頬に、温もり。
救いの手を差し伸べる光のように、俺のぐちゃぐちゃになった感覚に入り込んだ。ほのかな熱を与えてくれる誰かを、震える指で縋るように探す。
固い手の甲に触れた。少しかさついた肌、しっかり生え揃った産毛、骨太い指、短く切られた丸い爪。触覚を頼りに爪の先まで注意深く確かめる。男を癒す柔らかな女の手とは程遠い。だが俺にとっては何にも代えがたいものだ。
その手の温度が、酷く乱れた心を優しく溶かす。体の緊張が少し解け、ようやく目を開けることができた。
ナイトランプに照らされた男の顔が目の前に浮かび上がる。俺の横で眠っていたはずのフランチェスコが、こちらに身を乗り出して眉を顰めていた。
ぼんやりとした意識の中で視線を合わせると、彼が少し目を見開いた。
「大丈夫?」
大丈夫だ、と返そうとしたが息がまだ整わない。口の中が乾燥してうまく声も出ない。喉のつっかえを取ろうと何度か咳き込んだ。
頬に触れている手がぴくりと動く。まだ苦しいのかと思ったのだろう、労るように俺の頬や額を撫でた。
「また酷く魘されていたね……」
「……ああ…………でも、貴方のお陰で戻ってこれた」
「……そっか。なら良かった」
安堵した様子で彼が微笑む。慈愛の眼差しで見つめられる安らぎに浸り、しぶとく残る体の痺れも徐々に和らいだ。
*
共に眠る仲になってから。真夜中に魘される俺を初めて見たとき、彼は飛び起きたという。慌てて肩を揺すり俺を目覚めさせてくれた彼の、酷く不安そうな顔を思い出す。
ビルマで受けた拷問の後遺症のようなものだ。昔程頻繁には起こらないし時間が立てば何事も無かったかのように過ぎ去る。落ち着いてからそのように話すと、驚いた彼に“そのときのことが夢に出てくるのか”と問われた。そうだ、とだけ答えると、「……何故神は生き延びた人にまで罪を被せるのだろうか」と今にも泣き出しそうな顔で抱き締められた。大事な人に心配をかけさせて、そのうえそんな顔までさせてしまった己を恥じる。
彼への答えは嘘ではないが、正確には違う。
鋭い刃が全身の皮膚を突き刺し引き攣らせる激痛。その後施された箇所が化膿して膨れ上がる疼痛。それよりも己を責め立てるように繰り返されるのは、共に生捕りにされた仲間達の姿。生まれは違えど同じ目的を持ち、肩を並べて旅路を歩んだ仲間が一人ずつ殺される。中には死なない程度に痛みを与えられ生き地獄を長く味わされてから絶望の果てに息絶えた者もいた。
声が出せる間は皆、痛痛しい悲鳴を上げる。もう会えない誰かの名前を声を枯らして呼び続ける。
それにいつしか、フランチェスコの声が混じって聞こえるようになった。
耳を疑った。何故、と思った瞬間にはいつも複数の男に囲まれた彼がいる。身動きが取れないように縛られ、言葉の通じない者達に嬲られる。恐怖と苦痛に歪む顔や、度を越した仕打ちに激しく痙攣する3本の脚が、男達の背中の合間から見える。聞いたこともない彼の悲痛な叫び声が鼓膜に響き渡る。気が狂いそうな、長い長い時間。
それ以上彼に触れるな、やめてくれ、殺さないでくれ、殺すなら代わりに俺を。助けようにも体が動かず、叫ぼうにも声が出ない。そして目を瞑ることも許されない。只々目の前で彼が命を奪われる過程を見ていることしかできない。最期はもう、思い出したくもない。
突き落とされたような深い悲しみと無力感。一方で、ぐつぐつと怒りが煮えたぎり、視界が真っ赤に染まる。殺してやる。とうとう自我を失いかける。
そのときにふと肌に感じる温もりに、どれだけ救われたことか。
*
壁掛け時計に視線を移すと、午前三時にもうすぐ差し掛かるところだった。
「貴方は、起きていたのか?」
「ううん、さっき目が覚めたばかりだ」
眠りの深い彼が覚醒するのだから、余程俺の呻き声がうるさかったに違いない。
「……起こしてしまってすまない」
「全然。君の役に立てるのなら、起きられて良かったよ」
そう言って宥めるように俺の額にキスを落とす。
「何か飲んだ方が落ち着くかもね。ココアでも淹れてこようか」
俺を案じてのことだが、温もりが少しでも離れるのが何故かどうにも耐え難かった。ゆっくりと身を起こした彼の腕を掴む。
「気持ちは嬉しいが、今は……傍にいてほしい」
俺を見下ろす彼が小さく驚く。しかしすぐに、眉を下げて優しい笑顔を浮かべた。
「……もちろんだ」
布団をかけ直し、彼が寄り添ってくる。言われたままに彼の方へ体を向ける。その胸元が目の前に来たかと思えば視界が真っ暗になった。頭ごと抱き締められている。ああ彼の温もりだ。彼の匂いだ。彼の心臓の音だ。かけがえのない人が生きている。頭の隅に取り残されていた夢の欠片が解けて消えていく。
解放されたように大きく長い息を吐いた。頭上からふっと笑う音が聞こえる。その唇は横に長く、綺麗な弧を描いているのだろう。
「……落ち着く」
「大きな赤ちゃんだ。ついでに子守唄でも歌おうか」
「お願いしたい」
「……冗談なんだけど」
「歌ってくれ」
「……まあ、いいよ。ちゃんと聴いたことがないから、うろ覚えだけど……」
控えめな歌声がベッドの中に馴染んでいく。いつも歌うように女性に語りかける彼だが、歌を口ずさむのを聞くのは初めてだ。恋人の喉からささやかに溢れ出すメロディは、優しく母性を含んでいる。それは彼の母から与えられたものではないのは確かだ。それでも温かく感じるのは、俺だけが独り占めできる貴方からの愛だと思っていいのか。
一つ一つの音が耳を撫で、じんわりと体の奥に染み込んだ。自分の外側も内側も全て彼に包みこまれたかのようだ。彼の胸に押し当てた瞼の裏に、忘れていたはずの情景さえ浮かんだ。
*
そこは、暖かい部屋。格子窓から見える青空、差し込む眩しい光。白壁の天井。こちらを覗き込む母の瞳に、赤ん坊の頃の俺が映る。落ち着いた歌声。俺の頭や頬や腹を撫で、手や足を包む掌の温かさ。
少しだけ成長して、おぼつかない足取りで玄関を通る。涼しい空気が流れる山岳の村。覆い茂る落葉樹の合間に、隠れるように石造りの家がぽつぽつと佇む。穏やかな朝日に照らされた野花がなだらかな傾斜に沿って風に揺れる。そうだ、ここは。
そこにフランチェスコがいた。兄弟の脚を支えるように体を傾けて歩くその背中は、俺の知る姿そのままだ。いつものような身を隠す為の長いコートは羽織っておらず、陽の光と風を兄弟共々一身に受けて、遠くに見える山々を見ながらのんびりと歩みを進めている。
何故、とはもう思わない。山肌を走る。夢中になって彼を追いかけていると、次第に歩幅が大きくなり、気づけば俺の方が彼の背丈を追い越していた。彼の肩に伸ばした自分の手には馴染んだ模様が刻まれている。振り向いた彼はいつもと同じように少し見上げて俺の目を捉え、当たり前のように愛しい笑顔を浮かべた。
「やっと起きたのか。まだ寝癖がついてるよ」
仕方がないというように、笑いながら俺の髪や髭に触れる。
「……ここは良いところだね。見晴らしも良くて風も気持ち良い。連れてきてくれてありがとう」
嬉しそうに彼が言う。俺は首を横に振る。
「礼なんていらない。俺が貴方を連れてきたかったから」
自然と自分の声が出せたことに少し驚く。
そして思いのままに彼の手を握った。
「このままこの丘の頂まで行こう、あそこからの景色が一番良いんだ。それから家に戻って、遅めの朝食を共に。それから……」
思わず声が弾んだ。そんな俺を見て、彼は白い歯を見せて綺麗に笑った。握り返してくれた手は、夢の中でもやはり温かかった。
end