うなぞこに夏　唐突に降り出した雨は、息をつく間もなく足早に過ぎ去っていく。
　真夏の夕立だ。すぐにやむとわかっていたから、こうして校舎の中で時間を潰している。
　橙と紺を混ぜたような夕焼けが、どんよりと重たい曇天の奥に広がっている。その様子を見とめ、背を預けていた壁から晴臣はゆっくりと身体を離した。しばらくの間はきっと雨も降らないだろう。内履きから革靴に履き替え、ほとんど何も入っていない鞄を背負い直すと、静かに昇降口をあとにする。
　半袖から伸びる晴臣の腕を、湿り気を帯びた空気がぬるりと撫でる。その不快感に、晴臣の眉間には濃いシワが刻まれた。暑い、し、ベタつく。ほとんど無意識に、はあ、と重たい息を吐いていた。これだから夏は好きになれないのだ。
「……」
　顔を上げた晴臣は、ふと、視界の端にうつる人物に気付き、思わず足を止めた。グラウンドに設置されたバスケットコートで、男子生徒がひとり、何をするでもなくひっそりと佇んでいる。空から落ちたばかりの水滴が、彼の金色の髪の上で、キラキラと宝石のように光を弾いていた。傘も差さずにひとりで何をしていたのだろう。浮かんだ疑問をそのままに、晴臣はじっと彼の後ろ姿を見つめている。
「……ん、」
　視線を感じたのかもしれない。
　ぴくりと身体を揺らし、男子生徒はゆっくりとした動作で振り返る。
　その顔には見覚えがあった。たしか、同じ学年で、バスケ部のエースで、いつも誰かに囲まれている――
「……くずりゅう、ちせい……」
　意図せず、喉の奥から声が零れ落ちた。――しん、と、色のない静寂がふたりの身体を包み込む。
　名前を呼ばれたことが意外だったのか、キョトンとした表情を浮かべた彼は、次の瞬間、その美しい相貌を崩してはにかむように微笑んだ。
「俺のこと、知ってるの？」
「……」
　キュッとくちびるを噛んだまま、晴臣は何も答えなかった。肯定も否定も出来ないのは、学年と、部活と、名前以外、彼について何も知らなかったからだ。
　しかし、そんな晴臣の様子を気にする風もなく、彼は尚もにこにこと屈託のない笑顔を咲かせ続けている。雨の中でひとり佇んでいた男とは到底思えないくらい、機嫌良く。
　その表情に一欠片の違和感を覚え、晴臣はふたたびじっと彼の顔を見た。――周りにはひとが絶えず、天才だと持て囃され、けれど、彼は、名も知らぬ同級生に認識されていたことに心底安堵しているように見えた。
　美しい金糸から、冷たい雫が滴り落ちる。それは、彼の足元の水溜まりに均整のとれた波紋をつくった。幾何学的な模様が広がって、すぐに跡形もなく消えていく。
　何かを言うべきかと考えて、しかしこういう場で気の利いた一言を口に出来るような人間ではないことは、自分がいちばん理解している。結局、くっついたままのくちびるは、僅かに震えただけだった。けれど――
　くしゅん。
　聞こえた音に、思わずハッと息をのむ。濡れ鼠の彼はぐしゅりと鼻を啜って「やばい、風邪引きそう」と独り言のように呟いた。それから、顔を上げてまっすぐに晴臣を見つめると右手をヒラヒラと顔の横で動かした。もう行くね、とそういう意味で。
　――歩き始めた彼が晴臣の横を通り抜ける瞬間、ぽつり、雨粒のような言葉を落とした。
「じゃあね、辰宮晴臣くん。――また明日」
「っ！」
　驚いて振り返った視線の先で、彼はやはりにこにこと人好きのする笑みを浮かべていた。その表情に、存在するはずのない既視感を覚え、晴臣はぱちぱちとまばたきを落とす。――どうして、俺の名前を知っているんだ、と。
　くるり。背を向けると、今度こそ彼はその場をあとにした。
「……」
　違和感と、既視感と、それから、ほんのすこしの高揚感。彼の見せた『安堵』を伴う笑顔が、頭にこびり付いて離れない。
「……くずりゅう、ちせい、」
　ちいさく呟いた声は、夏の生ぬるい空気に溶けていく。