雨の夜は逢えない、晴れた夜は貴方を想う 署名のない手紙を書き終えて封筒に入れると、秋山は封に口づけをした。それからおもむろにライターをジャケットのポケットから取り出し、封筒を灰皿にかざして火をつけた。白い封筒は踊る炎に飲まれ、彼の目の前で灰になり、崩れ消えた。スカイファイナンスのドアが開く。
「秋山さん。そろそろ俺行きますけど、新井さんへの差し入れ決まりました?」
「それが聞いてよ谷村さん、ぜーんぜん思いつかなくてさ。ま、俺の気持ちなんざその程度って話かな。せっかくの七夕に気にしてもらって悪かったね」
谷村は不躾なほどに秋山の顔を見つめ、それから灰皿に溜まった灰に気づいて目を細めた。
「秋山さん、今すぐ手紙を書き直すんです、チラ裏にシャーペンの走り書きでいいから」
「手紙? なんのことだい」
「デカ舐めるのもいい加減にしてください。灰皿見りゃわかります。ひとつ、言わせてもらいますよ。今は二十一世紀だし、アンタらの間に渡れもしない天の川なんて流れちゃいない。あのひとが永久に監獄の中にいるわけでもない。わかってるでしょ?」
「だけど、今更どうしろって言うんだよ」
谷村は大げさに肩をすくめ、自分のこめかみを人差し指で指してくるくると指先を回した。
「東都大出たおつむを今使わなくてどうするんです。それともアンタの頭はお飾りですか? 自分の気持ちを押し隠すことが美徳だなんて、時代遅れもいいとこですよ。さあさあ書いた書いた」
時代遅れと言われた秋山はいささかムッとした顔をして、それから灰皿の灰に目をやり、首を斜めに傾けてため息とも笑いともつかない息を吐いた。
「あのひとがいなくなってから、あのひとをずっと想うんだ。あのひとがそばにいるうちに、こんな風に思えたら良かった。雨の夜、差し掛けてくれた傘から落ちる雫の冷たさも、晴れた夜、一緒にネオン街を見下ろしながら吸った煙草の味も時と共に薄れていくというのに、未だ鮮やかに眼の奥に焼き付いているのはただひとつ、あのひとの姿」
俺はあのひとを愛していなかった、今はそう思う。俺はただ、目が眩んでいただけ。やっと這い上がったと、己の人生を取り戻したと、舞い上がっていただけ。あのひとのことをなにも知らなかった。それと同じくらい、俺のことをなにも伝えなかった。そのくせ愛し愛されていると思い込んだ。俺の手の中に残ったのはそんな滑稽な物語。笑い草にもなりゃしない。
なにもかも、自分すらも煙に巻く、いつもの笑いに紛らわせようとした秋山に谷村が歩み寄り、胸ポケットからボールペンを取り出して強引に握らせた。
「だったらそれを書けばいい。てらいも臆面もなく書けばいい」
「駄目だよ、どうしようもないよ。そんなものもらっても新井さんだって困るだけだし、俺だってどんな顔で書けばいいかわからない」
「ほんっとアンタ、東都大卒とは思えないほど馬鹿ですね。想い出の海に身を投げて溺れたい、そんな感傷に浸ってる暇なんてないんです。泣きぬいて血反吐を吐いたその喉で、俺らは飯を食い酒を呷る。そうしてどんな記憶も上書きされ、薄れていく。それが生きてるってことです。でもね、それでも今はまだ、あのひととの記憶で胸を痛めることができる。それを僥倖と思うべきだと、俺は思いますけどね」
「ったく、とんだ暴言カササギだな。どうしても橋を架けるつもりかい?」
「牽牛織女がさっさと川を渡ろうとしないからです。で、マジで時間ないんでちゃちゃっとお願いします」
「ちょっと待ってて」
秋山がペンを走らせる音を聞きながら谷村はブラインドを指で開け、窓の外を見た。ネオンを映して赤黒く染まった空は一等星すら見えない。
「書いたよ。じゃ、お願いします。それからこれはお礼」
秋山が谷村の頬にキッスをひとつ。
「もし返事をもらってきてくれたら、もっと弾むから」
「生憎と売約済みの商品に懸想はしない主義なんでね」
ドアを開ければ熱気と湿気を孕んだ強い風が吹き付ける。雨の降る直前の匂いがする。
「谷村さん、知ってる? 牽牛織女の伝説は、もともとは決して結ばれることのないふたりの物語だったそうだよ。俺と新井さんには似合いかもしれないと思ってさ」
「それでも今年の七夕には、想いの橋がかかりますよ。なにしろ俺がカササギをかって出るんで」
「頼んだよ」
ごまかせないほど真剣な眼差しの秋山がドアの影に消える。谷村は鉄骨の階段を駈け降りる。軽やかな音が辺りに響いた、騒がしい街のざわめきにも負けぬほどに。