狐に嫁入り 壱「おキツネちゃん」
と、嫁から呼ばれる事にも、慣れてきた。
鼻がかった甘い声で呼び掛けられるのは、いつだって心地好い。
「寒いんでしょ?こっち来な」
新婚らしく二つの布団をぴたりとくっ付けてはいるが、身を寄せ合っては、いない。
弥生の夜はまだ冷える。先ほどから布団の中で身動ぎしていた雨彦は、ひょこ、と掛け布団から顔を出した。
藤紫色の瞳が、暗がりの中で光っている。
「ほら」
隣の布団で横になっている嫁......翔真が自分の布団を気持ち捲り、招く。
相手が寝巻きを着ていることに、雨彦は安心した。
同居してこの方、日々色仕掛けしてくるので、いなす事にも大分慣れたが、それでも、十代半ばの少年にとって刺激が強すぎる時もあった。
「......何かする」
「何もしないよ」
ふふ、と控えめに笑う翔真が、愛らしい。
翔真に好意を持っていることを自覚してはいるが、恋愛感情というものは今一つ解らないし、性的に興奮しないと言えば嘘になるが、男相手に如何してよいかも分からない。
ただ、垂れ気味の目と、艶やかな唇が幸せそうに弧を描き、彼が微笑む度に雨彦は、らしくもなく胸が弾む。
「......」
少し考えてから、雨彦は、すす、と嫁の布団へと身を滑り込ませる。 夫が来ると、翔真は開いていた掛け布団を閉じた。
すぐに、雨彦は一緒に寝るのが正解だと思った。翔真の体はぽかぽかと温かく、また、甘い梅の香りがするのだ。
(落ち着く......)
彼は母を知らないが、居たとしたら、こんな感じなのだろうかと考えた。無意識にさらに近付き、翔真の豊かな胸に甘えるような格好になってしまう。
気恥ずかしさはあるが、まどろみのせいにする。
「冷えてるね。大丈夫?」
なんて言いながら布団の中で優しく肩を撫でられたら、より一層、知らぬ母を感じてしまう。
「ん......」
正直、いま話しかけられるのは嫌だ。一気に睡魔が押し寄せてきたし、くどいようだが、恥ずかしい。
翔真ももう随分と長いこと生きているので、こんな時の、年頃の少年の心情くらい解る。
また、ふふ、と笑い、雨彦の頬にかかる髪を、耳に掛けてやった。
「おやすみ、おキツネちゃん」
「......おやすみ、華村さん」
如月。初旬。
雨彦は家のつかいで、久々に奈良まで出ていた。奈良県民の云う奈良まで、とは、奈良市街の事である。
用事はもう済んだ。ならまち、陰陽町の、縁ある家で護符の束を譲り受け、手土産に地元の銘菓を渡した。終盤に、将来そこの娘と見合いしないかと持ちかけられたが、彼は「よく解っていないフリ」をして、のらりくらり、かわした。
せせこましく家屋の建ち並ぶ、ならまちというのは不思議なところだ。
見える者には、明治の世になった今でも見えるという。実際に雨彦は今、狐のお面を被った、五歳くらいの"実在しない"少年から、一方的に手を繋がれて歩いている。
この辺りならではのきつい傾斜をくだり、三条通りへ移動する。
「春日さん」から下りてくる父との合流まで、まだ時間がある。年頃の少年らしく、買い食いしたくもなる。
この日の午後はよく陽が照っており、風もないので、ここ最近では寒さが和らいで感じる。 綿入りの濃紺の羽織が、少々暑く感じるほどだ。
角振新屋町から三条通りにぽんと出る頃には、狐の面の少年は消えていた。
東を見て、みやげもの屋や宿の並ぶ向こうに、有名な餅屋が見える。店先が大勢の客で賑わっている時もあるが、今日はそうでもない。来月のお水取りまではこの調子だろう。
今は別行動しているが、一応は父も一緒なので、叔母から渡された小遣いは少ない。一服するなら甘味でもよいが、もう少し、持ち金の使い道を考える。
さらに通りを上がると、餅屋から少し行ったところに、以前は恐らく無かった、小さな屋台が立っている。
通りからよく見えるように置かれた看板には、鮮やかな緑色で「稲荷ずし」の大きな筆文字。 気持ち、足早になる。
(うわ、五目稲荷)
雨彦は屋台へと近付き、店主......奈良というより大阪っぽい、やんちゃそうな若い男......から声を掛けられない程度の遠目、疎らな客の間から、値段を確認する。
残念ながら、三個か六個でのみ販売されており、どちらにせよ持ち金は足りない。もともと、茶を一杯飲めるくらいの小遣いであった。茶なら先の家で頂いた。
恨めしい眼差しで、木箱の中にきちんと並ぶ、つやつやとした巾着の稲荷寿司を遠巻きに見つめていると、
前に居た夫婦の買い物が終わり、視界に、鮮やかな紅色の羽織が流れこんできた。
「六個、くださいな」
鼻がかった、甘い声だ。背中まで長く、たゆん、と揺れる、柔らかそうな金色の髪。
こんな片田舎では大変珍しい。異人にしては日本語が流暢に聞こえた。混血(ハーフ)だろうか。
そもそも、女か、男か。梅の香りが、ふわりと鼻まで届いた。おそらく、白梅。
応える店主の嬉しそうな、先ほどより目の大きくなった顔を見れば、雨彦といえど、この男が興奮している事はすぐに分かった。
経木の上に稲荷寿司が、ぱっぱと乗せられている間、金色の髪が再び揺れる。
そっとこちらを振り向いたその顔は、雨彦の短い人生の中で見た誰よりも美しい。
艶々とした明るい肌。柔和な笑み。男だった。
「待ってて」
内緒話のように、ほとんど声には出さず、口の形だけで言った。
すぐに店主へ向き直ると、包みを受け取り、お代を渡す。雨彦からは見えていないが、その手渡し方もまぁわざわざ、相手の掌を指で擽るように。
されたほうは勿論、恵比寿顔である。
「えらいべっぴんやなぁ。役者さんちゃうか」
「やだ。嬉しいコト言うね」
後に客が続かないのをいいことに、さらに三個包んでくれた。美人は得だ。
「持って行き」
「いいの?ありがとう」
美男は礼を言い、友人にするようにヒラヒラと店主に手を振って、体を反転させざま、雨彦を見る。
気持ち垂れ気味の、きらきらとした翡翠色の瞳と、目が合う。
綿入りの紅色の羽織の下には、京紫色の着物に白梅の柄。女物だが、この男には自然と似合っている。
そして、男であるのに、母性を感じさせる笑み。
「......」
雨彦は視線を逸らせない。嫌悪感はまったく無いし、正直、相手の美顔を見ていたい。"このときは"危険だとも思わなかった。
「行きましょ」
我が子か弟にでも言うように優しく声を掛けて、三条通りを上がってゆく男を、雨彦は数歩後ろに、追って歩き始める。
(何者だろう)
と思ったのは、不審がるのではなく、この人物を知りたいという、甘い閃きのようなものだった。
二人は穏やかな気候のなか、少し歩き、猿沢池の畔までやって来た。
その間に雨彦は、ぽつりぽつりと、質問していた。
「どなたですか」
「ん?移住者」
「何処から」
「京都。その前は、転々と」
京都のほうが働き口があるし、この華やかな男に似合うのにな、と幼いながらに雨彦は思った。転々と、というところも、何やら意味ありげではないか。
「一人で」
「そう」
「何してる人」
「これから探すの」
池をのぞみ五重塔を右に見上げるような向きに、小さな東屋がある。東屋の中は陽が入らず陰っており、雨彦は肌寒く感じた。
竹の縁台に、男はちょこんと腰掛けた。着物の膝上をそっと押さえ、着崩れないよう座る所作でさえ、その辺の女よりも女らしい。
「座りなよ」
右隣をぽんぽんと叩いて招くので、少し間隔を開けて、雨彦も腰掛けた。何の用があるのかと聞こうとするが、相手のほうが先に口を開く。
「ゴメンね。アンタが可愛い顔でお稲荷さん見てたから、つい」
男は腿の上で、稲荷六個が包まれた、経木に括られた紐を軽く解き、はい、と雨彦に手渡そうとする。
「私が一人でお昼食べるのが、寂しいだけ。 よかったら。ね?」
「......」
魅せられついてきた雨彦だが、危機管理能力が無いわけではない。
そんな理由で見ず知らずの子供を誘う事があるか。 差し出されたものを受け取った途端、強面の大男が飛んで来るかもしれない。
「悪い人?」
「私が?」
一瞬、きょとん、とした後、男は、あはは、と快活に笑った。
こんな風にも笑うのかと、雨彦は少し意外だった。常に女形然としているのかと思った。
「そうねぇ。悪いよぉ、私は」
悪戯っぽい笑みで言うものだから、雨彦は些か安心した。
勘でしかないが、悪人ではないだろう。とはいえ、他人を完全に信用することは、この時分の彼にとって、無い。
「疑うなら、ぜんぶ食べちゃおっかな」
「頂きます」
少年が潔く包みを受け取ると、男は嬉しそうに微笑んだ。あちらも、三個入りの包みを解く。
「お稲荷さん、好き?」
「めっちゃ好き」
無意識に地の言葉が出た。めっちゃ、という割に子供らしくはしゃぐ事はないが、それでも、幾分か表情が柔和になった。
「この辺りに住んでるんですか」
「ううん。住むところも、これから」
雨彦はひとつめの稲荷を頬張りながら、随分と行き当たりばったりだなぁと思った。この様子だと、こちらに親族も知人も居ないのだろう。
左隣を盗み見ると、男もひとつめを口へ運んでいる。指は人差し指と小指を立てた、狐のような形。
濡れた舌から迎え入れる様は、何やら、いやらしくて、少年は気持ち、脈が早まった。
「ん......。んんっ、美味しいね」
「そ......うですね」
一瞬でも変な気持ちになったのを悟られたくない雨彦だが、少し返事につっかえた。
これだから、この年頃の少年はたまらない、と、内なる翔真は興奮している。
道中はせわしなかった。何日も精気を摂っていないから、いい加減、旨い男にありつきたい。
勿論、精気の質としては働き盛りの男に超したことはないが、楽しみとしては、童貞食いに勝るものはない。
そんなふしだらな思いを隠して、みっつめの稲荷をもぐもぐやっている相手をにこやかに見つめていると、少年がふたつ、稲荷をこちらの経木へ乗せてきた。
「こっち、多いんで。 ご馳走してもらってるし......」
「えっ。いいのに」
律儀な子ね、と言いながら、次の稲荷を舌に乗せてから"吸い込んで"みせると、少年の頬が弱冠、赤くなった。
何も知らないわけではなさそうだ。
こういうのを褥に招いた時が、いちばん面白い。
子供のように振る舞っているのは本人の都合のよい時だけ。 自分が"抱ける"と知るや解るや、途端に男の顔になるのだから。
「お名前はなんていうの」
「雨彦」
姓は伏せた。だが相手は素直に、この少年に似合っている良い名だなと思った。
「そちらは」
「華村翔真」
「芸名じゃなくて」
「本名だもん......」
拗ねたように小さく頬を膨らませる翔真を、不覚にも「可愛い」と思ってしまった。
どうも、調子が狂う。雨彦とて健康な男子であるので、これまで出先で、巫女だとか芸者などを見たとき単純に、可愛いだの綺麗だの思う事はあった。
しかし隣に居るのは、いくら美しいとはいえ男である。
彼に抱く「可愛い」とか「綺麗」という感情は、今までのとは少し種類が違う。
雨彦は、自分が性的に魅了されている事を自覚するや、途端に恥ずかしくなってきた。とはいえ、翔真への興味は止められなかった。
「華村さんは、何で奈良に」
「梅が綺麗なところがあるって聞いてね、引っ越すなら、そこが良いなと思ったのさ」
また変わった理由である。
月ヶ瀬の梅は見事だが、市内から距離があるし、娯楽は無い。五條も然り。
翔真のように若く美しい男が一人で住むのは、ちょっと違うと雨彦は思った。
梅ならば長谷寺のものも美しいし、桜井に住めばよく会えるのでは......というところまで考えて、何を勝手に想像しているのだと、我に返った。
「おキツネちゃんは、この辺りの子なの?」
雨彦はピクリと震えた。
何故そう呼ぶのか。何かしら感じられたか。
怪訝に思いつつ、最後の稲荷を飲み込んだ。
「なんで狐」
「お稲荷さんが好きだから。それに、キツネって賢くて、可愛いじゃない」
にこ、と微笑まれてそんな風に言われたら、それ以上は聞けなかった。
一瞬ヒヤリとしたが、杞憂だったか。雨彦は経木を畳みながら。
「もっと南。......桜井、てとこ」
教えれば、来てくれるかもしれない。という期待があった。
「あら。じゃあ今日はお出掛けなのね」
遊びに来たわけではないのだが、家の事はあまり話したくないので、これには返さない。
翔真は、自分の最後の稲荷を手に取ると、反対の手を受け皿に、雨彦の口許まで運ぶ。
「付き合ってくれて、ありがと。はい、あーん......♥」
(うわ......)
今年十五になる少年にとって、恥ずかしすぎてどうにかなりそうである。
しかし、こういった調子の良い相手に、頑なに断るのも面倒くさそうだ。
......決して嫌ではないので、数秒後、ぱく、と其れに食い付いた。
どちらかというと、一瞬、翔真の親指が唇に触れてしまった時のほうが、恥ずかしかった。頬張る間も気恥ずかしく、視線をあらぬ方向へ流す。
「......ご馳走になって、すみません」
「ふふ。美味しかったわね」
翔真も腿の上の経木を畳んで。
「ねぇ、おキツネちゃん」
翔真は、やや距離を詰める。
ただでさえ陰った東屋の下であるので、彼の顔にも影が広がる。
「私、一人だから知らない土地は不安だし......」
先までの、明るく人懐こい雰囲気が、薄らいでゆく。
こういうのを「色気」というのだろうなと、雨彦は生まれて初めて、まざまざと感じた。
長い睫毛の下で、翡翠色の瞳が揺れている。艶やかな薄紅色の唇は、はんなりと半開きである。
「話し相手も居ないから、寂しいの......」
美顔が近付くと、梅の香りが強くなった。
雨彦の瞳孔が、少々、開く。ドロドロとした甘ったるく重い空気が、自分に纏わり付いてくるのを感じる。
翔真は囁くような甘い声で。
「このあと......宿で......、ね......?」
そっと、長い指が雨彦の袴に触れたとき。
バチン、と、強い静電気のようなものが弾けた。
「「っ」」
それは、互いに感じた。
"ようなもの"というのは、似てはいるが違うものだと、二人して瞬時に解ったからだ。
ようやく雨彦は自分の危機に気が付き、気持ち、翔真から身を離す。
「家族が、来るので」
「そ、そっか」
翔真は行き場の無くなった手で、そのまま雨彦の腿の上の経木を回収した。
「ご馳走さまでした」
東屋の外に出ると、相変わらずの良い日和で、暖かく感じた。
「いいえ、気にしないで」
雨彦はぺこりと、礼をする。翔真はにこやかだが、内心、悔しいったらない。ご馳走になるのはこちらの筈だったのに、年端もゆかぬ少年をモノに出来ないとは、屈辱である。
雨彦は、弱い子供だと思われたくなく。
翔真は、負けん気の強さから。
二人は視線を逃がす事なく、しっかりと目を合わせてから、その場で別れた。
父との待ち合わせ場所である興福寺まで、三条通りから伸びる石段を上りきって初めて、雨彦は後をつけられていないか振り返った。
(ほんと、何者だ)
危険だった筈なのに、彼の口許はなぜか笑みを堪えるように、わずかに弧を描いていた。
(人じゃない)
(おキツネちゃん、食べたかったなぁ)
むすぅ、とした顔も愛らしいが、残念ながら今は、宿の部屋に一人きりなので、誰も見惚れてはくれない。
部屋には格子窓があるが、東向きなので陽が入らず、室内は薄暗い。
翔真はならまちの中の宿に戻り、外着を脱いで衣紋掛けに掛けていた。
着物を、さらり、と撫で下ろす手。その先の爪は、街歩きしていたときとは違い、漆のように艶やかな赤で、鋭く、長い。
額からは、紫色に妖しく光る長い角が、二本。
床の間には黄色い水仙が生けられており、この花からも良い香りがするのだが、今の翔真が放つ、甘い梅の香りの芳醇さには、到底敵わなかった。
翔真は恨めしい眼差しで、数時間前、畳の上に自ら敷いた布団を見下ろす。
いつでも誰ぞ連れ込めるようにしているが、今日は失敗に終わってしまった。
本来であれば、あの少年と、此処で組んず解れつ。美味しく頂く予定であったのに。空しい。
(あの子、何者かしら......)
あの、バチンと弾けた強い力に、手を払い除けられた。
痺れるというよりも、一瞬だったが、熱せられた鉄瓶に触れてしまったような感覚に近かった。
「......」
翔真は緋色の襦袢の袂に長い指を忍ばせ、手がかりになるかもしれぬ物を、取り出す。
金茶色の飾り房である。
続く