ルドマル
その走りを初めて目にした時の事を、今でも覚えている。
あれはまだ、私がデビューして間もない頃だった。少し前にデビューした彼女は、スーパーカーとも称される圧倒的な速さで
真っ赤な勝負服、愛嬌のある喋りと笑顔。何もしなくとも彼女の存在には目を引かれる。しかし、レースが始まればその場にいる誰もが違う意味で目が離せなくなるだろう。
――マルゼンスキー、彼女こそ完全無比、全てのウマ娘の憧れともいえる存在だ。
学園でのトレーニングの様子やレース映像て、彼女の強さは充分に理解している、そう思っていた。
けれど、自身の影すら踏ませず、赤い躰がゴール板を駆け抜けた瞬間。煩く脈を打つ血潮と共に、自分でも知らない感覚が体を巡るのを感じていた。
高揚、とも違う。これは――。
「恐怖、しているのか。彼女の走りに」
脚がすくみ、呼吸が乱れる感覚。これはまさにそれだ、けれど。
「ふっ、なんとも面白い」
不自然に上がった口角は戻らず、声になり始めた笑いは抑えられなかった。彼女と、本物の強者と戦いたい。そして、あわよくばその首を――などと。
ふと、遠くターフに立つ彼女と目が合った、気がした。いや、間違いなく合っていた。彼女を讃え、手を振る多くの観客の中で、ただ立ち尽くしている私を見て。振り返す手を下ろし、何かを小さく呟いて、不敵に笑った。その目つきは、怪物そのもの。
「追いついて来なさい、か」
口の動きから言葉を類推し、理解する頃には、彼女はまた満面の笑みを浮かべて観客席にサービスをしていた。そこに怪物の面影はもうない。
なればこそ、より滾るというものだ。彼女のうちに存在する怪物を発現させ、討ち取るのは私だ。
「では……君に対するのに相応しい勲章を集めなければ、か。『皇帝』、その名を名実ともに絶対のものにして見せよう」
小さな決意は歓声に包まれ、己の耳にも届かない。だがその瞬間、私は心の中に、私欲という名の獣が生まれた事を初めて悟ったのだ。
全てのウマ娘が幸福になれる世界を創造する、それが私が皇帝を目指す所以であり、当然の如く達成する命題である。それも勿論私欲ではある
絶対の走り、勝利は必然。
増えていく勲章が、自身の称号を揺るがぬものにしていく。
だが、満たされない。
◇
「ルドルフ、砂糖はなしでいいわよね?」
「ああ」
生徒会室に芳しい香りが広がる。マルゼンスキーは私の机に淹れたてのコーヒーを置くと、向かいのソファーに座った。
一緒にいると居心地がいいから、そんなことを言って、彼女はよくここに遊びに来る。とは言っても、ただのんびりと世間話をするだけ……故に、他のメンバーの迷惑にならないようにと、私だけの時間を見計らって来るのだ。
彼女と話をするのは好きだ。数少ない、自身の弱みを素直に曝け出せる親友でもある。今日も普段通り、そんな他愛無い話をする
「すまないマルゼンスキー。来客にコーヒーを淹れてもらうなどと……」
「問題ナッシング♪今更そんなの気にしなくていいのよ。それに、毎日お仕事頑張ってるんだから!」
「……そうか、ありがとう」
「ルドルフは流石よね。みんなの為に、なんてあたしは上手くできないから」
「……君という存在自体が皆の憧れなのだから、変に何か変える必要はないよ。それに、私も好きでやっていることだ」
「そう。……でも、たまにはあなたもワガママを言ってもいいのよ!お姉さんが叶えてあげる!」
「……マルゼンスキー、君がか?」
「もちのロンよっ!」と、おそらく流行りの言葉と一緒に満面の笑みを浮かべる彼女に……心の奥で眠っていた、傲慢な闘争心が顔を出した。幾つの栄光を手にしても満たされない、その走りを目にした時から巣食う獣は、もう随分と育ってしまったらしい。
溜まった唾をごくりと飲み込む。それと一緒に、心に溜まった我欲も一緒に閉じ込めておくべきだったのだ、その誘惑に抗えぬまま、
「君と、走りたい」
「そんなこと?もちろんいいわよ!今から?」
「いや……それも悪くないが」
切れた言葉の先、不思議そうに見やる視線に応えるようにわざとらしく立ち上がり、彼女の元へと歩む。
「ふふっ、……何、今の勲章だけでは物足りなくなってしまってね。怪物の首が欲しいんだ。観客の前で、君を討ち取りたい」
吃驚仰天、という言葉を体現したかのような表情で固まってしまった彼女に、「どうかな?」と手を差し出す。それをきっかけに、糸が切れたかのように笑い始めた彼女は、涙を目尻に溜めるほどひとしきり笑った後。
「ふふっ、もちろんオッケーよ!」
と、私の手を取った。強く、強く力が篭った指先に言葉以上の熱を感じて、思わず口元が歪む。
「やっとね、ルドルフ。ちょっと待たせすぎじゃないかしら」
「……すまない。君から誘ってもらうのでも良かったのだが?」
「あら!だめよ、ちゃーんと大人の余裕ってのを見せなくちゃ!」
「ふっ。そうか」
「その余裕が、仇とならなければいいが」
「……ふ〜ん?」
安い挑発に眉を上げて、彼女の碧色の瞳が私を覗く。そこに――あの日目にした怪物を見た。
幾つもの冠を手にした。名だたるウマ娘達と戦った。だと言うのに、未だに気を抜けば足が震えてしまいそうだ。けれど、それ以上に心が震える。
ただ、目の前の背中を追っていた。
永遠に続けば
「……ああ、正に竜虎相搏。心躍る戦いだった。……今でも夢の中にいるようだ」
「また戦おう、マルゼンスキー。君も負けたままでいる質ではないだろう?」
「もちのロンよ!悪役は何度でも蘇るんだから、な〜んて!」
「ははっ、けれど君は、悪役ではないだろう。……ヒーローだよ」
「あら。嬉しいこと言ってくれるじゃない」
「君は、皆の憧れだ。そしてもちろん私の憧れでもある」
「……そう。でも、あたしにとってはルドルフも……」
「いえ……今はいいわ。それより!あなたの凱旋を、みんなが待っているわよ」
彼女の言葉でやっと、観客席へ意識が向いた。それほどまでに、彼女に、走りに夢中になっていたようだ。割れんばかりの歓声が鼓膜を震わせる。
地下バ道に、目を引く真っ赤な勝負服の彼女がいた。
「マルゼンスキー、まだ戻っていなかったのか」
「ええ、ここじゃなきゃ当分2人きりになれそうにないじゃない?」
「ああ……確かに控室は騒がしそうだな」
自身の栄光を祝福してくれるものがいるのは嬉しいが、暫く勝負の余韻に浸りたい気持ちは分かる。
「人に聞かれたくないような話でも?」
「いえ、ただ……あたしに勝った勲章はいるかしら、と思ってね」
「用意してくれているのか?」
「いいえ、でもあなたが望むなら……付けてあげてもいいわよ?お好きな場所に」
そう言うと、彼女は自身の歯を指差す。なるほど、そういうのもありかと感心しそうになって……それでは傷をつけられるのは私自身ではないかと気付いた。
「待て、勝者に傷をつけるのか、君は」
別にそこに問題があるわけではないし、その行為に抵抗があるわけではない……が、少々納得がいかず不満を漏らす。
「バレちゃった!なら、あなたが傷をつける?」
愉快適悦といった顔には、出来るわけないでしょうけど、という心が透けていた。だが、そう思われているなら寧ろしてやりたくなるのがウマ娘の性というものだ。
「ああ、そうだな……なら」
だから少しだけ、興が乗った。
「その首を、噛みちぎらせてもらおうか」
彼女の肩に手を当て、無理やり引き寄せる。少し驚いたような顔、慌てて静止する声を聞きながら、首筋に口付けた。
「なんてな」
もちろん、歯は立てない。美しい君を傷つける気など毛頭ない。けれど……欲が湧いたのだ。その目を、独占したいなどと。
「うん。これでいい」
首筋にできた痕を見て、静かに笑った。
「もうっ!ルドルフのえっち〜!」
「良いじゃないか。誰も見ていないのだし」
「見られてたらどうするのって話よ〜!!」
彼女は頬を赤らめて、子供が駄々をこねるようにぽかぽかと私の背中を叩く。
怪物の瞳も良いが、可愛らしい少女の顔も悪くない、そう思った。それが、私だけが知るものなら尚更。共に走れば、君に勝てば、この欲望は満たされると思っていたが……不思議なものだ。さらに君を欲しがるのだから。
また一つ、愛執という獣が、