試合に勝って 勝負に負ける カーテンの隙間から零れる陽射しが、歌姫の目元を照らす。
眩しさにゆっくりと瞼を開いた。
未だ夢見心地な意識。
体を動かそうとして、ずいぶんと怠いことに気付く。
(なんだろ……?)
体調でも悪いのだろうか?
考えてみれば、昨夜の記憶がない。
久しぶりの東京出張。
タイミングよく硝子も時間があり、なんと七海や猪野も時間があるという。
更に割とマジで嫌いで酒が飲めないくせにこういう集まりがあると顔を出したがる、五条が地方出張で不在。
これはもう、飲みに行くしかない。
なかなかない集まりに歌姫のテンションはマックス。
更にその上がり切ったテンションは普段飲まない、ワインや日本酒を歌姫の口に運ばせた。
それもまるで、水のようにガバガバと飲むものだから、あっという間に酔いはまわった。
最後に見たのは硝子の心配そうな顔、七海や猪野の焦ったような声。
この分だと、硝子の指示で自分は七海や猪野に連れられて、宿泊予定のホテルに運ばれたのかもしれない。
怠さに鞭を打ってどうにか体を起こそうとしたが、突如走る痛み。
「いた……」
頭を抑えて歌姫は再びベッドに横になった。
薄目で天井を眺める。
泊まるホテルはいつも東京校に出張になった時にお世話になっている所だから、宿泊した回数は一度や二度ではない。
だが、どう見てもいつもの天井や部屋でないのは、二日酔いで思考が定まらない歌姫にも理解できた。
広いベッド。
少なくともダブルよりも大きいのではないだろうか?
ベッド以外はシンプルで、本棚や、作業用のデスクとパソコンがある。
本棚の中には難しい本がぎっしり詰まっており、入りきらないものは床に無造作に置かれていた。
硝子の部屋も殺風景ではあるが、更に輪をかけて殺風景な部屋。
そしてどう見ても高専の部屋とは思えない造り。
(……七海の部屋?)
昨日の参加者は七海と猪野と硝子。
硝子の部屋は何度も入っているし、猪野と七海ならば、七海のイメージの部屋。
(迷惑かけちゃったのね……)
どんな経緯で部屋に来てしまったかはしらないが、迷惑をかけた事実は変わらない。
自分の体調がどうであろうと後輩に迷惑をかけてしまった手前、謝罪せねばなるまい。
歌姫は頭痛を無視してどうにか立ち上がり、違和感を感じる。
ふと自分を見れば、自分がもともと着ていたカットソーではなく、自分よりもはるかに大きなスエットを着ており、更に下に履いていたスキニーのジーンズは身につけていない状況。
どういうこと?
歌姫は目を丸くしたと同時に疑念が胸に浮かぶ。
まさか、七海に限って。
四つ年下とは言え、社会人としての常識もあり紳士的な七海を、歌姫は尊敬している。
できるなら五条にも、爪の垢を煎じて飲ませたい程だ。
そんな七海が、女性の気持ちを無視してどうこうするとは思えない。
だが一応。
歌姫は服の隙間から見える自身の体を見る。
キャミソールはなかったが、下着は上下ともに身につけたままだ。
歌姫は、ホッと胸を撫でおろす。
恐らく、何かしらの事情があって、歌姫を着替えさせたのだろう。
下のスエットを着ていないのは、きっとサイズがあわなかったからに違いない。
まぁ、七海は高身長だ。
上だけでも、歌姫の太腿を半分隠す程の丈の長さだった為、下着も見えない。
となれば先ほど思いつた謝罪を続行だ。
歌姫が寝室のドアを開くと、瞬間。
ふわ、と鼻腔を擽るお味噌汁の匂い。
スタイリッシュなモデルルームかと思われる広いリビングに不似合いな家庭的な匂いに歌姫は目を丸くする。
更にキッチンに立つ、後ろ姿に、鈍器で頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
ラフなスエット姿に、寝ぐせでツンツンと立っている白い髪。
鼻歌を歌いながら、ご機嫌に鍋をかき混ぜる姿は、とても世界を壊滅させるような力を持つ特級呪術師とは思えない。
寝室の入り口で立ちすくむ歌姫を見ずに、男は声をかけてくる。
「もう少しでご飯できるから、そこ座ってて」
言われた『そこ』を見ると、キッチンの側にある四人掛けのテーブルに、サラダ、焼き鮭、切り干し大根の炒め煮と、純和風な食事が並んでいる。
山のように聞きたいことが、頭の中でグルグルとまわっていた。
が。
「いや、私もてつだ……、っつ」
ただの同僚で、後輩の男にされる、至れる尽くせりの状況に歌姫は居たたまれなくなり、手伝いを申し出ようとしたが、動いた瞬間に猛烈な頭痛が歌姫を襲う。
思わずその場にしゃがみ込んだ歌姫に、溜息をつきながら男は、コンロの火を止め、冷蔵庫からペットボトルを取り出す。
歌姫の側により膝をつくと、ペットボトルのキャップを開け、はい、と水を渡された。
「ありがと」
小さくお礼を言って歌姫は水をゴクゴクと飲む。
そんな歌姫を碧眼がジッと眺めつつ、言う。
「そろそろさぁ、お酒の飲み方考えたら?歌姫も若くないんだから」
呆れたように見る後輩――、五条を睨むが、世話をかけているのも事実の為、歌姫は無言を貫いた。
五条は歌姫をゆっくり立たせると、食卓へと誘う。
歌姫を椅子に座らせると、五条は再びキッチンに戻った。
それを目で追うと、再び頭痛が自身を襲い歌姫はテーブルに突っ伏す。
耳にはカチャカチャと食器がぶつかる音が聞こえる。
家庭で誰かにご飯を準備してもらうのはいつぶりだろう。
五条が近付いて来る気配を感じ歌姫はゆっくりと顔をあげた。
トレイにご飯茶碗とお椀を載せた五条が、テーブルにそれをおろす。
湯気の立つ味噌汁とご飯。
艶々と輝くお米と、味噌汁はしっかり白味噌だ。
普段なら二日酔いの時は何も食べたいと思えないのだが、味噌汁の匂いが、くう、と歌姫に空腹を思い出させた。
五条も当たり前のように歌姫の目の前に座る。
二人、どちらかともなく手を合わせて、食事を始めた。
味噌汁のお椀を両手で持ち、ふーふーと冷ました後、一口飲む。
「……美味しい」
「でしょ?」
得意気に笑う五条に、歌姫はバツが悪さを感じたものの、食べ物に罪はないとばかりに味噌汁を啜った。
箸の持ち方、食事の仕方、育ちがいい彼はどの作法も完璧で、思わず見とれる。
歌姫も食を進めた。
サラダはキャベツや大根、にんじんを千切りにしたものにはすでにドレッシングで味がついていた。
梅とシソがきいているドレッシングは五条の手作りだそうだ。
切り干し大根の味付けも、程よく、ご飯が進んだ。
食器が鳴る音が響く空間。
会話もなくただ二人黙々と食べる。
一足先に食べ終わった五条は、頬杖をついて歌姫を眺めている。
「おかわりあるよ」
「……大丈夫」
言葉少なな食事だったが、決して不快ではない。
むしろ快適だった。
「お茶とコーヒー、どっちがいい?」
間もなく食事を終える歌姫に五条が声をかける。
「……コーヒー」
「了解」
五条はそう言うと、自分の分の食器を片付け、キッチンへと戻る。
豆を粉砕するところから全自動でできるコーヒーメーカーらしく、豆を煎る音が部屋に響く。
その内部屋にはコーヒーの芳醇な香りが漂ってきた。
歌姫は味噌汁を飲むと、箸を箸置きに収め、手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
タイミングよく五条がコーヒーを歌姫のもとへと持ってくる。
「……ありがと」
「どういたしまして」
両手でコーヒーカップを持ち、ふー、と息を吹きかけて、一口飲む。
少し苦味の強い味は歌姫の舌によく馴染んだ。
コーヒーカップも美濃焼のシックなもの。
確かに、食事に使用した食器もシンプルではあったがしっかりとした素材のものばかり。
悔しいがセンスは抜群によかった。
正直、昨夜いなかった五条が、何故目の前にいるのか。
ここは何処なのか。
いろいろと疑問はある。
が。
あまりに居心地の良い環境。
二日酔いの頭はあまり深く物事を考えていなかった。
「毎朝、五条のご飯、食べたい、かも」
思わず口をついた言葉。
ハッと我に返り歌姫は、違うの、と否定しようとしたが、その前に歌姫の頬を五条の大きな手が包み込んだ。
「それって、プロポーズ?」
碧い目が歌姫を見る。
その目が思ったより真剣で歌姫は、息を飲む。
静寂が二人を包み込む。
まるで金縛りにでもあったかのように、目が離せなかった。
否定しないと、とは思うのに、言葉が出ない。
妙な緊張感は五条が口角をあげて、歌姫から手を離し、なんてね、とおどけて見せたことにより終止符を打った。
「あ、あんた……! 人を揶揄うのも……っつ」
五条に向かって叫ぼうとする文句は、頭痛によって阻まれ、頭を抑えて歌姫は俯く。
「……どっちが揶揄ってんだよ」
小さく聞こえた言葉に歌姫は目を丸くし五条を見れば、先ほどのペットボトルを頬に押し付けられた。
「悪いけどうちには二日酔いの薬なんてないからね。いい加減覚悟してヘパ○ーゼ飲みなよ」
「いやよ。あれに頼ったらなんか負けたような気がする……」
「とっくの昔に酒には負け続けてんだろ」
「う……」
ペットボトルの水を飲みながらいつも通りの軽口の五条に歌姫は何故かホッとする。
少し拗ねたような声だった。
確かによくよく考えれば迂闊な言葉だったというのは思う。
だが相手は五条だ。
歌姫の言葉を勘違いする要素も、想いもないだろう。
ないはず。
(気のせい、よね……)
痛む頭では思考もまとまらない。
「……ごめん、もうちょっと寝て、いい?」
歌姫は席を立つと、五条も席を立ち歌姫に近寄ると姫抱きにされた。
「ちょ……、っつ」
「もう、いいから黙ってなよ」
見上げれば首の筋、のどぼとけ、顎のラインと、整った顔が見える。
突如感じた『男』に歌姫の心臓が、トク、と音を立てた。
(いや、いやいやいや、相手は、五条だし)
赤くなる顔を隠すために歌姫は五条の胸に顔を埋める。
そして、気付く。
五条の鼓動の速さに。
今の自分と、同じくらいの。
歌姫が顔をあげ五条を見れば、目に入るのは先ほどの首筋、のどぼとけ、顎のライン、そしてその先にある、耳。
その耳がほんのりと赤いのを見て、歌姫は目を丸くするが、思考を邪魔するように頭が痛む。
(……とにかく今は寝よう)
目を閉じ五条の胸に耳を寄せる。
心地よい鼓動の音に歌姫は抗うことはなかった。
夕方まで眠った歌姫が五条の作る夕飯に絆されて、最終的に自分が食べられちゃうのはまた別の話。