抗しているのは、偏に海の技量が成せるもの。
「俺は……お前と殺し合いなんてしたくない」
CLASSが同じで気が合うと手合わせをしたこともあった。けれどそれももう、遠い昔のようで。
真摯な青色の眼差しが真っ直ぐに俺を射抜く。雨音が耳鳴りのように響く中でもはっきりと耳に届く凛とした声が、五月蝿く鼓膜を撫でるようだった。
「本当に、君の心は見えないな」
こんなに近くにいるのに。その青い瞳に映るほどに近付いてみても、何一つ掴めなかった。
刀を握る手に力を込め、弾き返すように薙ぐ。海の刀は宙を舞い地面に突き刺さり、その隙に海の身体を地面に組み敷く。首筋に刃を突き付ける。
「ほら、だから言ったのに」
「そう、かもな。でも、これでいい」
海はそう言うと微笑んだ。この期に及んで、なんで。
俺の手は無意識に刀を手放し、海の首筋に伸ばされる。気が付く頃にはその喉を絞め上げていた。
「心はね、見えないからっ……いいんだよ」
まるで他人の言葉のように。けれど自身に言い聞かせるように。頬を伝う雨がやけに煩わしい。
海の喉が跳ねる。雨が苦しげに歪む顔を打ち付ける。
抵抗するように海の手が俺の手首に触れた瞬間、不意にその手から力が抜けた。海の表情はひどく穏やかな笑みを湛えていて──俺は手を離した。俺の手の痕が残る首筋に息が止まりそうになる。
諦めた表情じゃない。受け入れた、表情だった。
「どうして……どうして君はっ……」
「泣きたいなら泣いていいぞ」
「えっ」
海の手がするりと俺の頬を撫でる。その温もりに触れてようやく気が付く。頬を伝っていた雫は雨ではなくて、瞳から溢れた涙だということに。
「俺はここにいるからな、春」
優しく微笑んで、俺の名前を呼ぶ。俺はその全てが──。
「……俺は、海の心が分からない……君の心に、俺がいるのか見えなくて……分からないから、知りたくて……でも、俺は……」
愛おしくて、欲しくて欲しくて堪らなかったんだ。守りたかったものを、気付けば壊そうとして。
「ほんと、変なとこ不器用だな、春は」
抱き寄せられ、海の肩口に顔を埋めた。頭巾の上からぽんぽんと弾むように頭を撫でられる。
「俺は、海のことが、好き……なんだ……」
温もりが伝うような、じんわりと心に沁み込んでいく想いを言葉にして吐き出した。
「俺も春が好きだ」
「は……!?」
「両想いだな?」
驚いて身を離して海の顔を窺う。浮かべられた快活な笑みを見て開いた口が塞がらない。
「本気で言ってるの、それ」
「信じられないか?」
「……ある意味信じられないけど、信じられるよ。海だから。だけど」
そこで言葉を区切り、海の胸倉を掴む。海が「うぉ!?」と驚きの声を上げるのも意に介さず唇を奪った。触れているだけなのに、唇が熱い。
ゆっくり唇を離すと、海は顔を赤らめて俺を見つめていた。
「ちょっと腹が立ったから、仕返し」
「お、おー……?」
頬を朱に染めたまま、海は生返事を返した。
気が付けばあんなに暗雲が立ち込めていた空は青空を覗かせ、雨は上がっていた。
「はぁ……本当に、心は見えないからいいのかもしれないな」
事ここに至っても、海の心は見えないのだから。けれど、見えないその心に俺がいるのだと思うと胸が弾み、幸せだと思ってしまう。
「今更嫌って言っても離してあげないから、覚悟しててね、海」
「それは俺の台詞なんじゃないか?」
「俺が殺しに掛かって来るようなやつだって分かってる?」
「そういう抜けてるとこも好きだぞ〜」
「俺もそういう何でも受け入れちゃうとこ好きだよ……」
溜め息を吐いてもやっぱりどこか腹が立つような腑に落ちない感覚がして、もう一度半ば強引に唇を重ねる。でも、海への想いは途切れることはなく、ただこの感情を再確認させられた。きっとこの先、何度だって感じることになる想いを。