強いひと 暑い日だった。
日中の最高気温は四十度に達する見込みだと朝のニュースで耳にしたのを思い出し、源一郎はわずかに眉をひそめて視線を上へ向けた。
遠くにそびえたつ入道雲は新雪のように輝いているのに、頭上にたたえられた空は海のように涼やかなのに、照りつける陽ざしはじりじりと肌を焦がしていく。その熱を、まとわりつく湿気が封じこめて逃さない。
浮葉から持つように言いつかった風呂敷包みの重みは、普段なら気にならないていどのものだ。けれどこの暑さのなかではしだいに煩わしくなってくる。それでも、いや、それだからこそ源一郎は大切に腕に抱えなおした。
以前は御門家と懇意にしていた家からの、返却物だった。衣純が存命の頃、なにかの催し物で使いたいといわれて器を貸したことがあったのだという。送ってもらえば良いのではないか、先方から届けてもらえば良いのではないか、と思うが、そうもいかないらしい。
視線を前方へ戻し、源一郎は前をゆくあるじの背を見つめる。
触れれば壊れてしまいそうな繊細な外見とたおやかな雰囲気に反して、その背はいつも凛と伸びている。白いワイシャツに包まれた背は涼やかで、この猛暑のなかにあっても汗ひとつかいていないように見えた。飾り気のない黒い日傘はどれだけ歩みを重ねても揺らがない。それを支える腕が――彼自身が揺らぎないからなのだと知っていた。
強いひとだ。
御門衣純が盗作の疑いをかけられていたあいだも、亡くなったときも、そのあとも、思い出せるのは彼のうつくしく伸びた背と、迷いなく前を見据える夜色の瞳ばかりだった。
父を亡くしたばかりの彼が、父がご迷惑をおかけいたしました、と多くのひとに頭を下げつづけてきたことを知っていても。場所によっては、手をついて謝罪までしたのだろうと察しはしても。
それでも、彼はいつも源一路や使用人たちの前で揺らぎを見せることはなかった。
穏やかに微笑み、自分の身の振り方を考えろと気遣ってくれた。
多くの門下生が去っていくときも、今までご苦労様でした、と静かに見送っていた。引き留める言葉もそぶりも見せず、早くお逃げとでも言うように。
だからといって浮葉が何も感じていないわけではないことも、源一郎はよく知っている。
……衣純が亡くなった後、一度だけ、どうしても耐えきれずに言ってしまったことがあった。
「先生はこんなことをする方じゃない。それは浮葉様が一番よくご存じのはずです。なのに、どうして、」
「源一郎」
こちらへ背を向けたまま発せられた声は、一瞬、激しく叩きつけられて割れた硝子のかけらのような鋭さをもっていた。
居合の師の模範演技を間近で見たときに似た、これ以上一歩でも進んだら己の命は潰えるのだと錯覚するような強い圧が、あった。既に喉元に切先を突き付けられているような冷ややかな感触が背筋を震わせた。
気おされた源一郎が呼吸するのを思い出した頃、浮葉もまた己の感情の手綱をとることを思い出したのだろう。こちらを振り向いた表情はいつもと同じ、凪いだ池のようなうつくしさをしていた。
「いまでも父を慕ってくれるお前の気持ちは、ありがたく思っているよ」
やさしい声には、たしかに感謝がこもっていた。
けれど同じくらい、それ以上余計なことは言わないでくれと突き放してもいた。
「もう、夜も遅い。お前もさがって休みなさい」
言わない方が良いことを言ってしまったのだとうなだれる源一郎にかけられたのは、いつもよりすこしだけ和らいだ声だった。彼の奏でる音に似た、さみしさをはらむ声。ひどくやさしく、うつくしいからこそ、根底に流れるそのうらさみしさが浮かび上がり、際立つように感じられる。
謝罪の言葉さえ退けるあるじの瞳の前に深くこうべを垂れ、はい、とちいさく答えるのが精一杯だった。
(浮葉様の抱える重責を、ひとつでも預かることができれば良いのに)
せめて支えることが赦されれば良いのに。そう思うのに、現実ではこうして彼の供として荷物持ちをするのが関の山だった。
どこかを訪うとき、浮葉はしばしば源一郎を門前で待たせた。いまもなお御門家を慕う源一郎に、嫌なものを見聞きさせまいという配慮もあるのだろう。それでも、彼とのあいだに引かれた一線を感じて取り残されたような気持ちになる。そんな己をひどく子供じみて感じ、そのたびに忸怩たる思いで源一郎はくちびるを噛むのだった。
「源一郎」
「……、……はい」
いつのまにか足を止めた浮葉が、源一郎に向き直っていた。無意識に彼の挙動にあわせていたのだろう、自身の足も止まっていた。
うつくしい月夜に静かに広がる池の水面のような深い瞳が、まっすぐにこちらを見つめている。ひとつ瞬きをしたあと、浮葉がわずかに眉を寄せる。怒っているわけではないようだが、なにか不快にさせてしまったのかもしれない。
尋ねようとするより先に、浮葉の視線が優雅に舞う。
「丁度良い、あそこで休んでいこう」
「承知しました」
「源一郎。お前もつきあいなさい」
「はい」
浮葉が示したのは、最近できたばかりのかき氷専門店だった。
珍しいな、と思いながらも源一郎は黙ってあるじの後についていく。彼が好むのはもっと古い、純喫茶や音楽喫茶とでも呼ぶのだろうたぐいの店だと思っていた。
平日の、氷を食べるには微妙な時間だからだろう、列はまだなかった。並ぶことなく入った店内は涼風が巡り、思っていた以上に全身が灼熱に火照っていたことを自覚させられる。
店員の案内で席につく。
ソファの奥に抱えていた荷物を置き、取り出したハンカチで首筋を拭く。こんなに汗をかいていたのか、と驚く源一郎の前で浮葉がちいさく息をつく。
「気づくのが遅れてすまなかったね」
「は、……?」
相槌を打とうとして、彼の言葉の真意を掴み損ね、半端な声が漏れてしまった。
苦笑交じりの浮葉の長い指が音もなくグラスを持ち上げる。水滴が白い指を濡らすのが涼やかだった。
「この暑さだ。お前も、疲れる前にお言い」
「浮葉様……」
「お前に倒れられると、運ぶのに難儀する」
すこし突き放したような言い方だったが、語尾はからかうような笑みでわずかに揺れている。熱中症になっていないかと心配してくれていたのだ。気づくなり、胸のうちにあたたかな感情が湧きおこる。
預けた荷物を損なわれることより、己の身そのものを案じてくれた。その事実もまた、源一郎の心を震わせていた。
「お気遣いいただき、ありがとうございます」
「お前はもう少し、自分自身を気遣いなさい」
苦言を呈しながら、浮葉の手がメニューのひとつを源一郎の方へ押しやる。
ありがとうございますと口にしたものの、あるじより先にメニューを開くのも気が引けた。
黙して待つ源一郎に気づいたのだろう。浮葉が溜息を吐き、ゆったりとしたしぐさでメニューを開く。
ずいぶんと斬新なメニューだとつぶやく浮葉の大人びた白い頬をそっと見つめたあと、源一郎も品書きに目を落とす。
久方ぶりに口にしたかき氷は、澄んだ甘さと心地よい涼をいつまでも源一郎に与えつづけた。
***
みぞれの降りはじめた池のほとりに、源一郎はひとり佇んでいた。
頬を打たれた痛みより、己を抜け殻と評した瞬間の激情に揺れた浮葉の瞳に、源一郎の心は打ちのめされていた。
自分はまた、言ってはならないことを言ってしまった。
いつも穏やかな彼を、あそこまで激昂させてしまった。
駄々を捏ねる自分は子供じみていて、さぞ彼を失望させたことだろう。
見放されたのだ、と思うたび、心の底から寒々しい思いが這い上がってくる。
黒い衣装の肩に、袖に、みぞれが触れては溶ける。濡れて黒々とする生地を眺める脳裏に、京都にきてからの日々が浮かんでは消え、また浮かんでゆく。尽きることない思い出のほとんどの場面に、浮葉の姿があった。
たったひとつしか違わないのに、演奏の腕も、他のすべても、決して彼には追いつけない。一年後に彼と同じようになれている気さえしない。そう思うほど、彼を追って歩こうと力が湧いた。すこしでも近づきたい。いつか、肩を並べられるくらいに成長したい。祈りに似た澄んだ想いがいつも胸のうちにあった。
音楽をしたい。
彼に追いつきたい。
彼のそばで、すこしでも役に立ちたい。恩を返したい。
それぞれの願いがあまりにも大きく育ちすぎて、混じりあってしまったのだ。
――お前はもう少し、自分自身を気遣いなさい。
呆れたような、たしなめるような、けれどひどくやさしい声が、白い雪のかけらとともに耳元で揺れた気がする。
猛暑の日、かき氷を食べながら源一郎は、このひとのためにすべてを尽くそうと改めて誓った。
けれどそれは、彼の望むところでは、ない。
(浮葉様が俺に望むのは、……)
そばにいることでも、尽くすことでもなかった。
音楽をしたいと願った最初の気持ちを、貫き通すこと。
自分の道を歩くこと。
(浮葉様はいつも、まっすぐに前を見ていらした)
ひとの背を見ているばかりの自分が、己の進むべき道を常に見据えていたひとに追いつけるはずがなかったのだ。
打たれた頬は熱を帯びている。手のひらで触れるとじんと疼いた。火照る肌に、あの夏の日に感じた甘さと涼を思い起こす。
彼は突き放したようなことを言うときほど、源一郎を案じてくれていた。
置いていくときはいつも、源一郎を嫌なものから遠ざけるときだった。
「……浮葉様、……」
胸のうちにこみあげる感情を表すすべを知らず、源一郎はただ敬愛するひとの名をつぶやく。
涙がにじみそうになる熱い目元に力をこめ、きつく瞼を閉ざす。
己よりよほど多くの重たいものを抱えながら、彼は決して弱音を吐かず、涙を見せなかった。
深く息を吸いこみ、奥歯を噛みしめながら天を仰ぐ。
頬に触れては溶けるみぞれの冷たさがいまは心地よかった。
了