「部長・・・?」
「おお、早ぇな」
もとめた ぬくもり
5時に出社する者がいるため、会社の鍵を持っている管理職はそれより早い時間に出社し、鍵を開ける。情報管理部以外の全てのセキュリティを解除し、社内のカップ式自販機で買ったホットの緑茶を持って、中庭の見える2階の廊下で休んでいた。
昨日の夕方に雨は上がり、濃い雲は夜の間に抜けた。少し寒さを感じさせる薄い青が心を落ち着かせる。これが雲のない快晴、天色だと、無意識に神経が興奮するから疲れる。
「木曜か」
あと二日、今週は実家に帰ろうと思う。ただ。そうするには今日の残業は確定だな。ミカサのとこは落ち着いているが、オルオのところに新しい調査対象が舞い込んできて、まだ計画作成段階だ。来週頭には始めてえから、方向とそれぞれの担当を今週中には決めたい。
そんなことを考えながらその場に居続けていると、てっきりもう仕事を始めているだろうミカサが同じようにカップを持って現れた。その強い香りからしてコーヒーだ。
「仕事大丈夫なのか?」
「はい。繁忙期に慣れてしまって早く目が覚めた、ので、誰かいるだろうと出てきました。あ、打刻はまだしてませんから」
朝から仕事もしないでぼけっとしているのに、残業代が付いてはけしからんからな。席に着いて業務を開始するときに打刻をする、そんな規則のせいか、職場を嫌う奴は少ない。
「仕事がないなら帰れ、出社したなら仕事しろ」、それでは息が詰まる。
人間だれしも休息は必要だ。通勤で疲れ、仕事で疲れ、その間を埋めるために休む場所を求めれば金が出ていく。
だから、エルヴィンが上と何年も掛け合って止めさせた。おかげで頭だけでなく体を酷使する仕事だが、退職者は少ない。職場でしか会わない奴とも、こうした時間でコミュニケーションを取れるから、困ったことや相談事は溜めこまず、部署を越えて誰かしらに話せている。
「きれいな空ですね。そういえばリヴァイ部長って、よく外見ますよね?もしかして空、見てました?」
「そんな気になるほど外見てたか?」
「わりと、結構」
気付かなかった。ならこれからは控えた方がいいだろ。部長がぼけっとしているなんて下に示しがつかん。
「好きなんですか?」
「これと言って気にしたことはない」
「じゃあ疲れてたんですかね」
「疲れてなくても空くらい見るだろ」
若ぇのは何かと疲れに持っていく。疲れてようがいまいが、見たくなったら見るだろ。
まあ、ほっとはするが。
「・・・リヴァイ、部長」
「ん?」
「前に、手を繋ぎましたよね?」
ミカサと手を繋いだ、それは一月は前になるか、日曜に巨大樹の森に行った時のこと。それ以外でこいつに自分から触れたことはない。
「・・・あったな。それがどうした」
冷や汗が流れる。今更ハラスメントで訴えるとでも言うのか?
自分から繋いだし、結構な時間・・・3、4時間は繋いでいた。了承を得たとはいえ、相手が上司であったし、ミカサは手を振り解けなかった、であれば、強要したことになる。
あぁ、なんてことだ。この青い空に血の雨が降る。
「・・・どうでした?」
「は?」
「なんか、こう・・・何か、感じました?」
想像とは違う雰囲気で、何を言い出すかと思えば。超能力的なものかと、ぽかんとしていると、少し恥ずかしそうにしているミカサが。
「安心した、とか、落ち着く、とか」
そういう意味か。当時、抱きつかれることが多かったせいか、不思議とミカサと手を繋ぐことに抵抗はなかった。
仮眠をとるために寄り掛かった体。遠慮がなかったといえば・・・あぁ、ねぇな。
久しぶりに女を抱きしめた。「人」ってこんなに心地いいものだったろうか。欲求で互いを求めるために引き寄せるのではなく、何でもない、寧ろやってはいけない部下を抱きしめたのに。
ミカサは香水を付けない。ミカサが俺に言うような人の匂いもしない。ただ温かく柔らかいカラダ。
でも分かる、今抱いているそれは「ミカサ」だ。
拒絶されないのをいいことに、更に引き寄せ、抱きしめた。
心の底から安心し、満たされた。ここのところ、生きていることに幸せを感じることなどほとんどなかったが、久しぶりに感じたソレ。
だからこそ、その先の眠りにまで誘われた。
こいつとなら、この先も生きていける。
こいつとこの先、生きていきたい。
そんなバカみてぇなことを思って、離れた。もうミカサと抱きしめ合うことなんてねぇだろう。
予感があったから、未練があったから、だから「手を繋いでもいいか」と訊いた。
中にニットを着て、電車に乗り込む。ミカサからの体温はもうないが、手から伝わる温もりが離しがたかった。
俺が抱きしめたように、この手が背に回れば、その先にどんな幸福感が待っていることか。
肩と腕を寄せ合いたかったが、ちゃんと理性も働いていた。シートの上に載せた俺の手のひらにミカサが上から覆うように手のひらを合わせる。放れないよう、離させないよう、下からやんわりと力を入れて握っていた。乗り換えても、俺たちの終着駅の改札が目に映るまで。
『悪かったな』
何に対してか、なんて言わなかった。
『いえ、自分が好きで付いて行った、ので』
やっぱミカサだな、と心の中で笑った。言いたかったのは、「甘えて悪かったな」。
『じゃあな』
『はい、また、明日』
本心を言わず、そのまま別れた。
案の定、その後からミカサは枕を抱きしめる行為は変わらないものの、俺に抱き着いては来なくなった。俺も「ヤバかったか」と、必要以上にミカサには近寄らず、以前の距離を保っていた。
「…ちょう、…部長、リヴァイ部長!」
「んん?あぁ、悪い。考え事してた。なんだったか?」
「・・・もういいです」
朝露で緑に輝く中庭と、安らぐ青の空を前に思考に集中できていた。これが仕事だったらな、と思うほど。始業前は2階会議室を借りて、机を窓側に付け、茶でも飲みながら仕事するか。
「あぁ、最高だな」
「はい?」
「好きなんだと思う」
ミカサの言う通り、空が。そして仕事にまでした緑が。この景色が見られる時間は少ない。夏でも4時半~6時半が限度か。太陽が昇れば強い日差しに、かえって脳が疲れる。冬場になれば7時から一日中そうしていられるな。いや、みんなから反感買うか。
手元のカップを傾けるが、既に飲み終わっていたことに気付き、調査部のある5階に戻るかと横を向いた。そこにいたのはミカサ。
「なんだ、赤い顔して」
「へえっ、いや、だって...っ」
「あぁ?」
「い、いま、好きって」
「ん?あぁ、この景色がな。お前の言う通りだ、俺は空が好きなんだろう」
「は?」
「あ?」
「・・・・・」
「・・・・・」
よく分からんが、今度はわなわなと震え出した部下。カップを持たない方の手を、あろうことかグーにして振り上げたので、振り下ろされる前に手首を掴んだ。
「・・・上司に何しようとしてんだ?」
「・・・体が、勝手に」
「お前ならあり得て、何にも言えねぇな」
優秀でお堅いミカサのことだ、本当に本能で体が動いたんだろう。そんな頭にくるようなこと言ったか?
それよりも、だ。俺より体でけえし、力も強いのに、こいつ、手首細ぇな。折れちまうんじゃねぇか、これ。それに冷てえ。
握っている手を手首から上に移動し、握りしめられている手のひらを無理やりこじ開ける。そのため指と指を絡ませるカタチになった手をぎゅっと握ると、やはり冷たい。ミカサは突然の行為に驚いたのか、グーだった手が今は力のないパーだ。
「おい、手が冷えてる」
「へ、え、え、ええ?」
「寒いのか?」
「そ、そんなことは、ない。中はちゃんと温、かい」
「ならいいが。そろそろ冷房かかるからな。気を付けろ」
そう言って手を離し、ミカサの元を離れた。うんともすんとも言わず、そのままのミカサが気になって振り向き、声をかける。
「俺は先に行くぞ」
やはり反応のないミカサだが、今までの様子から大丈夫だろうとその場を離れた。
「そういえば、あいつに触れたの久しぶりだな」
心が軽い。
朝の青と朝露に濡れた緑、そしてミカサ。
その理由を考えるのを、今は止そうと、知らないふりをして、エレベーターのボタンは押さず、軽い足取りで階段に向かった。