月明かりが照らす夜道をとぼとぼ歩きながら、少女は今日の出来事を反芻する。
本当に散々な1日だった。
簡単な卵の運搬クエストのはずが、途中報告に無かったアオアシラが乱入してきたり、そのアオアシラと因縁のあるヨツミワドウがはっけよい!と突撃してきたりと、踏んだり蹴ったりの大社跡。
なんとかクエストを完遂して集会所に帰還すれば、息つく暇もなく緊急要請に応じて、また大社跡へと蜻蛉返り。
そうしてオトモ達と共に狩場と里を行ったり来たりしているうちに、陽はとうに西の山際へと沈み、空にはお月様が顔を出していた。
流石に自分もオトモ達も疲労の跡が見えて、明日は休みだと労り、オトモ広場へと帰る姿を見送った。
明日は何をしようか、と突然湧いた休日に想いを馳せていると、嗅いだことのある煙の香りが鼻先を掠める。
草木やたたら場の炭が焼ける匂いとは違う、独特の香り。
時折この香りを纏う人を、私はよく知っている。
鼻をすん、とさせて香りを辿る。持ち前の嗅覚を頼りに煙の出どころを探り、翡翠の糸を手繰り寄せて、夜の帳を疾翔けた。
たたら場の屋根の裏手。煙突の影に隠れるように、一人の男が腰をおろして佇んでいた。
口には煙草を咥え、ぼんやりと夜空を眺めて煙を燻らせている。
と、次の刹那。視界の端に見慣れた少女の姿を捉える。
「教官!」
「あっ、愛弟子!見つかっちゃったかぁ」
隠れて煙草を吸っていたという自覚があるからだろうか、バツが悪そうにウツシは頬をひとつ掻いた。
「また吸ってたんですか!身体に悪いって言ってるのに〜」
そう言ってぷりぷり怒りながら己の師に歩み寄ると、少女はすとんとその隣りに腰をおろした。
そんな少女の様子にウツシは穏やかな笑みを浮かべて、遅くまでおつかれさまと労りの声をかける。
「しかしよく分かったね。この煙草、前よりも随分香りの薄いものに変えたのに」
「何年一緒にいると思ってるんですか?あなたの愛弟子を舐めてもらっちゃ困りますよ」
「そうだね、これは失礼しました」
そう少女と軽口を交わしてハハ、と短く笑う。返事を返す間にも、その表情はどこか上の空だった。
煙草の白い煙と香りが漂うなか、互いに口を閉ざして静かに青黒い空を見上げる。
少女はウツシの煙草が嫌いだ。
この香りを漂わせている時のウツシは、いつもの快活さはなりをひそめて、途端に口数が少なくなる。
心になにかを押し込めているように。だというのに、秘めた想いを絶対に口に出すことはない。本当は少女の勘違いでしかなく、なんでもないのかもしれない。口寂しさに嗜んでいるだけかもしれない。けれど、それすら悟らせてくれないのだ。
煙が自分とウツシを遮って、少女が知っている愛しい男の輪郭がじわりとぼやけて分からなくなる心地がして、もどかしかった。
「えい!」
「あっ!こら!」
そうして想いに浸っているとなんだか胸がムカムカしてきて。少女は苛立ちの原因ともいえる煙草を、ぼんやりと夜空を眺めるウツシの隙きをついて奪い取った。
掠めた取った憎い存在を咥えて、思い切り吸う。
途端に、なんとも言えない味が少女の口の中に広がった。
すごく苦いのに少し甘くて、苦しい。
これが煙草として美味しいものなのかすら、少女には分からなかった。けれど、ウツシと同じものを口にすれば、少しでも彼の心に寄り添える気がして、むせ返しそうになる喉元を必至で宥めつける。
我慢して一息に吸った煙をふう!と吐き出す。
ウツシのように上手くいかず唇を突き出して、遠く遠くへと煙を追い出した。
少し不格好になってしまい、子供のような真似をしてしまったと恥ずかしくて、少女の頬がほんのりと赤く染まってゆく。
「ぐぅ!まっ……ずくはないです…!」
「もう、強がらないの!…ほら、返して」
眉をハの字にしながら咎めると、ウツシが少女から煙草を取り返して、口に咥える。
普段は鎖帷子で隠れた口元、日に焼けた太い指、睫毛が伏せられた少し皺のある目元。自分とは違う、大人の色気を孕んだそれらに少女は釘付けになって、どうしようもなく胸がきゅうと苦しくなる。
そんな少女の想いも知らぬまま、ウツシが吐き出した煙草の煙が、また夜空の星を暈していった。
「教官。今度から煙草吸う時は私のこと呼んでくださいね」
「えっなんで?…はっ!愛弟子、もしかして煙草がクセになっちゃったとか?だめだめ!愛弟子は吸っちゃ駄目だよ!」
「ち、違います!近所迷惑ですから騒がないでください!いいから、絶対に呼んでください。約束ですからね!」
やだやだ〜!と子供のように騒ぎ立てるウツシの小指を無理矢理ひっつかんで、少女は自分の小指と絡める。
そうしてウツシの承諾もないまま
『指切りげんまん嘘ついたらフクズク1000羽飛〜ばす!指切った!!』と勝手に歌い上げて確証もない約束を結んだのだった。
互いの小指と小指を絡めたまま、ウツシと少女はしばらく見つめあう。
師の琥珀の瞳には疑問の色が揺れていた。けれど、絶対に教えてなんてやるものかと口に蓋をする。
そうして少女は、煙草如きが、愛しい男の自分すら知らない心に寄り添えるのが悔しいだなんて言えないまま、空に薄く漂う煙の行く末を、それが消えるまでじっと見つめていた。