除夕の夜に 誰だ、と鋭く飛ばした声に引かれて木陰から顔を出したのは、既に顔なじみとなった子供だった。
「云飞か。こんな時間にどうした?」
咄嗟に、なにか尋常ならざる事態でも起きたのかと思った。普段なら朝露滴るような早朝に訪れる奴だ。こんな深夜の山奥に単身やってくる理由など、それ以外に思い浮かばない。
だが俺のそんな懸念をよそに云飞は赤くかじかんだ頬でにっこり笑うと、着膨れた身体で藪をかき分けつつこちらにやって来て、赤々と燃える焚き火の前にしゃがみ込んだ。
「あー、あったかい」
手のひらを翳して幸福そうに呟く。俺は呆れて云飞を見下ろした。
「何しに来た? ガキが出歩いていい時間じゃないだろ」
この辺りに危険な妖精の気配はないが、山犬や猪など気をつけるべき生き物はごまんと居る。明かりは携帯しているみたいだが、そんな小さな光では足元だって覚束ないだろう。通い慣れた山とはいえ、誤って崖にでも落ちたらどうするつもりだ。
そう小言を言おうと口を開きかけた刹那、眼の前ににゅっと酒瓶が突き出されてきた。
「……あ?」
「一緒に呑もうと思って」
「——はあ?」
意表を突かれすぎて、まじまじと云飞と酒を見比べる。こんな夜更けに、俺と酒を呑むためだけに、わざわざここまで来たってのか? 全く意味が分からない。
内心で首をひねりまくる俺に、云飞が笑って言う。
「だってほら、今日は除夕だから」
「そ、……うなの、か?」
俺はまばたきをする。当然、山に暦などないから、そんなことは知りようがない。ひとまず謎の行動と理由は繋がったが、それでもまだ充分に意味不明だった。
「それで、なんでお前がここに来るんだ? そもそも除夕ってやつは家族と過ごすもんじゃないのか?」
俺の問いに、云飞はうーん、それはそうだけど、と視軸を上に向けてやや考える素振りをしたのち、
「でも今年は玄离と年越しがしたかったんだ。駄目?」
と首を傾げた。
「駄目ってわけじゃ……」
戸惑う俺に、じゃ良いよね、と言い切り、先程酒瓶を出した掛け鞄を探って粗末な盃をふたつ取り出すと、地面に置いてとくとくと瓶の中身を注ぎ始めた。
「はい」
なみなみと酒の入った盃を差し出されて思わず受け取る。
「除夕快楽、干杯!」
小さな盃同士をかちんとぶつけて、云飞がぐっと中身を飲み干す。訳の分からないまま酒を口に含んで驚いた。鼻に抜ける鮮烈な香り。飲み下せば強い酒精が喉を焼く。瓶を見た時からそんな気はしていたが、想像以上に強い酒だった。
「お前、いつもこんなの飲んでんのか?」
呆れて聞くと、
「たまにね。こう見えて強いんだよ」
しれっと答えて二杯目を注いでいる。人間の年齢的にはまだまだ生っ白いガキのくせに空恐ろしい奴だ。
「年夜飯とまではいかないけど、腊肉もあるよ。炙って食べよう」
二杯目もさっさと空にして、また鞄を探り始める。さほど大きくもない鞄から干し肉やら炒り豆の袋やら次々に出てきて、幻術でも見ているかのような気分になる。
実際、不思議な気分だった。さっきまでは普通の夜だった。云飞が訪ねて来なければ、俺はいつものように夜を過ごし、眠くなればねぐらに戻って寝ていただろう。ひとりで。暦の節目など知らないまま。
除夕の夜を誰かとこうして過ごすなど、いったい何百年ぶりだろう。
「どうしたの?」
盃を手にしたままぼうっとしている俺に気づいた云飞が首を傾げる。はっと我に返り、あ、いや、と身動ぎした弾みで酒が少しこぼれた。
「あー! もったいない!」
途端に目を吊り上げて声を荒げた云飞の迫力に押されて、「ご、ごめん」と反射的に謝る。そんな自分の反応に驚いたのもつかの間、今度は腹の底から笑いが込み上げてくる。
堪らえようてしても堪えきれない。俺は盃を持ったまま、やや顔を伏せてくっくと肩を震わせた。
突然笑い出した俺を見て、ぽかんとした様子の云飞が、また「どうしたの?」と訊く。
「——いや、久しぶりに叱られたと思ってさ」
にわかに滲んだ涙を指で払って、盃の中身を干す。酒の力もあって、少しばかり愉快な気持ちになっていた。
そうだ。思い出した。新年って奴は、こうして笑って迎えるもんだった。
云飞が気味の悪いものでも見るような顔をしながら、
「そうなんだ? でも叱られて笑うなんて、玄离って意外と変なところがあるんだね」
と言い、すぐに「でも」と続ける。
「おかげで君の笑った顔を初めて見られたよ」
云飞が笑い、俺の盃に酒を注ぐ。俺もまた「うるせえ」と言いながら、云飞の盃に酒を注いだ。
除夕の夜は更ける。新たな年を迎える間際、静かな夜の森に、かちんと盃のぶつかる音と、穏やかな笑い声がささやかに響いた。