長雨のその前に「愛弟子ぃ〜…」
「やー!」
ウツシが炬燵の布団を捲りあげてしゃがみこみ声をかけると、小さな暗がりがもぞもぞと身を捩る。
抗議の声を上げた暗がり――もとい幼い少女はちらりと視線を上げると、むっとした表情を見せて、すぐさま顔を伏せてしまった。
短い手足をぎゅうと折りたたんで、甲羅に引きこもった亀のように体を丸めている。絶対に動いてなるものかという強い意志を小さな体からひしひしと感じて、ウツシは眉をハの字にして小さくため息をついた。
毎年の冬に出す炬燵は、少女のお気に入りの場所である。
冬の寒い日は手足をぽかぽかに温めてくれて、ウツシと一緒に蜜柑に舌鼓をうったり、のんびりと茶を飲んだり。炬燵をつけていない日でも、暗がりに潜り込めば、小さな秘密基地のような居心地でご機嫌な様子だった。
ウツシとて、少女とのひと冬の想い出の詰まった炬燵を片付けるのは心苦しい。けれど、桜が散りゆき陽射しが夏の気配を見せ始めた今、そうも言っていられない。じきにじめついた長雨の季節が訪れる。その前にはお別れせねばならないのだ。
「もうお外も暖かいだろう?今月に入ってからは炬燵も使ってないし、そろそろ仕舞わないと。梅雨に入ったらお洗濯も乾かないし…ね、出ておいで?」
「やぁ〜〜〜だぁ〜〜〜!!」
顔を腕に押し付けるように、少女が顔をいやいやと左右に揺すっている。
「愛弟子〜〜〜」
「んー」
「お願いっ!ね…?」
「……ぷんっ!」
ぷいっと少女が首を背けた。これ以上はまずい。なにを言っても地雷を踏むことになりそうだ。
癇癪が大爆発を起こす一歩手前の少女の様子に、これは長丁場になるぞとウツシは気合を入れ直した。
これはもう、奥の手を使うしかない。
ウツシは深呼吸をして気持ちを整えると、もう一度少女に優しく声をかけた。
「愛弟子…そのままでいいから聞いてくれるかい」
「………むう」
「実はこの炬燵の秘密について、愛弟子に伝えてなかったことがあるんだ」
「ひみつ…?」
ぴくりと少女が体を揺らす。丸めた体を少しだけ緩めて、ウツシの声に耳を傾けた。
「そう、秘密。この炬燵はある時、俺がさすらいの行商から買い取ったもので、ちょっとしたいわく付きの品でね。不思議なまじないがかけられているんだ」
「おまじない?どんなおまじないなの?」
「それは」
「それは…?」
「梅雨の入りまでに、この炬燵をお片付けしないと…」
「おかたづけ、しないと…?」
勿体ぶるように言葉を切ったウツシに、少女はごくりと喉を鳴らした。頑なに伏せていた顔をゆるゆると上げて、ウツシの顔を真っ直ぐ見つめている。
期待を込めた眼差しを受けて、ウツシは真剣な顔でゆっくりと告げていく。
「夏が…来ないんだ…」
「えっっっ!!」
ウツシの答えに少女の体が小さくぴょんと跳ねた。真ん丸な黒い瞳をさらに大きく見開いて、はわわ…と驚きの声を漏らしている。
夏が来ないなんてことはもちろん無い。ウツシが苦し紛れにでっち上げた嘘である。けれど、誰よりも純粋な少女は、ウツシの言葉をそっくりそのまま信じ切ってしまった。
どこか戸惑うように視線を彷徨わせて、少女が丸まっていた体を解いていく。やがて背中が炬燵の骨組みにあたって音を立てるのも気にせず、炬燵の入口までよじよじとと這いずってきた。
頭をぶつけないように炬燵の縁を手で抑えると、這い出てきた小さな体をウツシが抱き上げる。そうしてそのまま炬燵の前で胡座をかいて、膝の上に少女を乗せて向き合った。
「ウツシにいちゃん…なつがこなかったら、かわでおよげない…?」
「そうだね、風邪を引くといけないからね。今年から始めようと思ってたけど、泳ぎの訓練も難しいかなぁ」
「ええっ!スイカわりもできない?たねとばしっこも?」
「暑くならないとスイカはできないから、食べられないかもしれないね」
「しゅわしゅわの、あまいおみずも…?」
「しゅわしゅわ?ラムネのことかな。そうだなぁ…夏の飲み物だからね…」
「ひまわりばたけにも、あそびにいけないの?」
「そうだね…残念だけど…」
ぎゅうと眉根を寄せて、至極残念そうにウツシが呟く。
わざとらしい演技をしながらも、幼い少女の良心につけ込んでいることにちくちくと胸が痛んだ。正直者の性分が疼く。できることなら、今すぐにでもここでネタばらしをして大声で謝ってしまいたい。
ああっ、ごめんよ愛弟子。ウツシにいちゃんはなんてずるい大人なんだ…!
後ろめたさに耐えきれずウツシが顔を背ける。限界まで我慢を重ねたせいか、ウツシの体がふるふると小さくを震えだした。
その震えを感じ取ったのだろう。ウツシが泣き出す一歩手前なのでは、と少女がはっとした顔をする。
このままではいけない。夏を迎えられないなんて、あってはならないことだ。それ以上に、大好きなウツシが悲しんでいる姿を見ることがつらかった。
幼い少女の心に決意の火が灯る。
背けられたウツシの頬に小さな手のひらを添えて、そのままぐいっと顔を正面に向かせる。おろおろと揺れる琥珀の瞳と目を見合わせると、少女は小さな唇を開いた。
「ウツシにいちゃん!わたし、こたつとばいばいする!」
「え?」
「なつがこないの、やだもん!わたし、なつにね、ウツシにいちゃんとくんれんがんばって、いーっぱいあそぶんだもん!あとね、みはばとつりきと、しゅわしゅわのやつのんで…うんと、えっとね」
「愛弟子…愛弟子ぃ…!」
ウツシとの夏の予定で少女の頭はいっぱいいっぱいで、言葉が追いつかない。ついには、あれとこれとと興奮気味に頭を揺らし、小さな両手とにらめっこしながら指を折って数えだした。
キラキラと輝く瞳が眩しい。ウツシはさらに増していく罪悪感を押し殺すように一度目をぎゅっと瞑ると、そのまま少女を抱きしめた。
こうでもしなければ、全部嘘ですごめんなさいと、謝罪の言葉が今にも口からまろび出てしまいそうだった。
今年も来年もずっとずっとその先の夏も、愛しい少女にとって最高の想い出を作ってみせる。
そうウツシが決意した瞬間であった。
「えらいぞ愛弟子ぃ!にいちゃん、頑張るからね!!」
「うん!わたしも、おかたづけがんばるー!」
ウツシに抱きしめられたまま、きえんばんじょー!と拳を突き上げて少女が気合の掛け声をあげる。
満面の笑みを浮かべる少女につられて、ウツシも笑顔になった。そうして二人は顔を見合わせると、どちらからともなく笑い声をあげる。
梅雨入り前の晴天の日差しの中、炬燵布団を干す二人の影が庭先に伸びる。
初夏の澄んだ風が、そよと吹き抜けていった。