香るひとひらの花が舞う。そんな気配がしたはずなのに、花びらはどこにも見当たらない。足元には夏の終わりの夕暮れの、濃い影だけが伸びている。
橙色に染まった空から落ちてくるものは何もない。風はゆるやかに、涼やかに、秋の訪れを予告する。白衣の下のTシャツが、汗ばむ季節もやがて終わる。暑さに構わず身体を寄せて抱き合う人と、汗くさい、なんて言葉を交わすのもそろそろ今年最後になるだろう。
富永はゆっくりと歩を止める。少し前まで騒がしかった蝉の声も気づけばすっかりなくなった。カナカナと、どこか物悲しい蜩の声も今はない。ざわざわとした葉擦れの音。どこかへと飛び立つ鳥の羽ばたき。そしてやわらかく土を踏む人の足音。
富永は特別耳がいいとは思わないが、それでもはっきり分かる音もある。歩幅の大きさは男であるに違いなく、軽い足取りはまだ若い。それでいて荒々しさはまるでなく、どこか品のある歩き方。振り返る、声をかけられる。それはほとんど同時のことだった。
「富永」
「Kェ!」
勢いに、バス停から歩いてきたであろうKはマントの下でびくりと肩を跳ねさせた。ように見えたのは気のせいだったかもしれないが、目の前に立った男に向かって腕を広げると、その身体は分かりやすく固まった。ほんの少しだけ引かれた足は、逃げ出しそうになったのを堪えている。
富永はKの瞳をついと見上げ、そこに羞恥と期待が揺れているのを認めて目を細めた。抱き合うために広げた腕をそのまま下げることはせず、小さくKに呼びかける。
「別に誰も見ちゃいませんよ」
太陽さえも、すでに半分が山に隠れていた。村の人々は仕事を終えて夕食の支度をしている頃だろう。時間を持て余す若者にしても、夜遊びにうろつくにはまだ早い。
「だが……」
Kはまだ少し迷う様子だった。往診用の鞄を持つ腕が重さにだんだん焦れてくる。抱きつくだけなら造作もない。たった一歩を富永が踏み出すだけでいい。
けれどそれで満足するならもうしている。富永はKが動くのをじっと待つ。それは暴力的に好意を押しつけるつもりはないという意図ももちろんあるものの、結局は己の欲深さゆえである。富永は黙したままに、夕暮れの空のようにKの心が移ろう時を待っていた。オレンジ色からピンクを帯びた紫色に、そして藍の空には星が灯る。
「……フフ」
かすかに空気を震わす笑みをこぼし、Kは緊張を解いたようだった。凛々しい眉がふっとゆるんで唇も淡く口角を上げている。
「強情だな」
そうして言葉とともに一歩の距離が消え去った。富永の脳があ、と思う間もないままに、身体は熱い抱擁を受け止める。体温の高いKから熱が伝わって、マントの下はジャケットのない半袖なのだと腕を回して気がついた。
「だって、Kもこうするの好きでしょう」
ぎゅうと抱き返してくすくすと笑い合う。肌を重ねる仲になってから、Kはこうした触れ合いも好きだと教えてくれていた。ぎゅうぎゅうと強いくらいがいいのだと、おねだりをされたこともある。
「我慢は身体によくないって言いますし」
言いながら、富永は腕をゆるめてKと向き合った。マントの前を暴いていいかはいつもほんの少しだけ迷う。正しくは、迷うというより興奮するのを抑えるために、ひとつ深呼吸を挟まないではいられない。
「道の真んなかで、というのはどうかと思うがな」
「だから誰も見ちゃあいませんて」
うろ、と彷徨う視線を追っても猫の子一匹見当たらない。東の空から夜の帳が下りてくる。富永の手が夜色に染まったマントをそっとめくっていくと、そこには漆黒が待っていた。
吸いこまれそうだと感じるままに顔を寄せ、視覚では味わえなかったやわくあたたかな肉を知る。ゆるんだ筋肉のもっちりとした感触に、ほんのりとした汗のにおい。埋めた鼻先が胸の谷間に沈むからこそ深く濃く、Kのにおいを感じられる。もっと脱がせて肌を舐めたなら。いけない思考が夜に目覚めて忍び寄る。
「……富永」
咎めるにしてはどうにも甘い声だった。名を呼んだきり言葉を失くしてしまったように、Kは浅く呼吸を繰り返す。富永の背に回したその手は白衣を軽く引っ張るが、引き離すのが目的ならば、それはあまりに弱々しい力であるとしか言えなかった。
Kらしくなく、Kらしい。富永はKの心臓が脈打つあたりに唇を押し当てゆるく笑む。医師としてのKはいつだって雄弁で力強い。そばで見ている富永は、それを誰よりもよく知っている。
けれど愛し合う行為を覚えたばかりのただの男であるKは、こんなにも奥ゆかしくて慎ましい。誰がなんと言おうとも、恋人の目で見るならば、恥ずかしがり屋で可愛らしいとさえ言える。
「分かってますよ。続きは診療所を閉めてから、でしょ?」
「……違う。夕食と風呂を済ませてから、だ」
「わは、いいんですね、K。今の言葉、あとで取り消さないでくださいよ?」
「分かっている。お前こそ、食べたら眠くなったなどと言い出すなよ」
耳に触れる吐息まじりのその声には、確かな期待が滲んでいた。とくとくと跳ねる心音を間近で感じながら、富永はニヤける口もとをどうしようかと贅沢な苦悩に身を浸す。くぅと鳴る腹はKの言うとおり満たされれば眠気を誘うだろうが、今の富永はそれ以上にKに飢えていた。
性的な欲求と、それだけではない心の飢え。こうして抱き合い会話をしているだけの今でもじわりと満ちてはいくものの、まだまだ満タンにはほど遠い。せっかく帰ってきたうえノリ気のKをほっぽって、ひとり寝をするなど有り得はしないと言い切れる。
「だーいじょうぶですよォ。むしろ今夜はKのこと寝かせないですよ、なんて」
冗談めかして告げた欲望に、Kは小さく喉を震わせた。ん、とこぼれた甘い吐息は了承なのか何なのか。明日は休診の予定とはいえ、そこまで溺れていいものか。
富永は頭上に星が輝き出すほど時が過ぎたように感じながら、ゆっくりとKの胸に埋めていた顔を上げた。頬を撫でる風のひんやりとした涼しさに、身体の火照りを思い知らされる。
ぱち、と瞬いたKの瞳はどの星よりもうつくしい。もう何度目か、数えてみるのも馬鹿馬鹿しいほどその眼差しに見惚れている。
「あ……」
「?」
ふと、富永はKと出会ったばかりの頃に感じた冷たい香りを思い出した。あれはこの土地の冬のにおいかとも思ったが、あるいはあの頃のKがまとう雰囲気そのもののにおいだったのかもしれない。
凛として、密やかで、気がつけばどこかへ消えている淡い香り。もはや記憶のなかにしか感じることのなくなった、Kという存在が放った孤独の冷ややかさ。
「どうした、富永」
やわらかく頬に触れられる。怪訝そうに眉をひそめた顔を見上げると、幻めいた香りはすぐに霧散した。星を浮かべた青の両眼は、はじめて目にしたあの日から、富永を魅了したままそこにある。だから時々あの香りを、まるで残響のように漂わせるのかもしれない。
「いえ……」
上手く言葉を選べないまますんと鼻から息を吸う。宵の空気にまざる香りは先ほどと違って少し甘みを帯びていた。富永は肺いっぱいを満たすこの甘さを知っている。これはきっと何らかの数値で表せるものでなく、ただ富永がそう感じるという類いのものだろう。幻臭と呼ぶのは明確に違うと言い切れる、花のような甘い香り。
あの冷たい香りがKだと言うならこの甘さもKに違いない。富永は強くそう思う。
肌を晒して汗にまみれた身体から、何度この香りを感じたことだろう。華やかで、それでいて落ち着く甘やかさ。快楽の記憶と結びついてしまっているためにいささか官能的でもあるものの、ただただ好ましい心地よさに包まれる。
「Kって」
今すごくえっちな気分になってます? なんて野暮なことは口にしない。お前こそ、と指摘されればハイと頷くだけになってしまう。だから富永は照れくさいとは思いつつ、他に感じたことを口にした。穏やかな風がはたはたとマントの裾を揺らしていく。
「なんかえっちなにおいがする……あ」
いいにおいがする、と言って微笑むつもりが間違えた。うっかり素直になりすぎた。落ちた沈黙にずず、と後ずさる足音が重なる。風は今度はふたりの間を吹き抜けた。
「待って待って今のなし! Kェ〜今のはほら、ここでどうこうしようとかじゃなくてぇ……」
「むぅ……そう、か」
警戒、よりは困惑が色濃いKの表情はじわじわと羞恥に染まっていく。青い暗がりの広がり出した空の下でも、ほんのり色づく頬の赤みが見えるようだった。伏せ気味の瞼に長い睫毛が揺れている。
「……富永」
呼びながら、Kの視線は富永ではなくはるか道の先を向いていた。風に遊ばれる髪を抑える指先が、宵闇のなかで妙な生白さを帯びている。あるいはそれは、なまめかしさと形容するのが相応しいのかもしれないが、富永はただ酩酊にも似たくらくらとする気分を味わった。
「け──」
「いいから、早く帰ろうか」
ふわ、とマントが翻る。それと同時に甘い香りもふわりと広がった。待って、とまたひとつ声を上げ、富永はKの背中を追いかける。常ならば颯爽とした後ろ姿も今はなんだか可愛らしい。遠近感で認知が歪む距離でもないが、ぎゅっと腕のなかに抱きしめて、撫でてやりたいような気持ちになってくる。
一族の使命も責務も剥ぎ取れば、この人は純朴な青年なのだと嬉しさが胸に満ちていく。好きな人のカッコイイところもカワイイところも知っている。それを幸福と呼ばないのなら何が幸福と定義されるべきなのか、富永にはさっぱり分からない。
「あっ、あ〜、そうだK」
「……なんだ」
ずんずんと歩く男はほんの少し歩調をゆるめて首を傾ける。いつもの往診の帰りなら、今日の夕飯は何でしょうね、なんて他愛ない話題でゆったりと家路を辿っていく。けれど今この時の富永は、ほわほわとよその家から漂う夕餉のにおいを気にすることはできなかった。
味噌も醤油もはたまたカレーのスパイスさえも、Kから漂う芳しさには敵わない。空腹感はあるものの、つまみ食いをしたいと誘惑されるのは、見上げるKの唇の方だった。瑞々しい花弁にも似た薄紅色。蜜の甘さを思って喉が鳴る。
「いえね、さっきオレ、何もないのに花のにおいを嗅いだ気がしてちょっと不思議だったんですが、あれKのにおいだったのかなと思いまして」
「は……?」
「花」
「……質的嗅覚障害は、脳が原因のこともあるぞ」
ギュッと鋭い視線を向けられて、富永はハッと嗅覚障害について思考を巡らせた。医師としてKと同じ目線に立っていたい。そのための条件反射のようなものである。
そのため対象が自分のことだと思い至ると苦笑した。Kに心配されるというのもなかなか悪くはないのだが、こんなところで誤診をさせるのは忍びない。花のような甘い香りは異臭ではなく確かにKから感じられる。体臭、というよりいわゆるフェロモンと呼ばれるものが、このにおいの正体である気もしている。
「いやぁ、オレの鼻がおかしくなったわけじゃなくて、Kが変わったんですよ」
雪解けを迎えた季節がそうであるように、花開く時を待っていた蕾がそうであるように。Kという人間が羽化するように変わっていってもおかしいことは何もない。
「果物なんかもほら、熟れていくと甘いにおいがするじゃないですか」
富永はゆるく笑みを浮かべたまま呟いた。まだ青いりんごはひっそりとした水っぽさだけを感じるが、赤く熟れたりんごは弾ける甘い香りがする。あれと似たようなものだと思っていいだろう。
すんすんと自らのマントを嗅いでみているKには分からないかもしれないが、富永は大きく息を吸いこんで、満たされた心地で吐き出した。ぽつぽつと灯る外灯を頼りに道をゆく。視線を感じて見上げると、神妙な顔をしたKと目が合った。
「臭い……わけではないと思っていいだろうか」
めずらしく不安そうにしているKは、富永との距離をしきりに気にしている。思えば、においについてを話題にしたのはこれがはじめてのことだった。ともに寝起きをするなかで、今さらと言えどKも気にすることらしい。
「もっちろんですよ。むしろいいにおいだって言って……ないか。いいやじゃあ今言いますけどオレKのにおいすごく好きですよ」
しっかりと言葉で伝えれば、Kは勢いにたじろいで、それからほころぶように破顔した。心なしか空気がまた少し甘くなる。
「俺も、お前のにおいは好ましいと思っている」
「ええっオレそんなにおいます?」
「フフ……自分では分からないものらしいな」
響きがなんだか楽しげで、富永は白衣の襟を嗅ぐのを止めてKを見た。いつも見惚れる眼差しが、富永を映して淡く光を放っている。Kは富永がどんなにおいなのか何も教えてくれないが、隣を歩けばそっと身体を寄せてきた。
なるほど嗅がれるというのは気恥ずかしい。けれども不快だということはなく、富永としてはこのままにおいだけでなく、体温を知る距離までぐっと近づきたい。そう思いながらも伸ばす手は、どうしたってマントに阻まれる。
「ねぇ、Kェ」
てくてくと、もどかしいまま進む道はやがて森へと入っていく。ここまで来れば診療所まではすぐだった。逸る気持ちに躓かないよう気をつけながら、富永はひそひそとKに呼びかける。
「俺のにおい、Kのと混ざり合ってもちゃんといいにおいしますよね?」
「……!」
Kはうんともおうとも答えない。けれどきゅっと結ばれた唇が、そのまま肯定を示すようだった。何も言えない姿はひどく愛おしい。においを思い出すことは、そのまま情事を思い出すことだ。富永はKのために扉を開けてやりながら、診療所に染みつく清らかな消毒のにおいを吸いこんだ。慣れたそのにおいが熱を遠ざけることはない。