そよ風の手に奏でられ、風鈴が澄んだ音をちいさく鳴らす。
広間にひとつだけ出された卓袱台の上、硝子鉢のなかの氷が軽やかな音で呼応した。
視線をやると、上座の浮葉が素麺を取るところだった。漆塗りの箸を操る指先はあいかわらず舞の一部のように優雅だ。
御門家に世話になるようになってから数えきれないほど幾度も目にしてきたが、今でも時おり、源一郎は彼の所作に見惚れることがある。日常からよろずうつくしく整えるよう細かく気を配ることが、演奏の際のあのうつくしい一音、一音に繋がっているのではないか。そんな思いをひそかに抱き、憧れながら。
食事時に一番ちいさな卓袱台ひとつきりを使うようになったのはいつ頃からだっただろう。
源一郎がこの邸に世話になるようになったばかりの頃は――御門衣純が皆からの敬愛を一身に受けていた頃は、この広間が狭く感じられるほどの数の卓袱台を並べ、在宅中の門下生が揃って食事をとったものだった。
(……あの頃は、こんなふうに風鈴の音などしなかった)
苦みの混じる感情を素麺とともに呑み下し、源一郎はちいさく息を吐く。
実際には風鈴は変わらず鳴っていたのだろう。賑やかさに紛れさせ、聞き逃していただけで。他にも気づかないうちに見過ごしていることがあるのではないか。そんな、わけのない不安にふいに駆られる。
広間にぽつりとある食卓の寂しさを補おうとするように、育ち盛りふたりのためにフキがたくさんの器を並べてくれている。それぞれの前には、涼やかな硝子の鉢。氷水のなかでたゆたう素麺の白さが涼やかだ。周囲には精進揚げを盛った籠や、種々の薬味を乗せた無数の小皿が並ぶ。
これだけを用意してくれるのに、どれだけ手間がかかったことだろう――そう思うのに、ふたり分の食器だけではこのちいさな卓袱台ひとつ埋まりはしない。胸の奥が軋む音は、水のなかで軋む氷のたてる澄んだ鋭い音に似ていた。この冷たい音を浮葉もフキも、心のどこかで聞いているのかもしれない。いや、新参の自分などよりもよほど強く寂寥感があるに違いない。
溜息をこぼしながらも健康な肉体は美味しい食事を貪欲に欲している。気がつけば目の前の皿はあらかたが空になっていた。
「源一郎」
「はい」
目を上げた源一郎の前に、白い手が藍色の長皿を置く。手つかずのその皿には、大葉とチーズを巻いたささみが乗っていた。
「お前はこれも好きだったね。良かったらお食べ」
「よろしいのですか?」
「残すとフキが心配するからね」
あまり食欲がないのだろうと察し、源一郎はちいさく頭を下げる。
「では、頂戴します」
すこし冷めてもなお、ささみはしっとりとやわらかく、大葉の爽やかさやチーズの塩気とよく合っていた。夢中になって箸を進める源一郎の前で、浮葉が箸置きに箸を戻しながらちいさく笑みをこぼした。
「お前はよく食べてくれるから作り甲斐があると、フキがいつもよろこんでいるよ」
「……恐縮です」
「ふふ、もっとよろこばせてやりなさい」
「精進いたします」
自分にできることなどいくらもないのだから、せめて言いつかったことくらいは成し遂げたい。そんな思いで姿勢を正す源一郎に、浮葉が笑みを揺らす。
「………………」
「……浮葉様?」
「なんでもないよ」
風鈴の音にも隠れてしまうちいさな声が、確かに聞こえた気がした。
もう一度、聞き取るチャンスが欲しい。視線で訴える源一郎を静かな笑みがやんわりと退ける。ああ、また自分はなにかを逃してしまったのだ。そんな思いが一滴、また心の底に落ちる。
「私は先に戻る。お前はゆっくり食べてから戻りなさい」
「ですが、」
「源一郎」
書生の自分ばかりが長々と食べているのは申し訳ないと顔を上げた先で、浮葉が静かに微笑む。秋の池のほとりの清廉な空気のなかに冬の寒さがひそむように、触れただけで壊してしまいそうなたおやかで優美な彼の表情のなかには、触れることさえ赦されない鋭利さがひそんでいる。
それを得難い尊さだと感じるのは、彼の父に心酔したせいだけでは、決してない。
(俺は、何かひとつでもあの方のお役に立てているのだろうか……)
あるじからの心遣いを己の無力さとともに噛みしめ、源一郎は縁側へ目を向ける。
夏空に染まらぬ風鈴の音が、細く、高く、鳴る。
涼しさを招く音というよりも無慈悲に砕かれていく氷の悲鳴のようだ。胸のうちを過った不吉な連想さえも呑み下し、源一郎も箸をおく。
「……ごちそうさまでした」
手を合わせて低くつぶやく。
風鈴だけが静かに冷たい音を響かせていた。
***
自室に戻った浮葉は、文机の前に腰を下ろすなり溜息をこぼした。
重々しい感情を多分に含んだその息は、重力に引かれるまま畳へ落ちていく。
浮葉様、と遠慮がちに訪うフキに家計の相談をされたのは、昨夜のことだった。もう幾度目になるかわからない無益な話し合いを重ねるたび、滅びのときが近づいてくるのを感じる。
滅びるのなら滅びてしまえば良い。
大切なものを手放し、踏みにじり、ひとに縋って無様に生き永らえるくらいなら、愛しい過去とともに滅ぶ方がよほど良い。
父の残したいくつかの楽譜を並べ、視線だけで辿る。
これはお前のための曲だよと穏やかに微笑む父の声が、いまもやさしく耳に触れている。
描かれた旋律にも、書き残した筆跡にも、父の気配がある。
そのすべてが、音楽と、浮葉への愛に満ちていた。
何があろうとこの事実を、感情を、なくすことはできない。
(けれど……)
初めて出会ったときからすこしも変わらない、ひたむきな瞳を思い出して胸の奥がざわつく。
己や母は、家と運命をともにするが良いだろう。
フキをつきあわせるのは気が進まないけれど、浮葉自身よりも長くこの家とともに生き、外にはもう戻る場所のないものをここで放りだす方が不義理になる。
(……けれど、源一郎、あの子だけは)
未来のある子だ。
真面目で、情熱的で、努力を苦とも思わない。いや、本人には努力しているというつもりさえ、さしてないのかもしれない。もっと良い環境に移れば、もっともっと伸びるだろう。
門下生が次々と邸を辞していった頃、源一郎にも何度も告げたのだ。
お前も、今後の身の振り方を考えなさい。どこへなりと自由にゆきなさい。今なら、他にも選択肢はたくさんあるのだから。
そのすべてに彼は首を横に振り、どうかおそばに置いてくださいと頭をさげつづけた。
根負けしたていで彼の滞在を許しながら、本当は彼にそばにいてほしいと願う己の醜さが許せなかった。
彼だけではない。去った門下生たちにも、本当はここにいてほしかった。去るにしてもせめて、父に手向けのひとつもしてくれたら。別れを惜しんでくれたら。そう願わずにはいられなかった。
願う資格など、ないくせに。
わかっているからすべて呑みこみ、いままでご苦労様でした、と静かに見送ったのだ。
あとは、源一郎ひとりを見送れば良い。
お前がいてくれて良かった――先ほども口をついて出かけた言葉を心の奥の泉にそっと沈める。
そんな言葉を聞かせたら、彼は決してここを離れなくなるだろう。雪の降りしきるなか、己の願いが叶えられないのならこの場で朽ちても構わない、と強い意志を秘めた瞳で座していた姿が脳裏をよぎる。
「早く、終わりにしなければ」
誰ぞ、あの子を預けるに足るものはいないだろうか。
御門の世話になっていたものなど、信頼できる筋ほど受け入れようとは思わないだろう。伝手をたどることもできない。焦燥が胸を焦がす。
「……誰か、」
誰かあの子を、ここから連れ出してやってほしい。
願いに応える声は、まだない。
遠く近く鳴り響く蝉の声が、本格的な夏の訪れだけを告げていた。
了