アイドルパロのisrn俺は忘れない。
きらきらと光の粉が舞う、煌びやかなステージ。ネオンライトで総てを彩ってしまうスポットライト。スピーカーから流れる、心を弾ませてしまうメロディー。
ステージで踊る──Rinは果てしないアイドルだった。
一寸狂わないダンスパフォーマンス、鋭く観客を見据えるまなざし。そして何よりも心に響く、強い歌声。
Rinのステージを初めて見たとき、体の中が熱くなって、その熱が心臓に集まる感覚がした。どくどくと高まる鼓動と共に、全身に血が巡っていく。Rinと声と一緒に俺も口ずさむ。自然と体を動かしてRinの影を追って、ダンスのまねごとをする。だけれど、どんだけ踊ってもRinの動きには追いつけなくて、Rinが特別なアイドルだって知る。そして、それが幼い心に憧憬を見させるのだ。
──俺もいつかこんな風に輝いてみたい…。
ステージにいるRinに手を伸ばして、俺は夢を見ていた。あの頃から時間の波に乗せられて俺は少し大人になってしまったけど、あのときの輝きは色褪せない。
BPMと合わせて綺麗に踊るRinの姿が今でも瞼の裏に焼き付いている。それはRinの溌剌とした可愛らしい笑顔とライトに当てられて輝く衣装とともにきらきらと星のように煌めいている。これは俺にとって大切な思い出の1ページだ。
* * *
キャパシティ1000、暗闇にも似た屋内ステージに俺の声が響き渡る。
「ありがとうございました…」
呼吸を整えて、熱に茹だる体を鎮める。朦朧とした意識でステージの上から観客席を見つめれば、ポツポツとペンライトが光っていることに気がついて、急激に体の芯が冷たくなっていった。
閑散とした拍手。少ない歓声。地面に落ちた視線。
観客の期待にまた応えられなかったことを肌身に感じ、じりじりと心臓が痛くなる。何度も見た光景に目が潤まないように眉間に皺を寄せ、悔しさで奥歯を噛みしめながら、俺は力強い足取りでステージから捌けた。
俺の歌の次はアイドルグループのショーだった。
彼らの登場で湧き上がる歓声に鼓膜が大きく震える。俺のときはこんなに声出してくれなかったな…、なんて考えて他人と比べてしまう自分が大っ嫌いになりそうになる。でも、耳は塞がない。現実から目を逸らしても意味がないのなら、俺は悔しさで上へ上り詰める。3回目のライブの帰り道で決めた教訓をしっかりと復唱する。
俺は諦めない。
俺は諦めない。
俺は諦めない。
けれど、その意思はスピーカーから爆音で流れる楽曲で呆気なく散り散りになる。溜息を吐き、膝に手を置く。少しだけ悲しい気持ちになりながら、ステージの下で燦々と色めくペンライトを俺は舞台袖から羨望のまなざしで見つめた。
舞台袖は孤独なアイドルにとって寂しい戦場。
だからと言って俺は孤独に甘えない。ハイヒールをカツカツと鳴らして気丈に振る舞う。どんだけ潔世一が求められていないと知っても、落胆なんかしない。決して人前で弱いところを見せてはいけない。
長い廊下を歩いて楽屋前に向かう最中でオーナーさんを見つける。今日のイベントはオーナーさんからのご指名だった。まだデザイナーとしてもアイドルとしても名を馳せていない自分に手を差し伸べてくれた人だ。しっかりと挨拶をして感謝の気持ちを伝えるべく、俺は足早になってオーナーさんに駆け寄った。
「このたびは前座で呼んでいただきありがとうございました! こんな素敵なイベントに出演できるなんてとても光栄です!」
商売相手には常にスマイル。デザイナーとして服を売り込む、そのために今日は折角アイドルまでしてアピールをしたんだ。だから、ここで笑顔を崩しちゃいけない。
「あー。数合わせだから気にしないで。えーっと、イサキ(、、、)くん?」
前言撤回。カチンと頭にゴングが鳴る。
「潔です。俺は潔世一です」
鬼気迫る目つきで、名前の訂正をする。だが、しっかりと名前を認知して貰う程度のつもりだった訂正は思ったより低い声が出てしまったせいか、オーナーさんをひどく困らせてしまったらしい。「あはは…」オーナーさんはとごまかすように笑うと俺から逃げるようにステージ裏へ行ってしまった。
「あ、オーナーさん…!」
力なく伸ばした手は誰の手を掴むことなく、重力に従ってぶらんと振り子のように垂れる。
最近、何をするも空回りばっかりだ。前より感情のコントロールができていないような気がする。だけれど、それは資金難から来る焦りだと自分でも自覚している。だから、アイドルとしてモデルとして必死になって自らブランドの広告塔になっている訳なのだが。
「はぁー…」
スーツケースに作り上げた自身のブランドの衣装を詰め、ジャンパーを身に纏う。
アウェイな戦いを強いられて、かれこれ3年になるが未だに慣れないことも多い。なんと言っても支援してくれるサポーターもサポーターの応援も年々減ってきている。精神も磨り減る訳だ。金を落としてくれない──すなわちこのブランドに金を落とす価値などないと言われているようなものなのだから。
だけれど、こんな状況でも見ていてくれる人はいる。
裏口から外へ出て、凍えた指をふーっと息で温める。雪だ。どうりで寒いこと。暗闇の空にひらひらと白い粉が降っているのだ。
かじかむ睫毛にふわりと舞った粉雪をはためかせて落とす。寒さで震える指先で何とか財布からスノードロップのしおりを取り出して、俺はしおりに祈るように額をくっつけた。
「俺、頑張ります…。俺はまだ戦えるから。だから頑張ります…」
スノードロップのしおりは、ファンの人が送ってくれた花束から作った押し花のしおりだ。約1年前──去年の2月に貰った花束から欠かさず毎月送られる花束。わざわざ季節に見合った花をセレクトし、『Bon courage』(頑張って乗り越えろ)とメッセージカードを添えて俺に花束を贈ってくれる人もいる。
応援してくれる人の気持ちを形にして残すのに押し花は最適だった。これだったらいつでも持ち歩ける。コンテストに向かう車の中でも本番のステージ裏でも、俺はいつも願掛けのようにこの押し花のしおりを額にくっつけた。これがあればどんな場所でも輝けるような気がしたのだ。『Bon courage』『Bon courage』魔法の言葉…。
でも、そろそろ頃合いなのかもしれない。デザイナー人生もモデル人生も、そしてアイドル人生も諦めるときが差し迫っている。デザイナーという職は着実に貯金を切り詰める。
「帰ったらまたデザイン考えよう。在庫もメールも確認しなくちゃ…クソ…ッ」
キャスターを転がし駐車場へ向かう。あらゆるものへの焦燥と鬱憤を込め、重い足取りでガタゴトとケースを揺らし、俺は一心不乱にハイヒールを鳴らす。黒いハイヒールを見つめ、こうやって歩いていると自然と怒りが湧いてくる。歓声もなく、金もなく、ツテもコネもない、決して上手くはいかない現実。だが、それでも強くありたい。何も無いからこそ、せめて心だけは強くありたい。そんな風に深々と願ってしまうからだろうか。
後ろで鈍い音が鳴ってスーツケースが進まなくなってしまった。前方不注意。俺の横に広いスーツケースは何か大きな黒い物体にぶっつかったのだ。
急いで踵をかえし、来た道を戻る。傷が付いてないか心配になって恐る恐る黒い物体を見つめて、そして俺は目を見開いた。
人だ。全身、オールブラックのコートを羽織った男。その男がまるで寒さに耐えるように頭を膝に埋めて小さくしゃがんでいるのだ。
「あの、大丈夫ですか?」
腰を下ろし、埋めた頭の隙間から彼の様子を伺おうと顔を覗く。何度声をかけても、一向に頭を上げる気配もなく、いよいよ俺はとんとんと肩を軽く叩いた。彼の黒い頭に降った雪の結晶がぱらぱらと落ちる。きっと長い間ここにいたのだろう。気分が悪いのか、単なる居眠りなのか──それとも誰かを待っているのか(、、、、、、、、、、、、、、)。数あるパターンが想像できたが、こんなところにずっと居続けては風邪をひいてしまう。なんとかして起こさなければ……と思っていた矢先、もぞっと身じろぐ彼の胸と膝に押しつぶされた、白い百合の花束がちらりと目についた。
「ん…んゔ…?」
膝に──花束に埋めていた頭がゆっくりと持ち上がる。男の顔が軽やかに雪の光の下で顕わになって俺は息を呑んだ。
だって、綺麗すぎる。彼の頬には白い肌の内側からじゅわっと滲む赤い血の色が淡く色づいている。肌に何も仕込んでいない、天性の美貌。なのに、厚い唇にはワインベリーのティントが薄付いていて、俺は圧倒される。男が化粧をしている、そんな陳腐な驚愕ではなく──完成された美貌にも関わらず、さらに美しくなろうとする貪欲さに。だから、俺は彼が放つオーラに一瞬息をするのを忘れてしまう。
──ああ、こんな子が俺のミューズ(女神)だったらいいのに…。
目の前で夢の残滓にまどろんでいる彼にうっとりと見蕩れていると、冬の寒さで潤んだ翡翠の瞳が俺をまっすぐと捉えた。
「いさぎ…よいち、か?」
「ああ…俺が、潔世一だ……」
彼の口から呼ばれた名前に朗らかな気持ちになって応える。ゆっくりと腰を上げる彼に倣って俺も一緒になって立ち上がれば、俺はあることに気づいた。
──で、でかい…!
ヒールを履かずにこのでかさはモデル業界でもなかなかいない。ハイヒールで身長をかさ増ししている俺を容易く見下ろせてしまう背丈に慄いて一歩身じろいたその瞬間。ぐるんと視界が上に傾き、夜空の景色が勢いよく広がった。
バランスを崩してしまい、重心が後ろに下がったのだ。体は既に宙に浮かんでいて、もう立ち上がる術がない。衝撃に備えて目をつぶる。体にだんだん力が入らなくなっていく…。
だけれど、いつまで経っても痛みは走らない。恐る恐る目を開けると、そこには綺麗な緑色の瞳が影の中確かな光を持って輝いていた。
呼吸が止まって、限りない静寂が広がる。
白い花束がパサッと音を立て、白雪で濡れた地面に落ちる。顔と顔が次第に近くなる。
後ろに倒れそうになった俺を、彼は俺の腰に腕を回してそっと支えてくれた。薄い瞼を見開いて彼が俺の瞳を見つめれば、微かのほほえみを浮かべた唇から白い吐息がゆっくりと宙に昇った。
「潔世一。俺のために服を作れ。俺と一緒に、踊れ」
* * *
Queen ONEは俺が20歳の頃に立ち上げたブランドだった。
オーダーメイド、1点ものを売りにした商売。クライアントとできうる限りのカウンセリングを通して、最高の服を提供する。今では板に付いたQueen ONEの事業形態だが、昔は流通を目的にした大量制作もやっていた。しかし、資金難になってからはろくに人を雇えなくなってしまったため、断念。成人男性の体があっても、デザインから制作、営業を1人でこなすにはさすがに身が持たず、貯金を切り崩しなんとかブランドを存続させようと生き詰まった俺が導き出したのはたった1つの答え。
量産ではなく、エゴイズム(自我解放)──これが22歳のときに出した俺の答えだった。
だから、多少なりとも値も張るし、時間も食う。それをご存じで?
マンションに帰って、1時間。懇切丁寧に受注の説明をしていたのにも関わらず、当のクライアント──糸師凛は俺の話も聞かずに腕組みをしながら部屋を見渡していた。
「ガーデニングが趣味なのか?」
「いや…そうでもない」
「嘘だな。こんな緑、緑しているアトリエを俺は見たことがない。花ばっかりだな」
鼻で笑う糸師凛に俺はそっぽを向いて悪態をつく。
それもそのはず。10畳もあるこの部屋は本棚、ベッドソファ、デスク、そして部屋の真ん中に置かれたダイニングテーブルを彩るように植物が生い茂っている。四隅には観葉植物がそびえ立ち、壁に沿うように配置された多くのキャスターにはヒメモンステラやサボテンなどの多肉植物が彩っている。壁にはドライフラワーが吊されており、ダイニングテーブルの上には白い百合の花が生けられていた。
「ファンの人が花束贈ってくれるからだんだん興味が沸いて…自分でも植物育ててみたいなって思って……もういいいですか? 恥ずかしい…」
あまりにもミーハーな趣味すぎて羞恥心が勝る。これじゃあ、ファンが贈ってくれた花束に嬉しくなって花束を思い返す度に植物の興味が高まったと言っているのと同然だ。月一で贈られる花束を何度も何度も思い返す自分が恥ずかしい。だんだんと熱くなる頬を冷まそうと必死にぺちぺち叩く。気持ちを落ち着かせながら、ふと、凛のことが気になって横目で様子を伺えば、俺はようやく糸師凛がそわそわしていることに気づいた。
「糸師さんもありがとうございます! わざわざ花束なんて贈ってくれて。ちょうど生けてた花が枯れかけてたから新しく買おうと思ってたんですよ」
商談の最中なのに糸師凛の気遣いに思わず朗らかな声音が溢れてしまう。だけれど、それは彼も同じで「ああ……」と照れくさそうに首に手を回す糸師凛がちょっと可愛いと思ってしまった。でも──
「でも、不思議だ。店まで行って、綺麗に包装して花束を贈ってくれるなんて……。いつも思うんです。別にこんな手の込んだことはやらなくてもいいって。俺、お金が掛かるようなことはして欲しくないんですよ、ファンには。だから、もっとお金が掛からない別の方法もあるのに……って」
俺は、花束を贈った経験はないが、花束を買った経験はある。華やかな花束は安くても5000円から。決して安くはない買い物を定期的に続ける心理が分からない、と俺が耽っていると糸師凛は呆れた顔をして頭を掻いた。
「なんで気に病むんだよ…ファンは好きで贈ってんだ。お前が申し訳そうにすること自体がお門違いなんだよ。お前はファンを心配するより、自分のことを心配しろ。それに…花束をわざわざ贈るってことは…それだけお前の服や活動が愛されてる、ってことだろ……」
だんだんと消え入る声に不思議になって凛の顔を見ると顔が薄らと赤くなっている。はっ、とあることに気づき、ダイニングテーブルの上を確認した。目線の先にあるのは凛が贈ってくれた白百合の花瓶で…。
思わず唇にほほえみを浮かべてしまう。生意気ではあるが裏表なく、素直な青年。問題は少々あるが、少なくともこの子なら自分の想いを引き継いでステージの上で輝いてくれる。そんな確信があった。
「君の依頼、引き受けるよ」
一瞬嬉しそうに口角を上げた凛に、俺はすぐさま釘を刺す。
「だけど、俺が請けるのは衣装の製作だけだ。アイドルは絶対にしない」
凛は眉をしかめて不機嫌な態度を取るが、続けてカラッと不敵に笑った。
「いいぜ。これから俺がその気にさせりゃあいいだけだ」
「コイツ……っ!」
この期に及んでデザイナーにアイドルになれと迫る男の図太さに、俺はじりじりと闘争心を燃やす。美しい皮膚の下に隠された野心の塊。負けん気が強い男は俺の好みで、それも相まって俺はだんだん彼の虜になる。
──知りたい。
「君のことをもっと知りたい。そうだな…そんじゃ、まずは裸になってくれないか?」
無意識に零れてしまった言葉で、長い沈黙が流れる。嫌な汗がつーっと背中に流れ、いよいよ失言で顔が青白くなる瞬間、沈黙を破ったのは顔を真っ赤にした糸師凛の「あ゙……?」というか細い鳴き声だった。「あッ、いや、違うッ! これは体のサイズを測りたいってことで! 決してそういう厭らしいことがしたいって意味じゃないから!」必死に弁明し何とか誤解を解こうとする俺を、糸師凛は一瞥すると思いっきり腰に蹴りを入れて、そのまま何の遠慮も無しにベッドソファに身を沈めた。
「今日も(、)ここで寝る」
「はあ……?」
泊ってもらうことには大いに歓迎するのだが、『も』という単語に嫌な予感が募る。「『も』って…そ、それってどういう意味だよ…!」ふて寝しようとする凛の腕を思いっきり揺すり問い詰めると、凛は面倒くさそうな顔をして口を開いた。
「ホテル取ってねえんだよ、一週間」
「はあ⁉」
愕然とする俺を置いて、今度こそ凛は夢の世界にダイブする。凛はもう目を覚ます気配もなく、スースーと寝息を立てている。
明かりを消し、床に腰を下ろしソファベッドに背中を預け、俺は暗闇の中でぎらぎらと目を輝かせる。きっと、これは、チャンスだ。ティーンエイジャー並び国内外で注目を集めつつあるアーティスト──糸師凛を絶対に俺のミューズにする。そうすれば、俺のブランドは日の目を浴びる。俺の服は今度こそステージで輝く。
瞼の裏にはあの日見たステージの輝きがちらついている。手を伸ばしたステージへようやく届くときが来たのかもしれない。このチャンスを掴みきって、隣ですやすやと眠る凛に俺の夢を全て託すのだ…。
*
コトコトと鳴る鍋から煮詰まった香ばしいコンソメの薫りが漂ってくる。
火加減を弱め、スープをよそう。冷たい手がだんだんと温もりを持って、和やかな気持ちになると、薄暗い廊下の中でも幸せな気持ちになる。キッチンの縁に腰を預け、スープを飲み込む。ラスクがふやけ、ほくほくと咀嚼する。美味しい。舌の上で天国が踊ってる。ラスクをコップにまとめて挿し、もう1つスープをよそう。これは天国のお裾分け。
「夜ご飯だぞ」陽気になって呼びかけると、凛は不服そうにスープを受け取った。
「ラスクもスープも飽きた。別のモン作れ、潔」
「うーん……キーマカレーでも作ろっか? ナンに米にパンにラスク。何にでも合うぞ」
「また連日同じモン食べなくちゃいけないのかよ」
「うるせーな。文句言うなら凛が作れよ……はい、どうぞ」
軽口を叩きながら凛の赤い唇にラスクをつけると、凛は俺のことをぎろっと睨んで口を閉ざす。「どうぞ?」俺のはにかみに鼻を鳴らした凛は赤く頬を染め、カリっとラスクの端を囓る。一見するとシベリア犬みたいな孤高の風格を持つ彼だが、ほんの少しのこたつの温かさで蕩けてきってしまうような愛らしさが彼にはある。さくさくとラスクを頬張っている姿はもはやハムスターみたいで、その可愛らしい姿に俺は素直に破顔した。
Queen ONEのアトリエはマンションの中にあるごく普通3Kの賃貸物件だった。1人暮らしにも2人暮らしにも十分な間取りであるが、大部分を服飾に当てている関係上、急な来客が来てしまうと途端に暮らしにくくなる。もとよりこの家は人間のためではなく、服のための家。寝室もなく、ダイニングスペースもない。食事スペースはキッチンが一体化した廊下のみ。
だから、キッチンの傍らに立って俺たちは談笑しながら立ち食いをしていた。初めは難色を示した凛も3日目──つまり今日の朝方──になればようやく慣れたようで、今ではこの有様だ。
脚を組み、壁にもたれかかり楽な姿勢を取る。凛と知り合って3日が経つが、良好な関係を築けていると自分は思っている。凛は俺の1個下のソロアイドル。ストイックで知見に富んだ彼は俺の本棚を見ると、しばらく圧巻した後スクラップ帳を手に取った。ファッション、モデル、ダンス、アイドル──凛は特に服飾に興味を持ったらしく、俺が仕事をしている後ろで熱心に教材やカタログを覗いていた。凛はセルフプロデュースの鬼だと業界では有名だったことを思い出す。理想のステージにするための努力を惜しまない、それが彼の性分。今度は衣装デザインまで掌握して完璧に仕立てあげたいのだろう。彼の意向を尊重し、会話をしながら彼と俺のステージイメージを共有する。キャパシティ5000、ステージと観客席に伸びる光のランウェイ、そしてスポットライトを浴びる1人のアイドル──なんて言葉に出すと凛は不機嫌になってすぐさま「2人だ」と言って訂正する。心地のよい、仕事。だけれど、俺が凛をここまで厚意にするのは単なる仕事を円滑にするためのコミュニケーション目的だけじゃなかった。
「ミューズ──ああ、ブランドの顔になれってことか?」
「ああ、そうだ。糸師凛、Queen ONE(俺のブランド)の顔になれ」
ブランドの広告塔として糸師凛を雇う。凛が俺にアイドルを求める傍ら俺は凛にミューズになることを求めると、凛は何か考える仕草をして、かと思えば少しの間を置き『面倒くせえ』と言いたそうな面持ちで俺を見つめた。
「嫌だな、お前の服とお前のアイドル姿を求めてわざわざ帰国したんだ。お前が俺とアイドルやるって言うまで保留だ」
凛はファッション雑誌に視線を戻し、ミューズの話はそれっきり。時間を置いて何度も頼んでみても凛は決して頷かない。俺の瞳の奥をしっとりと覗き、全てを見透かしてしまいそうなその透明な視線で心の中さえも隈なく覗き込まれているような感覚がして、俺は微かに怖くなる。
「お前、家の中でもずっとヒール履いてんのか?」
食器を洗っていると、凛は水道の蛇口を閉め、そう訊ねた。足許を見れば俺の足には確かに白いハイヒールが装着されている。
「そうだけど、なに?」
「お前、身長いくつなんだよ」
俺はキャスターに手を伸ばし、置いていたバスタオルと服を凛の胸に強く押しつけた。
「男に身長を訊ねるなんてデリカシーがないぞ、凛」
無意識にぎゅっと眉間に力が入ってしまっていた。凛は俺の様子を見ると、まるで驚いたかのように目を丸くする。
「……怒ってるのか?」
「怒ってないけど?それより早くシャワーを浴びてくれ…俺は、仕事がしたいんだ……」
自分の気持ちをごまかして、無理やり凛の背中を押す。「怒ってる」「怒ってない」「いや、絶対怒ってるだろ!」「だから怒ってねえって!」数度のやり取りをして、ようやく凛は諦めが付いたのか「フン」と意地汚く鼻を鳴らす。その後しばらくしてバスルームの扉が乱暴に閉まる音が冬の寒さで凍てついた廊下に寂しく鳴り響いた。
最近、自身の身なりについて口出しされると無性に苛ついてしまう。体も服もハイヒールのことも、小さい頃から人に文句を言われるのが嫌いだった。学生時代にも同じことがあった。あの頃は人生で一番荒れていて何気ない発言にいちいち苛立ち、感情のコントロールが上手く出来ず元々吊り目のせいもあってかよく「顔が怖い」と囃されていたことを思い出す。やがてコンペやコンクールに躍起になると服飾に対する温度差の違いで友人たちはどんどん俺の周りから減っていったけど、その分俺と同じく服飾に対して燃え上がる友人もできた。『俺はデザイナーになって自分のブランドを作る』だなんて豪語し合っていた頃が懐かしい。凛と話していると学生時代を思い返す。俺の中に初々しい若さを持った熱が湧き上がって、夢にスパークする、あの感覚。夢にもがいていたあの頃の感覚だ。
あの頃の友人は今何をしているのだろう……。
あくびをかいて、瞼を擦る。うつろうつろしながら、仕事の準備をしようと覚束ない足取りでアトリエに戻ろうとすると、突然軽い衝撃と共に視界が真っ暗になった。
感じるのは、むにゅっとした感触に、肌なじみの良いほんのりとした温かさ、そしてどくどくと速く打ち付ける心臓の音──。
急いで後ろに下がり、目を凝らす。俺の視界にはさっきまでなかった湯気と共に裸体の男が現れていた。
筋肉が付いた引き締まった裸。絵画で見たようなアソコ丸出しの裸。はだか、はだか、はだか……!にわかに頬に熱が集まって、じゅくじゅくと心臓が忙しなく弾け出す。そして、その裸が誰の裸(、、、)か理解したとき──俺は赤くなった顔を隠そうと咄嗟に後ろを向いた。
「この前は俺のヌードが見たいとか言っていた癖に今度は恥ずかしがるんだな」
さっきまで説教ぶっていた俺をからかうためだろう、糸師凛はニヒルな笑みをこぼしながら、鼻を鳴らした。
「プライベートと仕事は分けるタイプなんだ…!」
必死に言えば言うほど、『俺が糸師凛を気にしている』みたいなことになって、余計にアイツの加虐心をそそらせる。ふいに、肩に手を置かれた感触で驚いて体が揺れた。この手の先に糸師凛がいる、しかも裸姿で。目を閉じて現実から逃げようとしても、瞼の裏にちらつくのは彼の体だけだった。
凛の裸は逞しかった──俺と違って長身の肉体にほどよく割れた腹筋と微かに盛り上がった胸筋。目にしたのは一瞬だけだったが、腰回りはしっかりと引き締まっていて、逆三角形のスタイルが綺麗に映えていて、なぜか体が熱くなる。俺とは違う体、魅力的な体格……。凛の男らしい体に俺は若干どころか、だいぶ惚れている。
もはや職業病だった。凛の体を思い返せば返すほど気持ちは落ち着いていって、今や返って羞恥心よりも「裸を見たい」という気持ちの方が勝っている。
「ごめん。もう大丈夫」
肩に置かれた手を払い、体を翻して凛と向かい合う。
俺はこれからこの男の体を掌握しなくてはいけない──なんたって俺は立派なデザイナーなのだから。
(続く)