約束はその指で(仮)「指輪買おうかな」
そんな呟きが聞こえ、ラグの上に寝転がって本を読んでいたアッシュは顔を上げた。ローテーブルの上にカメラとレンズを置き、手入れをしていた英二が顔の前にかざした手をじっと見ている。体型と矛盾しない、平均的な長さの指がその横顔に影を落としていた。
「なんだよ、突然」
「うん。最近、よく聞かれるんだ。パートナーはいないのかとか、結婚はしないのかとか。NOって答えればそれで終わりなんだけどさ、何だか面倒くさくなっちゃって」
英二は先日32歳の誕生日を迎えた。相変わらず学生にしか見えない童顔だが、年相応の貫禄のようなものがついてきている。カメラマンとして着々とキャリアを積み、それなりに成功をおさめ、若さと自信に満ちた一人の男のプライベートに関心が集まるのは自然なことだ。
「へえ、それってモテ自慢?」
「違います。その……ゲイなのか、とストレートに聞かれたこともあるんだけど、それも違うみたいだし。いっそ指輪でもあれば、そういう質問も減るかなと思って」
「なるほどね」
英二の真似をして、自分の手を顔の前にかざす。長く荒事に手を染めて来たせいで、英二と違ってごつごつと骨ばった関節の目立つ手だ。
決して触り心地に良いものではないこの手を、何度か握られたことがある。相手は同じ男の手であったり、ネイルに彩られた華奢な女性の手の時もあった。
この顔で生まれたからには、ある程度は仕方ない。そう割り切って生きているが、かといって何も感じないわけではない。あからさまにセックスに誘われ、かわせば駆け引きと勘違いされ、酒臭い息を顔に吐きかけられる。ここしばらくは、そんなことが続いてうんざりしていた。
中には真剣にアッシュに恋をする人間もいた。アッシュの特別な存在になりたいと真正面から口説かれた時の気まずさと、断った時の後味の悪さはスケベ心丸出しの人間たちをかわすより遥かに嫌なものだった。
(指輪ね)
パートナーの存在をアピールすることで、そうした「真面目な」相手からのアプローチは減るかもしれない。身体目当ての人間は指輪など気にもしないだろうが、だからこそあしらうのにひとかけらの罪悪感も抱かずに済む。
「いいね、指輪。俺もしてみようかな」
「そう?じゃあ、一緒に買いに行く?」
「…いや、それはおかしいだろ」
「なんで?」
「なんでって…」
アッシュは言葉に詰まった。友人と買い物をすることは何もおかしくない。だが英二が買おうと言っているのは、ファッションアイテムとしての指輪ではなく、周囲に「誤解」をさせるための指輪だ。いかにもそれらしい指輪をただの男二人が、自分だけのために購入する姿はあまり一般的ではないような気がした。
「…とにかく、2人で買いに行くのはなしだ」
「ふうん。ま、別にいいけど」
英二は何も気にしていないようなそぶりで頷き、再びカメラの手入れに取り掛かった。その時は、指輪の話はそれで終わりだった。。