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    三角のモノ

    @Tnigroviridis

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    三角のモノ

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    真八真。夏の終わりの風景。10月か11月に書いたやつ。

    『真下、少し困ったことになった』
     けたたましく鳴り響くコール音に携帯電話の通話ボタンを押した真下は、電話口から伝わってくるその困惑に慌てて事務所を飛び出した。案件を片付けてきたばかりでコートも鍵も手に持ったままだったので、置いたばかりの鞄を手に持つだけで準備が完了したのは幸いである。
     事務所の扉は施錠し、車のドアは解錠。後部座席に放り投げた鞄からは茶封筒が飛び出すが、真下はそれを無視してエンジンをかけるとアクセルを目一杯に踏み込んだ。
     その際に茶封筒へ行儀良く収まっていた紙達がおどりでて、後部座席の足下で絨毯のように広がる。しかし、これも真下は気にしなかった。というより気付いてもいなかった。
     頭の中には。豪奢だがどこか寂しい雰囲気の館に住む主が古い形の受話器を手に青白い顔で立ちすくむ姿しかなかったからである。

     ガレージの扉すれすれのところへバンパーをつけた真下は運転席の扉を半ば蹴りつけるようにして開け放つと、そのまま九条館の玄関扉まで走りよりドアノブを押した。
     しかし、扉は開かない。普段は鍵の一つもかけはしないのに、こんな時に限って重たい金属の抵抗が真下の掌に返ってくる。
     真下は荒々しく舌をうつと、硬い木板に拳を打ち付けた。二度三度、館の主の名を呼びながら重ねれば、ゆったりとした足音と共に錠の外れる音が響く。
    「真下、来てくれたんだな」
     扉の隙間から現れたのは、真下の想像通りに血の気の引いた顔、とはいかないまでも、やや不健康そうな顔色をした館の主だった。
     想像した最悪の事態ではなかったことに真下は安堵し、大きく息を吐く。日に当たらないこの男が不健康な肌色をしているのは日常の一部で、下がりきった眉は非日常の一部、いや半部だ。骨が折れているとか、血が出ているわけではないし、息もしている。真下にとって男の眉が下がっているくらいならどうということはないのであった。
    「ものぐさな当主様が珍しく掛けてこられたんで、急行して来たんだ。しかし、貴様が電話機の使い方を知っていたとはな。いつもこちらが連絡するまで何の音沙汰もないのは、電話のかけ方が分からないんだと思っていたぞ」
    「ああ、いや、それについては申し訳ない。顔も見えない相手と話すと言うのはなんというか……、面倒だろう」
    「貴様、それなら事務所に顔を出せ。ついでに適当な案件を回してやる」
    「……立ち話もなんだ、入ってくれ」
     真下の提案に男はあからさま過ぎる程の態度で話題を変えた。それはほとんど無視といっていいほど露骨だったが、男の瞳が気まずそうにうろうろと床の上をさまよっていたので、真下はこれ以上の追求を止めた。
     あまり追い詰めすぎると変に頑なところのあるこの男から門前払いを食らわないとも限らないし、何より真下はこの男に対してだけはどうにも手を緩めてしまう。命の関わることに関しては辛うじて締めているが、それ以外に関してはどうしても甘さが出てしまっていた。
     ため息を一つ零した真下が男の押さえる扉を潜ると、やはりそこは何の変哲もない、見慣れた館のホールだった。豪奢な中央階段の直線も、優雅な天井照明の曲線も、全て普段と変わりない。相変わらず光沢のあるソファは空のままで、古い柱時計は正確に秒針を刻んでいた。
    「それで、何があった」
     真下は現場はここではないと瞬時にあたりを付けていた。未だ遺体の見つからない妹の部屋に、曰く付きの道具が並ぶ男の自室。そして、あの人形の眠る倉庫。
     この館は事件の現場に困らないだけの部屋数を持っている。
     真下の、濃い隈のせいで何倍にも鋭さを増した瞳に晒された男が僅かにたじろいだ。それから、一歩さがった足の形のまま、恐る恐る口を開く。
    「あまり、怒らないでほしいんだが」
     真下の片眉がぴくりと跳ねる。それを見た男の肩も同じだけ跳ねる。
    「内容次第だ。続けろ」
     男はもう片方の足も下げようとしたが、真下の眉の勾配が急になりかけたのに気付くとそっと元の位置に戻した。再び、今度は一言一句、慎重に言葉を並べた。
    「風呂からアヒルのビニール玩具が湧いてきたんだ。おまえにはその解決方法を一緒に探って欲しい」
     真下の片眉は上がらなかった。その代わり、眼がこれ以上ないくらいの大きさに広がって、口は呆けた鳥のおもちゃのようになっていた。半開きの唇から一音。
    「は?」
     元刑事の探偵にだって、理解できない事件はある。まさにこれがそうだった。

     男に導かれた真下が辿り着いたのは九条館の一室、暖かな空気の満ちる湿った場所。そこは幾つかある浴室の一つだった。
    「ここは個人用のもので、バスタブはサヤのお気に入りだった」
     男の視線の先にはまろやかな丸みを持ったものが四つの金の足を生やして立っている。乳白色の柔らかい光を纏ったそれは、猫足のバスタブだった。成人男性が使うにはあまりにもかわいらしい。実際、使用されてはいないのだろう。トルコブルーのタイル地から浴槽の側面に至るまで、水に濡れた形跡はまるでなかった。
    「湯につかることがあまりないから普段は閉めているんだが、たまに風を通してるんだ。 それで今日、窓を開けにきたら……これだ」
     真下は男に促されるままに浴槽の中を覗く。途端、反射的に眉根を寄せた。
    「……多いな」
     そう、多かった。浴槽にみっしりと詰まったアヒルのビニール玩具は黄色の肌とオレンジの嘴を異様なほどピッタリと組み合わせて、これ以上ないほど隙間を無くしていた。
     その異常な密集具合はアヒルの眼、デフォルメされたペイントの模様、白地に浮かぶ黒い小さな点を、何か奇妙な生き物の卵であるかのように真下へ錯覚させるには十分だった。
    「それに、見ろ。こうやって取り出すと」
     男が浴槽のアヒルの壁に手を突っ込む。寸分なく合わさったアヒルの玩具達の絆は固いように思われたが、男の手は予想よりはるかに簡単に肘まで埋まってしまった。固唾を呑んで見守る真下の前で、男は器用にもその胸へ一抱え分のアヒルを収めた後、それを床へと丁寧に下ろす。
     トルコブルーの爽やかな色合いに放たれたアヒルの群れは何の変哲もない光景に思われた。真下はしばらく瞬きもせずにそのアヒル達を観察していたが、流石に限界が来て眼をつむったその時。
    「……!」
     アヒルが消えた。
    「変だろう。目を離した途端、浴槽の中に戻ってしまう」
     猫足のバスタブはアヒルの玩具でみちみちと音を立てているようだった。

    「それで? どうするつもりだ」
     真下は男に尋ねた。他の浴槽、いや、洗面台もだ。乳白色で丸い、アヒルのビニール玩具が入りそうなものには全て同様の怪奇現象が起きていた。それを男の案内で確認し終えた真下は、この館が日常生活を送るには困難な代物へと成り果てているのを理解して、これからのことを尋ねているのだ。
    「解決するまではホテルに泊まるしかないだろう。シャワーを浴びているうちに何が起こるか分からないからな」
    「風呂のためだけにか? 金がかかるだろう」
    「それは仕方ない。諦めるさ」
     男のその台詞に真下は舌打ちを溢した。これだから金持ちは。
     それと同時に真下の頭にふと疑問が湧き起こる。ホテルでこの男を一人にして、何か事件に巻き込まれることはないのか。死者に魅入られやすいこの男を不特定多数の人間が行き交うような場所に放置して良いのか。しかも、ホテル。違うとは分かっていても、あの雨の日の記憶が真下の脳裏に否応もなく蘇る。
    「……俺の家に来い。そっちの方が金もかからんだろう。それに、迎えに行く手間も省ける」
     真下はカラカラに乾いた舌の根を引き剥がしながら、そう告げた。動揺を隠すのは慣れている。案の定、男は気付いて様子もなく、ただ目を丸くして真下を見つめる。
     真下はその純粋な驚きに居心地が悪くなって左右の重心を入れ替えたが、それでも相手が何も言わないので仕方なく口を開いた。
    「なんだ、不満か?」
    「そうじゃない。そうじゃないが、びっくりした。おまえは自宅に他人を招かない人間だと思っていた」
    「別に嫌悪感があって入れないわけじゃない。必要がないから入れないだけだ。それに、俺も家には殆ど帰っていない。風呂に入りに帰るだけだ」
     そう真下が言い終えると、男は納得した様子を見せた。それから、眉を少し下げ、
    「すまない、世話になる」
     と小さな声で口にした。

     何を持って行けばいいのか迷っている男に服と歯ブラシと貴重品だけを集めさせた真下はそれを適当な鞄に詰めさせた後、男を助手席に乗せて車を発進させた。
     後部座席に散らばった書類を見て男は呆気にとられた様子で扉の前で棒立ちになっていたが、真下に踵を蹴られて仕方なく助手席の扉を開け直したのだ。
     小旅行に必要な荷物を詰めた鞄は今、男の膝の上で窮屈そうに鎮座している。
    「そういえば、寝に帰るだけってことは洗濯もしていないのか?」
     真下は横目で男を一瞥すると、その質問を黙殺した。代わりに、この後の食事の希望について尋ねる。男は真下の態度に気を悪くした様子もなく、真剣に考えはじめた。顎に手をやって、やや視線を下げる。フロントガラスから差し込む西日が男の頬に睫毛の先を伸ばしていた。
     それから男はふいに顔を上げ、飛び込んできたオレンジの明るさに目を細めた。唇を湿らせて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
    「そうだな……。あっさりしたものがいい」
    「具体性がないな」
    「うどんとか、そばとか」
    「それなら、このまま食いに行くか。うどんもそばも同じ店にあるだろ」
    真下がハンドルを左へ回すと、遠くの方で、白いのぼりがはためいている。文字をはっきりとは読めなくてもそこに何が記されているのかは何となく分かるものだ。そういう色と形をしている。
    「………………」
     いつの間にか車内は沈黙で満たされていた。真下にとって、男と共に何処かへ向かうことは珍しくない。
     常に死の淵をうろついている男は、真下が目を離した隙にその淵を越えようとするからだ。向こう側に広がる際限ない暗闇は一度落ちてしまえば二度と戻ってはこられないことを男は知っているはずなのに、暗闇から聞こえてくる呼び声に誘われてふらふらと足を踏み出すのだ。そういった男のどうしようもない、もはや性質とでもいえる悪癖を抑える為に真下はなるべく男についてまわっている。それで男から苦言を呈されたことはないし、述べさせるつもりもなかった。側でその乾いた手のひらを掴む人間がいなくては生き延びられないことを、男もきっと身にしみて分かっているのだ。
     それでも、このように沈黙が続くのは珍しいことだった。大抵は調査の途中で意見を交換しながら移動をする。男が短い質問をして、真下が説明をする。真下が意見を述べて、男が相づちを打つ。そういった流れが二人の間では完成されていて、それ以外にはなかった。残り時間と犠牲者の数は反比例するかのように、減るにつれて増える。一刻を争う事態の中で、移動時間さえ休息には当てられなかったのだ。
     それが、今回はこうも穏やかに物事が進んでいる。手がかりが見つかったわけではないが、犠牲者がでたわけではない。無傷で五体満足。男が自身の家に住めなくなったことだけで済んでいる。
     真下が一所懸命に舌を動かさずとも、男が震える指先を無理に伸ばさずとも、いいのだ。真下は法定速度を守ってアクセルを踏み、男は夕食に何を食べるのか考えるだけ、それだけで十全に物事が進む日だって存在していい。
     それに、真下はこの沈黙を案外悪くないと感じていた。車内に満ちる赤々とした陽の光は多少眩しくはあるが、カーラジオをつけずとも、車のエンジン音と隣に座る男の呼吸音だけで十分に気が紛れる。余計なことをべらべらと話すリスナーよりも、男の深い吐息が車内に満ちていく方が真下にとってはずっと安心できたからだ。

     真下の車が先程見えていたのぼりを背に走るのを止めた時、陽によってぬくもった窓ガラスを枕に男は眠っていた。膝の上の荷物を抱きしめて、半開きの口からは均整なエナメルの先が覗いている。
     その目の下に滲む疲労の影に真下は、自分が駆けつけるよりも随分と前からあの不可解な現象が起きていた可能性に思い至った。あまりにも奇々怪々とした光景にいつからそうなったのか質問していない。もしかしたら、昨夜かもしれないし早朝かもしれない。どちらにせよ、真下が九条館へ来るまで男は一人であのアヒルと向き合っていたのだろう。
     寝かせておいてもよかった。しかし。
    「おい、八敷。ついたぞ」
     真下は丸まった肩に手を掛けて乱暴に揺すった。サイドガラスに額を幾度か打ち付けた男が低い呻き声を上げながら顔を上げ、目をしばたかせる。それから、ずれた眼鏡を直しながら大きく欠伸をした。
    「だしの匂いがする」
     鼻を鳴らしてそう口にする男に、真下は何とも言えない感情を抱く。胸の奥をこちょこちょと擽られるような、奇妙な感情だった。
    「先に入ってろ。俺は後ろを片付けてから行く」
     なので、真下は少しだけ時間を置くことにした。
     ガラス窓に囲まれたうどん屋の店内はカウンター席か狭い二人がけのテーブルしかない。カウンター席は外から見る限りではスーツを着た人間で埋まっており、後はテーブル席が数個空いている。そういった状況で入店したのなら真下は男の前に座らなければならないし、男の前に座った真下がその顔から目を逸らさない自信が今はなかった。
     男は一度だけ後部座席に散らばる紙の惨状に目を遣ると、一言だけ了承の意を示して車内から出て行った。
     真下はシートベルトをつけたまま運転席へと深く身を沈める。
     そうして。強い西日の光に思わず閉じた瞼の裏、赤くけぶった皮膚に紛れて無防備な寝顔を晒す男の形が焼き付いているのを、真下ははっきりと確認したのだった。

    「久しぶりに温かいものを食べた気がする」
      八敷がそう溢したのは、どんぶりの中身を平らげ、会計を済ませ、再び荷物を抱えて助手席へと収まった頃だった。
    「そうかよ。食べてはいるようで何よりだ」
     これが久しぶりに物を食べた、という台詞なら真下は罵声の一つも浴びせていただろう。だが、そうではなかった。カロリーは摂りさえすればいい。真下だって、いつも温かい食事をしているわけではない。
    「じゃあ、行く……いや、その前にスーパーに寄るか」
    「……何を買うんだ?」
    「明日の朝飯と飲み物。このまま帰ったら朝食が水になっちまう」
    「それは、困るな。俺は、スクランブルエッグとクロワッサンが食べたい」
     真下はシートベルトを締めてキーを回した。
    「あんた、毎朝そんな良い食事をしてるのか?」
     エンジンが音を立てる。
    「毎朝ではないな。明日だけだ」
     真下はアクセルを踏んだ。車は静かにバックして、駐車場を後にする。
    「じゃあ、卵と食パンだな。俺は、目玉焼きとトーストを食う」
     フロントライトの眩い光がすっかり暗くなった景色へと真っ直ぐに伸びていた。

     結局、買ってきたのはパックに入った加工米と卵、フリーズドライの味噌汁だった。
     クロワッサンのパイ生地の食感を楽しみたい男と、食パンを生で食べたくない真下にとって、買い物を片手に見つけた真下の部屋にはトースターがないという事実は無視しがたいものだったのである。
     ビニール袋ごと冷蔵庫に突っ込んだ真下は男へ先にシャワーを浴びるよう伝えた。
    「浴室にあるものは適当に使え。タオルは棚のどっかにある。新品があったら開けていい」
     真下の説明はどこまでもおざなりだったが、男にとってはそれくらいでちょうどよかったようだ。夕食から幾分か経った頃合いで、半分落ちた瞼で瞬きを繰り返しながら浴室へと向かっていく。必要な物を鞄ごと抱えて歩く様子は、柳から落ちる一葉に似ていた。
     その様子を眺めていた真下は男が脱衣所の扉を閉めたのを確認すると、念の為、シャワーの音がするまでその前に控えていた。戸棚の揺れる音と、浴室の扉が立てるゴムの軋み、次いでシャワーコックが捻られ、水滴が床を打つ。
     真下は足音を立てないよう静かにその場を離れた。異様な物音の一つでもあればすぐに扉を開け放つ用意をしていたが、それも無くなった今、物音を聞いていたなどとは知られてはならなかった。真下には盗聴癖はないのだから。
     真下はくぐもった水音をラジオ代わりに自身の部屋をざっと見渡した。スチールのローテーブルにパイプベッド。ラグはない。テーブルの上には薄らと埃が積もっている。
     窓の外のベランダには干しっぱなしになった雑巾が干物のようになっていた。
     真下は、とりあえず窓をカーテンで覆って、ベッド脇に落ちていた紙箱からティッシュを数枚抜き取るとローテブルの埃を払う。それから、近くのごみ箱に丸めたそれを捨て、ベッドに腰かけた。値段だけで選んだそれは身動ぎするたびに金属のゆがむ音がする。
     腕を組み、足を組みかえ、腕の上下を入れ替えて、それからまた足を組みかえた。男が浴室から出てくるまでずっとそうやっていた。

    「おい、もう少しつめろ」
     電気を落とした部屋の中、かろうじて埃の被っていないシーツの上で真下は男と並んでいた。壁側に男、その反対に真下という配置は、真下自身が決めたことだ。九条館の広いベッドで眠りなれた男がシングルの狭いベッドで落ちずに眠れるわけがないと予想したのだ。
    「これ以上は壁しかないんだが……。なぁ、俺は車でもいい。これじゃあ、おまえも狭いだろう」
     真下は男の言葉を無視するか迷ったが、男が居心地悪そうに身動ぎをする度にスプリングが小さく跳ねるので、男の体に腕を巻き付けその動きを止めた。
     体を硬直させた男の耳へ静かに言葉を落とす。ベッドの上の二人に身長差はない。
    「いいから寝ろ。車で寝られて風邪をひかれてはかなわん」
    「だが、」
    「朝食の卵はあんたが焼けよ」
     それで全部チャラだ。真下がそう続けると男はようやく体の力を抜いた。真下の腕の中で、真下と同じ匂いを纏った男がその体温をゆっくりと馴染ませてゆく。
     暗闇の景色から形を掴み始めた真下の視界に、男の角ばった背骨が緩やかに動いていた。その動きの滑らかさは男が何事もなく夜を迎えている確かな証しで、真下はその尖りに手で触れて夢ではないことを確かめてみたくなった。
     しかし、真下が手を伸ばすより先に、呼吸のリズムに合わせた男の声がぽつぽつと落とされる。真下は男の邪魔をしないよう息を潜めて、その音に耳をそばだてた。
    「かんぺきな、めだまやきを」
     男の声はそこで途切れる。真下は自身の呼吸すら抑えて、じっと続きを待った。だがそれきり、男の音は眠るときの空気の行き来へと変わってしまった。
     それでも真下は、規則正しく繰り返される空気の流れに耳を傾けていた。けれどやがてその耳は男の呼吸ばかりではなく、二人分の静かな吐息を捉え始めて、明けの日が昇る頃にはもうすっかりその境目が分からなくなっていた。
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    三角のモノ

    DONE真八真。真下が報われる、あるいは一歩地獄へ進む話。9月か10月か。二十一時。帰宅ラッシュを終えて随分と時間が経っている。新幹線が止まるといっても、ここら一帯は人口が少なく賑わいも乏しい。ホームに立つ人もまばらで、他に行くあてもないから訪れる電車を待っているだけだ。
     真下は出発を待つ電車の一両へ八敷と共に乗り込んだ。二人がけのシートが礼拝堂のように並ぶ中で、入り口からすぐ近くへ八敷を詰め込む。他の乗客がいないので席はいくらでも空いていたが、怪異を消滅させたばかりの男をなるべく早く休ませてやりたかった。
    「なんか食べるか?」
     シートへと背中をべたりとくっ付けた八敷は真下の方を見もしない。ただ憂鬱そうに眉根を寄せて何かを考え込んでいるようだ。
     真下はため息を吐きながらその場を離れる。出発まで時間があるわけではない。疲労が体の端々まで根を張っている。手っ取り早く栄養をとって、この疲れを少しでも軽くしなければ眠ってしまいそうだった。

     人の少ないホームに売店はない。仕方なく自販機からおしること無糖のコーヒーを取り出した真下は、八敷のいる車両へと戻ってきた。
     相変わらず他の乗客の姿は見当たらない。座席からはみ出した八敷の頭だけが目立っている。
     真下は 2351

    三角のモノ

    DONE真八真。夏の終わりの風景。10月か11月に書いたやつ。『真下、少し困ったことになった』
     けたたましく鳴り響くコール音に携帯電話の通話ボタンを押した真下は、電話口から伝わってくるその困惑に慌てて事務所を飛び出した。案件を片付けてきたばかりでコートも鍵も手に持ったままだったので、置いたばかりの鞄を手に持つだけで準備が完了したのは幸いである。
     事務所の扉は施錠し、車のドアは解錠。後部座席に放り投げた鞄からは茶封筒が飛び出すが、真下はそれを無視してエンジンをかけるとアクセルを目一杯に踏み込んだ。
     その際に茶封筒へ行儀良く収まっていた紙達がおどりでて、後部座席の足下で絨毯のように広がる。しかし、これも真下は気にしなかった。というより気付いてもいなかった。
     頭の中には。豪奢だがどこか寂しい雰囲気の館に住む主が古い形の受話器を手に青白い顔で立ちすくむ姿しかなかったからである。

     ガレージの扉すれすれのところへバンパーをつけた真下は運転席の扉を半ば蹴りつけるようにして開け放つと、そのまま九条館の玄関扉まで走りよりドアノブを押した。
     しかし、扉は開かない。普段は鍵の一つもかけはしないのに、こんな時に限って重たい金属の抵抗が真下の掌に返ってくる。 7772

    三角のモノ

    DOODLE真八真。吸血鬼パロ。ごはんをきちんと食べないかずおくんを心配して定期的にみにくるさとるくん。
    2020.12.07
    森というのは生命の息づく場所である。鳥が、虫が、獣が、地に着ける足の数だけ生きている。だが、ここにはそういった生き物の気配というのが何一つ見当たらなかった。
     九条館。鬱蒼とした樹木の壁の向こう、突然現れたその館を初めて眼にしたとき、真下は古いホラー映画に迷い込んでしまったような錯覚を覚えた。
     歴史ある建物特有の堅牢な出で立ち。名家の所有する館らしい瀟洒な外見。見る者が見れば美しいとさえ感じるだろうその館はしかし、刑事として数々の凄惨な現場を見てきた真下をもってしても息を呑むほどの異様さを放っている。夏の重怠い、じっとりとした空気の中で風もなく月もなく夜の静寂だけを纏ったその姿はどうしてだか、真下には巨大な棺桶のように思えて仕方がなかった。
     森の奥には吸血鬼の住む館がある。
     昔からここ一体にはそんな噂に事欠かなかった。曰く付きの土地なのか、あるいは暇人が多いのか。真下はそういったオカルトじみた話を信じていなかったし、飲みの席で恐々として語る人間を馬鹿にしたこともある。
     だが。
     真下は九条館のエントランスホールに立っていた。豪奢な装飾の数々を天井照明の淡い光が照らす。中央階段の 1768

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