星の夜をかぞえる 夏の残香が色濃く滲む夜だった。
ベランダの柵に頬杖をついて、煙草の煙をふわりと吐き出した晴臣はひとり静かに星の海を眺めている。――否、途方もないような探し物をしているのだ。
――ほら、見て
記憶の中の智生は秋の夜空を指さしながら隣の晴臣へ笑顔を向けた。
――あれにしようぜ
――……?
――どこ見てんの?
カラカラと笑い声を上げながら、彼は掬い上げるように晴臣の顔を覗き込む。睫毛が触れ合いそうな距離で視線が交わり、彼の美しいアメジストの中に晴臣は自身の姿をみとめた。……はっとして思わず息をのむ。
それを悟られないようにむうとくちびるを引き締めたまま視線をそらし、晴臣は彼の指先を辿るのだった。返すべき言葉も、彼の指し示す『あれ』も、見つけられていないから。――けれど、晴臣が答えを得る前に隣にいたはずの智生の姿は無慈悲にもぱちりと霧散する。
「(……っ、)」
コチリコチリ、と。左手首から響く耳馴染みのない音が、思い出に浸る晴臣を現実世界へと無理矢理に引き戻した。
『九頭竜智生』という人間が当たり前のように晴臣の隣で息をしていた頃。他愛のないやり取りの中で、ふたりによって育まれたいくつもの『習慣』があった。……『今日』という日において大きな意味を持つこれもそのうちのひとつで――はたから見れば『くだらない』と一蹴されるような類のものなのだろうけれど、片割れを失った今でも胸に抱いたまま手放すつもりは毛頭ないのだ。
――律儀だよなあ、ほんとに
聞こえるはずのない彼の声が、やわく鼓膜を震わせる。
彼が指し示した星たちは、広い夜の中、どこへ埋もれてしまったのだろうか。月日とともに薄れゆく記憶を必死にたどり、晴臣は智生の残した光を探し続けている。
星の夜をかぞえる
2年前の今日も、同じように気温が高い日だったと記憶している。ソファの上でちいさく三角座りをする智生に「ホットココアが飲みたい」と季節外れな注文をされたことも含めて、だ。
白い陶器製のマグカップにチョコレート色の液体を満たし、ほら、と手渡してやる。眠たそうにあくびを零しながら、智生は「ありがとう」とむにゃむにゃ唱えて晴臣の手からマグカップを受け取った。
ソファに向かい合う形で置かれた部屋のテレビがめずらしく光を放っている。雑音を好まない智生は時計代わりに朝のニュースを流すことさえ嫌がるのだ。晴臣自身も時間を割いて積極的にテレビ番組を視聴するようなタイプでもないので、結果的に晴臣宅のテレビはその役割を失いつつあった。
マグカップの縁に形の良いくちびるを付けながら、智生の視線はチカチカとまたたくテレビ画面に縫いとめられていた。なにをそんなに熱心に見ているのだろう。朝食の用意をするためキッチンへ引っ込んでいる晴臣にはそれを確認する術がない。時折、女性アナウンサーの声がかすかに聞こえるけれど、それだけで内容を理解することは難しそうだった。
朝食のラインナップは、トースターとスクランブルエッグ、付け合わせのサラダと簡単なものだ。ふたり分の食事をそれぞれの皿の上に盛り付けていると、先程までリビングにいたはずの智生はいつの間にかこちらまで移動しており、しげしげと興味深そうに晴臣の手元を覗き込んでいる。
「スクランブルエッグじゃん。なんだ、晴臣も見てたの?」
「……?」
「でもこれって、効力があるのはお前だけだよな」
「……何の話だ」
「? 違うの?」
首をこてんと傾けた智生にため息が漏れた。隅から隅まで会話が噛み合っていない。というか、何かを勘違いしているらしい智生が勝手に話を進めているという表現が正しそうだ。そういう状況に気付いているのか否か――気付いた上で気付かない振りをしている可能性が高いように思えるが、智生は構わず言葉を続けていく。
「星座占い。おとめ座のラッキーアイテムが『スクランブルエッグ』だったでしょ」
……ラッキーアイテム。
思わずというように晴臣は耳馴染みのないワードを復唱してしまった。そうしてようやく様々なことに合点がいったのだ。たとえば、彼が熱心に見ていたテレビの内容だとか。
「……占いなんて気にするたまだったか」
「んー。まあね、今日は特別」
ふわりと甘い笑みをたたえ、盛り付けの終わった皿を手に持ち智生はキッチンを出て行った。妙に機嫌の良い彼の様子をすこしだけ訝しく思いつつ、残された皿を持って、晴臣も彼のあとに続いていく。そうして向かい合って食卓につき、どちらからともなく「いただきます」と挨拶をしてから皿の隣に置かれたカトラリーを手に取った。
ふと気になって、目前の男に視線を向ける。
「ふたご座は」
「うん?」
「ふたご座の……ラッキーアイテム、は何だったんだ」
『ラッキーアイテム』という響きが口に馴染まなくて、晴臣はもごもごと言葉を落とす。晴臣の問いにすこしだけ驚いたような表情を浮かべた彼は、けれどすぐに、さあ、と肩をすくめてみせた。
「見てないからわかんない」
「……」
何となく腑に落ちない感じはする。しかし、どうするわけにもいかないのだ。本気でふたご座のラッキーアイテムを知りたいわけでもないし。そういう晴臣の胸中とは対照的に、智生は鼻歌でも歌い出しそうな調子で機嫌良く食事を始めていた。
そうしておとめ座のラッキーアイテムだというスクランブルエッグを口に運びながら、
「今日の予定は?」
と、視線だけこちらへ寄越してそう問うた。らしくない質問に一瞬呆気に取られたが、すぐに「特にない」と言葉を返す。
「じゃあ、夜は空けておいて」
「? 何かあるのか」
「せっかくだし『おとめ座』でも見つけようぜ」
「……はあ……?」
思わずというように目前の相棒の顔をまじまじと見つめてしまった。おとめ座を、見つける……? 9月の十二星座になぞらえているのだろうか。
「……秋におとめ座は見えないだろ」
「わかってるって。だから『見つける』んだよ」
「……?」
眉間にシワを寄せ、ちゃんと説明しろという意味を込めてじとりと彼の瞳を見つめる。けれど、これ以上の言及を彼は許してくれなさそうだ。晴臣を置いてひとりで勝手に満足してしまった智生は、口の中のスクランブルエッグをもぐもぐと咀嚼しながら「おいしいね」と呑気に宣うのだった。
わざわざ『夜』の約束をするまでもなく、ふたりは、同じ部屋の中でほとんどの時間を過ごしていた。予定のない晴臣が自室で過ごすことは当然として、智生が居座り続ける理由は何だろうかと家主である晴臣は考える。……これも、今更なことではあるのだけれど。
「晴臣」
名前を呼ぶ声が優しく鼓膜を揺らし、晴臣は読んでいた雑誌からふっと視線を持ち上げる。彼は、晴臣の思うよりもずっと近い位置に立ってこちらを見下ろしている。――来て、と。そうやって要望だけのせたような端的な言葉を落とすと、晴臣に向かってずいと自身の右手を差し出した。
「……」
彼の突飛な行動の意図を汲み取れない。時間が経った今でも、数時間前に交わされた彼との約束の真意はわからない。けれど、それは今に始まったことではないのだ。差し出された右手と智生の顔を交互に見て、晴臣は形ばかりの嘆息をぽつりと零した。それから渋々というふうを隠さずに自身の左手をそっと乗せてやる。
手を引く彼が向かう先はソファから歩いて数歩のベランダだった。カラカラと窓を開け、表に出しっぱなしにしてあるサンダルに足を突っかける。黒の絵の具を零したような夜の中、ふたり並んでベランダに降り立った。
「さすがにこの時間はすこし冷えるね」
そう言って腕をさする仕草をした智生に「そうだな」と首肯したけれど、正確に言うならば「薄手の部屋着一枚でうろつくには」という枕詞が付く。9月も半ばに差し掛かったとはいえ、夏の残り香が意識せずとも感じられるような季節だった。
夜空を見上げる智生は、むっとくちびるを尖らせて不服そうな声をあげる。
「……意外と見えないな」
「この辺りは街灯が多いから」
「……」
ベランダの柵に両腕を乗せて体重をかける。夜の黒を瞳に溶かし、彼は静かに星空を眺め続けていた。――けれど。
「あ、」
どうやら目的のものを――それが何であるか晴臣には皆目見当が付かないが、見つけることが出来たようだ。嬉しそうに表情を綻ばせ「ほら、見て」と秋の夜空を指さしながら、智生は隣の晴臣を振り返った。
「あれにしようぜ」
「……?」
「どこ見てんの?」
楽しそうにカラカラと笑い声を上げる。そうして掬い上げるように晴臣の顔を覗き込んだ。美しい宝石が嵌め込まれた眼孔を長い睫毛が隙間なく縁取り、月の光を弾いて濃い影を落としている。息がかかるような至近距離で視線が合わさり、晴臣は、彼の瞳の中に自身の姿をみとめた。……ヒュッと喉の奥が鳴り、思わず息をのむ。――それを悟られないようにくちびるを噛み締め視線をそらして、晴臣は彼の指先を辿るのだった。
「わかった?」
夜空に浮かぶ星たちの中で、彼が『見つけた』それは他のものと比べて何か目立つような特徴があるわけではなかった。だから、一度視線を外してしまうとふたたび同じものを見つけることは容易ではない。
「なんだっけ、おとめ座でいちばん有名な星」
「……スピカか?」
「おー、それそれ。じゃあ、あれがスピカってことで!」
来年の誕生日でも、一緒に見つけるんだよ、と。当然のような顔をしてそう言葉を続けた智生に晴臣は思わず笑ってしまったのだ。
「なら、もうすこしわかりやすいのにしろよ。絶対忘れるだろ、お前」
「わかってねえなあ」
呆れたふうに肩をすくめて、やれやれと頭を振る。そうしてまっすぐに晴臣の瞳を見つめる彼は、ふわりと淡く微笑んだ。
「ちゃんと見つけられるよ、俺とお前ならさ」
+
あの頃と変わらない生ぬるい風が晴臣の頬をそろりと撫でる。
来年も、再来年も――何十年経ったとしても、彼が見つけた『スピカ』をふたりで眺める『今日』が来ることを、晴臣は一欠片だって疑っていなかった。そうして次の智生の誕生日には、きっとまた新しい『習慣』が増えるだろうと頭の片隅で思考しながら……そうやって、いつまでも2年という月日を離されては近づくような追いかけっこを続けていくのだと思っていたのだ。――けれど。
普段はほとんど身につけない腕時計まで取り出して、秒針が時を刻む音を一日じゅう聴き続けていた。
――9月9日 23時57分。
忌々しい一日は、あと数分で終わる。
それでも、と晴臣は思う。
時を止めた愛しい相棒に追いついてしまった『今日』という日は、晴臣の心臓に幾重にも絡みつき、二度と離れることはない。――夜空の隅でちいさく輝く『スピカ』を眺めながら、その事実を晴臣は静かに受け止める。