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    桜道明寺

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    桜道明寺

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    成長小黑の書きかけで三年くらい放ってあるやつ
    ラストまでは決まっているので、気が向いたら続き書きたい

     最初にそれを見た時、あら、随分と懐かしい見た目にしたのね、と若水は疑いもなく思った。
     会館の外廊下を駆けてくる幼い身体。もう捨てろって言ったのに、なんでだか取って置きたがるんだ、とかなり前にぼやいていた幼い頃の服を着て、まるで記憶の中からするりと抜け出たようなその姿は、懐かしい可愛らしさも相まって、微笑ましく若水の目を引いた。
    「小黑!」
     口の横に手をあてて呼びかける。
    「どうしたの、今日は随分と可愛いじゃない」
     若水の声に一瞬ハッとした小黑は、だがニコリともせず、その脇を猛スピードで駆け抜ける。いつもとは違った様子に、何かあったのかしら、と首を傾げつつ小さな背を見送る若水の耳に、今度は聞き慣れた声が切羽詰まった調子で届いた。
    「若水! そいつ捕まえて!」
     小黑が駆けてきた方向にいま一度目をやって、若水は今度こそあっけに取られた。片方の腕に抱えていた紙束が、ばさばさと音と立てて床に落ちる。
     廊下の向こうから物凄い形相で追いかけてきたのは、見慣れた十代後半姿の小黑。
     え? え? 前後の二人を見比べて、若水は混乱する。
     逃げる小さな小黑と、追う大きな小黑。
     若水が素っ頓狂な声で叫ぶ。
    「……小黑が、二人」

         *

    「……で?」
     机に頬杖をつきながら、ややうんざり気味の哪吒が訊く。
    「どういう流れでこういう事態になったんだ?」
     館の執務室。さきほど逃げていた幼い方の小黑が、片手に能力を封じる腕輪をつけられた上で縛られ、床の上で不貞腐れている。
     哪吒の前に立つ大きい方の小黑が、へどもどしながら説明する。
    「ええと、仕事でちょっとヘマをして……。相手は捕まえたんだけど、拘束する直前に、こう、胸のあたりにぽんと」
    「ぽんと能力を食らって」
    「で、そっからこいつが」
    「ぽんと飛び出したと」
    「はあ」
    「……はあ、じゃ、ねぇぇぇぇ! 馬ッッッ鹿か手前は! だから拘束時はあれほど気をつけろって、俺も无限も普段から口すっぱくして言ってたじゃねーか!」
     バンと机を叩いて立ち上がる哪吒に、大きい方の小黑の耳がピャッと伏せられる。
     はあああ。盛大な溜息と共に再び椅子に深く座り込み、机に肘をついて額を押さえる。
    「お前なあ……なんでよりにもよって、俺が館長代理ん時に、こんなめんどくさいことを……」
     本来、龍游の館長である潘靖は、本部で開催されている研修に出席中だった。
     哪吒は指の下から恨みがましい目で大きい小黑を見、大きい小黑はそこから目を逸らしがてら小さい小黑を見、そして小さい小黑は、自分を混天綾で簀巻きにした張本人を噛みつかんばかりの顔で睨みつけている。険悪な三すくみが続くことしばし、救いのようにノックの音が転がり、失礼しますと冠萱が姿を現した。
    「報告を」
     室内の異様な空気に一瞬怯んだ冠萱だったが、顔を上げた哪吒に促されると、気を取り直したようにひとつ咳払いをして、持参した紙に視線を落とした。
    「判明した内容だけを簡潔にご報告申し上げます。小黑の受けた能力は分離。第三者が実像を伴う霊体を作り出す能力だそうです。本来、霊体の運用や実体化は本人の意思によるものですが、この能力は強制的に霊を割いて本人のコピーを作り出します。ただし記憶や能力、および外見は、割かれた能力の量に比例するそうです」
    「つまり?」
    「強奪の下位互換と言ったところです。割かれたぶんだけ本人の能力が低下しますが、霊域が欠けるといった深刻な事例は、今のところ認められていません」
    「そりゃ結構だが、別な意味で厄介だな……小黑、能力は今どのくらい残ってる?」
    「金属は問題なく動かせるけど、拘束力はどうかな……。転送は明らかに距離が縮んでる。今までの三分の一くらい」
    「ってことは、」
     哪吒の目が、ちらりと小さい方の小黑を見る。
    「丁度そいつの年齢ぶんぐれぇ削られてるってことか」
     哪吒の台詞に、小さい小黑がギッと睨みかえす。
    「なんだよ、なんなんだよ一体! さっきから聞いてりゃ人を泥棒みたいに! そもそもそこのでかいのが油断したのが悪かったんだろ ぼくはいきなり追っかけられて、びっくりしたから逃げただけだ! 何も悪いことしてないって分かったんなら、さっさとこれ解けよ! おい聞いてんのか、そこの偉そうなチビ! お前だお前に言ってんだよ!」
     ぎゃんぎゃん、その場で身体を揺らしながら罵詈雑言の限りを尽くす。よくもまあ、ここまで悪罵のレパートリーがあるもんだと妙に感心しつつ、哪吒と大きい方の小黑は互いにげんなりと顔を見合わせた。
    「いやあ……いっそ清々しいくらいのクソガキ様で……」
    「お前もようやく无限の苦労が分かったか。ってか无限は? もう知ってんのか?」
    「あ、はい。ちょうどさっき廊下でばったり会って」
    「懐かしいって喜んでなかったか? 孫みたいなもんだろ、あいつにとっちゃ」
    「……と言うか、えーっと、会うには会ったんですけど。その時、小さい僕に邪険にされたのが、地味にショックだったみたいで」
    「……まさか寝込んでるとか?」
    「流石にそこまでではなかったですけど。ちょっと行ってくる、って言ったまま、ふらっと自分の霊域に」
    「あー……」
     全てを察した哪吒が遠い目をする。
     まあ、そっとしといてやれ……と小黑にささやき、冠萱に向き直る。
    「で、対処法はあるのか?」
    「はい。捕縛された本人の言では、分身が自ら吸収を望むか、または物理的に消滅すれば、その場で本体に吸収されると」
    「……そうか、なら話が早い」
     ゆらりと哪吒が立ち上がる。軽く上げた右手の先に、哪吒の宝具である火尖鎗が炎と共に顕現する。哪吒は無表情のままそれを掴むと、ふわりと空中に浮き上がり、陽炎がゆらめく切っ先を子どもに向かって突きつけた。揺れる炎に照らし出された冷酷な視線を浴びて、小さい小黑がびくりと身を竦ませる。
    「——ちょ、ちょっと待ってよ哪吒大人!」
     槍を振り下ろすべく哪吒が腕をぐっと引いた刹那、大きく腕を広げた小黑が二人の間に転がるようにして割り込む。
    「小黑 なんで庇う」
    「そりゃ庇うに決まってるでしょ! こんな小さい子相手に何するつもり」
    「……はああああ 馬っ鹿か手前は! そいつは本物の子どもじゃねえんだぞ そもそも、そいつが元に戻んねーと一番困んのは手前じゃねーか! 仕事だって、このまま続けらんなくなるかも知れねえんだぞ」
    「そうだけど! 確かにそうなんだけど! でも、こんなやり方、僕には受け入れられない! 無理言ってることは充分分かってる、でもお願いだ、どうか僕に考える時間をください!」
     必ず説得するから、と必死の形相で懇願され、舌打ちしながら哪吒が火尖鎗を下げる。そしてくるりと背を向けると、「……ああ、畜生!」と頭を掻きながら忌々しげに叫んだ。
     はあ、と本日何度目か分からない溜息が室内に響く。
    「……一週間だ。館長が帰る一週間後までには何とかしろ。それ以上は流石の俺様でも隠し立てできねえ」
     振り返らないまま、ぶっきらぼうにそう言い捨てる。
     ほっと息を吐く小黒に、冠萱がほろ苦い微笑を送ってきた。

         *

     それから三日。小黑は頑張った。隙あらば逃げようとする分身を捕まえ、膝詰めで説き伏せたり、食べ物で釣ったり、情に訴えかけたりと、あの手この手で説得を試みてきたが、そのどれもが決定打に欠けた。
     そして、その夜。
    「そんなこんなで、もう打つ手がなくなりました……。ごめんなさい、助けて師父」
     開いたドアの向こう、腕の中でびちびちと活きのいい魚のように暴れる子どもを抱え、へとへとに疲れきった弟子を見て、无限は目をしばたたいた。
     こんな所では何だから、ひとまず中に入りなさいと通された部屋は、相変わらずの仮住まいで、個人のものと思わせるものは何もない。もっとも、无限の私物は全て霊域の家にしまい込まれているのだから、問題の起きようはずもない。共に旅をしていた頃からずっとそうで、だがその物質に縛られない生き方は、まるでいつ消えてもいいような希薄さの表れのような気がして、幼い頃の小黑を不安にさせたものだった。それが師の生活スタイルだと今の自分は知ってはいるけれど、それでも年月を超越した外見同様、何ひとつ変わらない世界を目の当たりにして、小黑は急速に心があの頃へと戻っていくような錯覚を起こした。
    「小黑?」
     心を無防備に開け放していたせいだろう。ぼうっとしているところを、怪訝そうに覗き込まれて、小黑は、はっと我に返った。
    「——あ、ごめん。ちょっと寝不足で……。本当にごめんね師父。事情はもう知ってると思うけど」
    「ああ。その子に会うのは、これが二度目だな。——私を覚えているか?」
     小黑の胸元にがっちり抱え込まれたままの分身が、じろっと无限を睨む。
    「知ってる。あの変な場所で会った人間だろ。すぐ居なくなったけど」
    「そうだ。改めて、私は无限と言う。よろしく頼む」
     そう言って柔和な笑みを浮かべる无限に、ふん! と鼻を鳴らしてそっぽを向いた分身に、慌てた小黑が声を荒げる。
    「こらチビ!」
    「……チビ?」
     首を傾げる无限に、
    「うん。同じ名前でややこしいから、とりあえずそう呼べって哪吒が。ちなみに僕はクロ。……でもこいつ、それがまた不満らしくてさー」
    「あんなチビにチビ呼ばわりされたくないね!」
     唯一自由になる足をばたつかせながら、小さい小黑ががなる。
     小さな踵にがんがん腹を蹴られながら、これだもん、と小黑はげんなりと呟く。そして无限の耳許に口を寄せ、
    「……正直なところ、初見でチビって言われた報復のような気もするんだけどね……」
    と忌憚のない意見を述べた。
    「だから師父もそう呼んで? 僕はもう馴れたし」
    「しかし」
    「いいからいいから。……って言うか、こいつが館で何かしでかすたび、こら小黑! って毎回こっちまでびくびくするはめになったから、正直いま自分の名前あんまり聞きたくない」
     うんざりしすぎて焦点すら合っていない様子の弟子を前に、无限は少し考え込む。そして、
    「だが、本人が嫌がる名を呼ぶのは気が引ける。何かいい手を考えてみるとしよう」
    と言って、相変わらず不貞腐れている分身と、疲れ切っている弟子を安心させるように、ふわりと微笑みかけた。

         *

     深夜、小黑が客庁を覗くと、无限がひとり酒盃を傾けていた。
    「眠ったか」
     ささやかな卓上灯の明かりに照らされた顔に頷いて、対面に腰掛ける。上体を桌子に預けるようにうつ伏せて、長い溜息を吐く。
    「……つっっっかれたぁ……」
     念願叶い執行人となって早数年、こなした任務は数あれど、ここまで小黑を疲労困憊の極みに追い込んだものはなかった。肉体よりも、精神的の疲れの方がよりきつい。元は同じ自分なのだから、誠心誠意を尽くせば理解してくれるだろうという目論見が、いかに甘い見通しであったか、この三日で小黑は思い知らされていた。
     哪吒との約束まで後四日。刻々と迫りくる期限に焦る小黑とは裏腹に、分身は日々かたくなさを増してゆく。強引に事を進めたくない小黑としては、どうして分かってくれないと、歯噛みしたい思いでいっぱいだった。このままだとお前が酷い目に遭うんだぞ、と精一杯の脅し文句を使ってみても、「やれるもんならやってみろ」と、けんもほろろに突っぱねられる。
    「……何で分かってくれないのかなあ……」
     天板に額を伏せたまま、情けない声で呻く。无限は残った酒を一息に干すと、静かに息を吐いて、目の前で意気消沈しているであろう弟子に語りかけた。
    「押し付けられること自体が息苦しいのだろう。あの子がひとりで考えられるよう、お前が一歩引いてみたらどうだ」
     分かったような師の物言いに、ムッとした小黑が顔を上げる。
    「時間があったら、もちろんそうしたよ。でも仕方ないだろ? 期限内に戻せなかったら、あいつがどんな目に遭うか分かったもんじゃない。哪吒はどんな手を使ってでも戻すだろうし、そんなことになったら——」
     とたんに気色ばむ小黑に、違う、と无限が首を振る。
    「あの子は、お前であって、お前ではない」
     知ってるよそんなこと、と尚も不平をぶつけようとする小黑を目顔で諌めて、无限が言う。
    「聞きなさい。あの子はお前から生まれ出たものではあるが、自我を持つ生き物である以上、決してお前の思う通りにはならない。それがいかに正しく、最善の道であったとしても、あの子が心からそれを望まぬ限り、無駄に反発されるだけだ。……身に覚えは?」
    「ぐぅ。……あります」
     途端に亀のように首を竦める弟子に、ふっと笑いかける。
    「あの子を傷つけたくないと言うお前の気持ちは尊いし、私も同じだ。だからこそあの子が自分で答えを出せるよう、ここは一歩引いて見守るしかない。どのみち八方塞がりなら、せめてあの子の良いようにしてあげなさい」
    「いいのかなあ、そんなんで」
    「結果は誰にも分かりはしない。結局のところ、なるようにしかならない。それはそうとして、その術は本当にお前の命を脅かすことはないのだな?」
    「うん、それは大丈夫。安心していいよ」
    「そうか」
     幾分かほっとした様子で、无限が卓の上を片付け始める。
    「お前も疲れただろう。もう寝なさい。私も休もう」
    「うん、でももうちょっとだけ。……ごめんね、師父。本当は、頼るつもりじゃなかった。もう少し上手くやれると思ってたんだ。でも、だめだね。僕、まだまだだなぁ」
     俯いたまま、ぽつぽつと小黒が言う。
    「哪吒からああ言われてるし、早くどうにかしなきゃって焦って、言うこと聞かないあいつに腹を立てて……。こうなったのは僕が油断したせいで、あいつには何の罪もないって頭では分かってるはずなのに、どうしても苛々する気持ちが抑えられなかった。嫌われて当然だよ。だってどう見たって嫌な大人だったもん、今までの僕」
    「仕方がない。子どもとは大概そういうものだ」
    「師父も大変だった?」
    「それはお前が一番良く分かっているはずだろう」
     はは、と顔を合わせて苦笑する。
    「思いつく限りの手を尽くしても駄目で、どうして良いか分からなくなった時、真っ先に師父の顔が浮かんでさ。館も師父のところならって特別に許可を出してくれたから、ほんと助かった。でも若水からは『夜泣きがつらくて実家に帰る母親みたいね』って笑われちゃった」
    「言い得て妙だな」
    「どこが」
     立ち上がって抗議する小黒を、まあまあ、と手で宥めてから、
    「——そうだ。お前とあの子の区別の仕方について、ひとつ提案があるのだが」
    と、指先で金属を操りながら无限が言った。

         *

     つんつん、と上着に留めつけられた金属に裾を引かれて、小黑の耳がピクリと動く。
    「小黑」
     次いで呼ばれた名前に、はーい、と隣の部屋に向かって返事をした。
    「どうかした? 何か用?」
     覗き込んだ客庁では、无限が分身にお古の外套を着せかけているところだった。
     ——あ、
    「少し散歩に行ってくる。一緒に行くか?」
     誘いの言葉に、一瞬ぽかんとした小黑が、慌てて首を振る。
    「う、ううん。いま他にやる事あるから」
    「そうか?」
    「うん、行ってらっしゃい」
     自室として充てがわれた部屋に戻り、後ろ手に扉を閉めて、思わず息を吐く。
     ——びっくりしたあ。
     まるで写真や動画の一場面を見ているかのようだった。あの黄色い外套。流石に色褪せてはいたが、当時気に入ってよく着ていたのを覚えている。
     ——あんなの、まだ取ってあったんだ。
     甘酸っぱい嬉しさの影で、胸がわずかにちくりとする。
    「……ん?」
     なんだろう、今の。
     内心で首を捻る小黑の耳に、玄関へと向かう二人の楽しげな声が届く。
    「どこに行くの?」
    「出来るだけ人の少ないところへ。そろそろ思い切り身体を動かしたい頃だろう」
    「ほんと? やったー!」
     バタン、と玄関が閉まり、声がだんだんと遠のいていく。
     ちくり。
     ——あれ?
     小黑はその場に立ち尽くす。初めて経験する感情が、もくもくと胸に湧き上がってきた。いらいらするような、それでいてどこか寂しいような、妙な落ち着かなさに戸惑う。
     小黒と分身が、无限の元に身を寄せてから二日が経った。
     アポイントもなしに訪れて、半ば無理やり世話を押し付けたようなものなのに、无限は嫌な顔ひとつせず良くしていてくれていた。分身の方も最初の態度はどこへやら、いまでは小黑よりも无限に懐いているくらいだ。そして小黑も四六時中気を張っていた生活から解放され、溜まっていた事務仕事をこなせる程度には余裕が生まれた。いまのところ全てが上手く回っていて、不満に思うことなど何ひとつ無いはずなのに、どうしてこんなにも心が薄ら寒いのだろう。
     ——なんか変だ、僕。
     ぶるぶるっと頭を振って、心の淀みを振り払う。
     今はそんな得体のしれないものに囚われている場合じゃない。哪吒との約束まであと二日。小黒に残された時間は少ない。
     それまでに早く——早く、あいつを何とかするための良い方法を考えなければ。

         *

    「それで道間違えてて——ひと山余計に歩かされて、めっちゃくちゃ疲れた! 无限はわざとだって言うけど、あれ絶対ウソだよな まあその後でアイスくれたから許してやったけど。そうそう、アイスって言えば无限がさ」
     愚痴の体は取っているけれど、余程楽しかったらしい。自室で、机に向かう小黒の背に向かって、分身はのべつ幕なしに喋り続けている。
     うるさいなあ、と思う。
     気楽でいいよな。こっちの気も知らないで。それに、楽しかったから何だっていうんだ。お前なんて、
    「どうせ、すぐ居なくなるくせに」
     我知らず、ぽろっと言葉が出てしまった。すぐにハッとし、椅子を鳴らして振り返れば、ベッドに腰掛けてぶらぶらと揺れていたらしき足が、静かに留まるところだった。
    「なに、いま、なんて」
     思わぬ動揺を向けられて、言葉に詰まる。え、だって、と口ごもった後、焦りと罪悪感を押し込めるようにして矢継ぎ早に言う。
    「哪吒との話、聞いてただろ。お前は僕で、いずれ僕の中に還らなきゃならない。ずっとこのままじゃ、居られない。何度も言っただろ、そうしないとお前が酷い目に遭うって」
     ふるふる、と小さな首が僅かに頭を振る。
    「あれ、ぼくが逃げようとしたから、あんな風に怖く言われたんじゃないの? ほんとなの? でも、そしたらぼく、どうなるの。消えちゃうの? そんなの嫌だ、こわいよ」
     凍りつく眼差しを前に、小黒は初めて、頭を殴られたかような衝撃を受けた。
    『あの子は、お前であって、お前ではない』
     ——ああ、
    「……っそ、だよ」
     震える声が喉元から漏れる。動揺を気取られるな。腹に力を入れろ。笑え——笑え!
    「嘘だよ、嘘。そんなの、ただの脅しに決まってんだろ? 簡単に騙されやがって、バッカだなー! お前も、口は達者だけど、結局は子どもなんだな」
     ハハッと軽く笑ってみせる。そう、それこそ子どもを侮る嫌な大人のように。
    「はあ」
     途端にいきり立つ分身が、怒りに任せて枕やらクッションやらを投げつけてくる。
     それを笑って受けながら、皮一枚隔てた中では嫌な動悸が治まらない。
     演じ抜け。演じ抜け。
     背に、じとりと汗を感じる。詭弁だ、一時しのぎだ、と自らを責める声が脳裏にこだまする。
     でも、それでも、大人として、いまこの子をこれ以上怯えさせてはならない。
     僕の都合で生まれてしまったこの子を、絶望を抱えたまま、僕の中に戻すなんて非道があってはいけないんだ。
     でも、それじゃあ。
    『……一週間だ。館長が帰る一週間後までには何とかしろ。それ以上は流石の俺様でも隠し立てできねえ』
     哪吒の声が耳の奥に冷たく響く。
     ——僕は、一体どうすればいいんだ
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