春、ウららか柔らかな陽射しが降りそそぐ春の昼下がり。
広大な山を覆う森のちょうど真ん中。周辺の木立よりもひときわ高い樹の上に、小さな影がぽつりと佇んでいる。
小さな影――野生のウぬいくんは日課の見廻りのさいちゅうである。
右に、左に、上に、下に、ゆっくりと、満遍なく森を見渡す。
冬眠から目覚めた動物たち、草木のざわめき、川のせせらぎ。すこし前の厳しい寒さが嘘のように、森全体に春の息吹が満ちている。
日ごと賑やかになってゆく森の様子にウぬいくんの心もどこかむずむずとして落ち着かない。くるりとその場で回転すると、うぬ!と満足げに腕を組んで頷いた。
本日も平穏そのもの。ウぬいたちの森に異常なし。
ぎゅーっと空に手を上げて背伸びをすれば、頭上には澄み渡った青が広がっている。
今日の見廻りはこれくらいにして、日向ぼっこでもしようかな。だってこんなに気持ちの良い天気だし、お日様をたっぷり浴びた日の夜はいつもより体がふかふかになって気持ちよく眠れるのだ。
今夜の寝心地に想いを馳せる。きっととても素敵な夢が見られるに違いない、なんて。ウぬいくんはぬふふと笑みを溢した。
そうして日当たりの良い原っぱに足を向けようとしたその時、視界の端に黄色いものがちらりと覗いた。
遠く、視線の先に黄色が揺れる。重なりあった木立の隙間のその先。そこはこの森を両断するように伸びた山道で、山奥の小さな集落へと続いている。
砂利と泥の轍の凸凹が続く山道は幅も狭くて、車同士がすれ違うのもやっとなほどの悪路ではあるものの、麓の町と集落を繋ぐ唯一の交通路ということもあり、朝方は少しだけ賑やかになるのだ。
とはいえ、今はお天道様が天辺をほんの少し下り始めた頃。この時間に通る人間はほとんどおらず、いつもは静かなはずなのだけれど。
車か、はたまた人か。いまもちらちらと揺れ動くものを見つめる。けれど、鬱蒼とした木立が邪魔をしてよく分からない。
「ぬぅ〜?」
これはウぬいが行って確かめるしかない。もしも森にとって危険なものならば、ウぬいがぬいやっと解決せねばならぬ。
そうと決まれば善は急げ。原っぱへと向かおうとしていた体をくるりと反転させて、高い樹の上からぴょんと飛び降りた。
・・・・・・・・・・
木立の合間を抜けた先。目的の場所へとたどり着くと先ほどの黄色いものを探す。すると、子ども用の小さな帽子が木の枝にぷらぷらとぶら下がっていた。
ぴょんと軽くとんで帽子を掴むと、難なく地面に着地する。
つばが広くて、頭の部分はまあるくて、どんぐりの殻斗みたいな黄色い帽子。
いつだったか森で一番物知りな梟に聞いたことがある。この黄色い帽子はその年の春に麓の学校へ通い始めたばかりの子どもが被るものなのだと言っていた。
みんなに分かるように、みんなで守れるように。そのための目印なのだと。
さらに、山奥の集落は子どもが少ないのでこのあたりで目にするのは本当に珍しいのだとかなんとか。
どうしてそれがこんなところにあるのだろうか。ここは麓の学校からも集落からもだいぶ距離がある。風に流されてきたとは考えがたい。うぬぬとあれこれ推理しても、疑問ばかりが湧いてくる。
あたりをきょろきょろと見まわすと、道の端に生い茂った草むらから不自然に分け入った形跡を見つけた。
丈の高い草がゆるく左右に別れ、地面を踏みしめた跡もまだ新しい。動物たちが日常的に通っているしっかりとした獣道とは違い、人一人分が通れるほどのそれは、そう、例えばちょうど小さな子どもが通り抜けたように見えて…。
そこまで考えてウぬいくんはゾッとしてしまった。思わずふわわとぬい肌が立つ。
この草むらの先は平な地面が続いているように見えるけれど突然足元が急勾配になるのだ。
もしも、もしもだ。この道を分け入って、小さな子どもが入って行ってしまったのだとしたら。この帽子の持ち主が、もとの道に戻れないような怪我をしていたら。迷子になっていたら。
そう考えた瞬間、ウぬいくんの足は地を蹴って走り出していた。
待っててね、今すぐウぬいが助けにいくぞ!
ぴょんと高く飛んで木へと飛び移る。草木に微かに残る通り道を追いかけて、枝から枝へ、木から木へ。風景を置き去りにして、風のようにぬっぬっと翔んで。はやく、はやく、この帽子の持ち主のもとへ。
ウぬいくんの小さな体は軽やかに森を駆けていった。
・・・・・・・・・・・・
薄暗い影が覆う森を抜けて、開けた場所に飛び出した。視界に光が溢れて、急な眩しさに目を細める。
そこは森のなかでも端の方の小さな草原。ウぬいくんも滅多に訪れることのないそこには、ぽつりと一本だけ大きな山桜が生えている。
どっしりと地に根を張って、樹肌はぼこぼことした岩のようで。どんな雨にも風にも負けることない立派な巨木。
ウぬいくんよりもはるか昔からこの森に在り、ただ静かにすべてを見守り続けてきた。
山桜の木の下には先客がいた。
満開の頃を過ぎた山桜の花びらが、はらりと風にさらわれる。その下で、幼い少女がちょこんと佇んでいる。
まるで、山桜とお話でもしているように。
夢のような景色のなか、ウぬいくんはゆっくりと近づいてゆく。
「…ぬいよ?」
小さく呟かれた声が少女の耳に届く。こちらを振り向いた少女の瞳がウぬいくんを見つめた。
白くまろい頬に、薄桃色の小さな唇。肩口で奇麗に切りそろえられた黒髪がさらりと風に揺れて、どこか幻想的な雰囲気を醸していた。
ああ、なんて可愛い子だろう。ウぬいくんは目の前の少女に見惚れてしまった。
しばらく見つめ合っていると、少女は驚いた表情を浮かべたあと、あわあわと慌てはじめた。
「あの、その帽子…もしかしてひろってくれたの?」
「ぬい!」
「よかったぁ…!ここに来る途中で落としちゃって、ちょっと困ってたの」
そう言って眉をハの字にしてへにゃりと笑う少女に帽子を手渡す。
無くしたりなんかしたらウツシにいちゃんが心配するから、と。少女が大事そうに帽子を胸に抱く。
「ぬっぬっ?」
「なんでこんなところにって?なんでだろうね、学校の帰り道でなんとなく呼ばれたような、ここに来なきゃいけない気がして…」
だからつい寄り道しちゃった、と。照れたように少女が笑う。
ここはなんとなく、で寄れる距離の場所ではないはずなのだけれど。凄まじい行動力の持ち主だなとウぬいくんは心の中で小さく唸った。とはいえ、見た限り怪我もなく元気そうで、ほっと胸をなでおろす。
「さて!帽子も見つかったし、そろそろ帰らなきゃ。本当にありがとう、ええと…」
「うぬ?」
「そういえばあなたのお名前、聞いてなかったね」
「ぬぬ?ウぬい!!」
「ウぬい、あなたウぬいっていうの?ウぬいさん、ウぬいちゃん…ううん、なんだかしっくりこないな…」
「ぬぅ?」
ウぬいウぬいと少女が言葉を転がして。やがてやっとしっくりときたのか、うん!とひとつ頷いた。
「ウぬいくん!あなたのこと、ウぬいくんって呼んでもいい?」
「ぬいよー!」
ぴょんと小さくジャンプして、溌剌とした元気な声で返事をする。
少女は嬉しそうに笑みを深めると、ウぬいくんの前にしゃがみ込んだ。
真っすぐに小さな手を差し出されて、ウぬいくんもそっと両手を重ねる。
「よろしくね、ウぬいくん!わたしの名前は――」
瞬間、風が吹いてざあっと木々の葉擦れが響いた。春風に攫われて桜の花びらが舞い上がり、空から降り注ぐ陽光と薄桃色が混ざり合う。
はらり、ひらりと花弁が降り注ぐ。まるで祝福するようにきらきらと輝く世界のなかで、ウぬいくんは少女を見つめた。
前にもこんなことがあった気がする。
遥か昔の、どこかの、いつかの遠い春の日に。
懐かしくて、愛しくて、寂しくて、どうしようもなく優しい思い出の中で。
"よろしくね、ウぬいくん!わたしの名前はーー"
紺色の装束に見を包んだ目の前の少女が、少しだけ大人びた姿で微笑んで、すぐにまた記憶の奥底にゆっくりと沈んでゆく。
「ぬ…うぬぬ…?」
目を擦ってもう一度少女を見る。そこにいるのは間違いなくウぬいくんが知っている小さな女の子だった。
きっと気のせいだ。ウぬいくんは首を傾げて、不思議そうにこちらを見つめる少女に、柔らかに微笑んだ。
緩やかにそよぐ風に山桜が枝を揺らし、薄紅の花吹雪が空へと舞う。
ふわり、ふわりと、どこまでも優しく美しく。
これはうららかな春の日の、ウぬいくんと幼い少女の物語。
そして再び巡り合った、新しい物語。