愛せるなら愛してみろ/マクジェ しん、と肌を突き刺す冷えた空気。
特別に気温が低いわけではない。言うなれば比喩的な表現で、それほどまでに二人きりの空間が冷めきっていると言うか。
兎にも角にも、少しでも相手の気に触れるような事をすれば、途端に散らす火花が破裂してしまいそうでただずっと互いを見つめ合っていた。
「……」
頑なに押し黙るマークは如何にも何か言いたげで、それでも唇を固く結んだままぎゅっと眉たちを寄せるのが意味もなく己の心を掻き回す。
「言いたいことがあるならハッキリ言えよ」
「別に、何もない」
嘘が下手にも程がある。
無性に苛立ちを呼び起こしてくるマークの口振りに舌を打ってしまいそうだ。
そんな事をしてしまえば余計にこの空間はヒリついてしまうだろう。
分かってはいても、意識が遮る前に動いてしまう舌の筋肉が静かな部屋に弾く音を響かせ、ついでに深く長い嘆息までをも零してしまった。
これでもう、絶対零度は確実だ。
「…悪い、何か気に触ったか?」
「あー、気にするな。こっちの話だ」
オレも大概、下手な嘘を吐いたもんだ。
自身でも拍子抜けしてしまうくらいな誤魔化しは当然に通用する筈もなく、逸れる視線を追い掛け余計な詮索を許してしまう。
「気にするなって態度じゃない」
「そうだな、でも放っとくもんだろ」
「放っておけばその不機嫌は直るのか?」
「は?」
マークの言葉に、思わず鋭利な返答をしてしまった。
不機嫌なのはどっちだ。
咄嗟に浮かんだ思考が勝手に開く喉から不満を吐き出し、挑戦状を叩き付けるように声帯を震わす。
オレからすれば、不機嫌にしているのはマークの方だ。オレが不機嫌なのは先にマークが部屋中を不満で満たしているから。
「お前も言いたいことがあるなら言ってくれ。嫌な所があるなら直す努力はする」
「少なくとも、オレはお前より言いたい事は言う派だ。」
今の言葉に偽りはない。でも、本音とは言えないものでもある。
言いたい事は言うが、誰にでも無遠慮に言うわけじゃない。特に、マーク相手の場合は。
好き勝手言って傷口に塩を塗り込んでも、手厚いフォローと優しさで許されるスティーヴンとは違うんだ。
オレは言うだけ言って、開ききった傷口から赤い苦痛が垂れ流されるのを見つめるしかできない。その傷を塞いでやることも、無かったことにしてやる事もできない。
だから、無意識のうち不要だと仕舞い込む本音が多くなる。
でも別に、オレはそれで構わないと思っていた。
どうせこいつとはこれ以上近づく必要もないのだし、このくらいの距離感でいた方がマークの為になるから。
「ジェイクは、俺のことが嫌いなんだろ」
「……なんて?」
「だってそうだろ。俺から距離を取るのはいつだってお前の方だ」
マークが何を言っているのか、理解するまでに幾分時間を要した。
掛けた時間のわりに得られた認識は「どうしてそうなる?」ただそれだけ。
距離を取っている、と言われればそのとおりだが、マークだってこの距離を詰めようともしない。
別にオレは拒絶してるわけではないんだ。拒絶と言う言葉を挙げるなら、それはマークの方が当てはまるだろう。
長い時間の中、ジェイクロックリーから目を逸らしてきた男だ。自分で「強くなければ」と求めておいて、その仮面をオレに託したまま暗幕を降ろしてしまった。
そうした事を恨んではないし、納得もしている。オレがマークでも、きっとそうしてしまうだろうから。
それでも、先に「さよなら」を告げたのはお前なんだ。
「知ってるか?そういう奴のことを"棚上げ"って言うんだ」
「俺の話か?」
「他に誰がいる」
この部屋には、オレと、マークだけ。
同じ顔をした男が二人。声も身体も同じなのに、考え方も性格もまるで違う。
でもそれは互いを補う為の違い。独りで埋められない罅を埋める為の、もう一人の自分なのに。
「…はぁ、もうやめよう。やっぱり俺たち相性が悪いんだ。俺も悪かった、無理に仲良くすることもない」
「そうだな。薄っぺらな情なんて邪魔で面倒なだけだ」
マークの言葉に、何でもないように突き返した。
正論だと思う。紛れもない事実で、ジェイクロックリーならそのくらい冷淡な薄情にだってなる筈だ。
ならば、どうして自分でそう放ったそばから痛むのだろうか。胸の奥底が膿んでしまうみたいに疼き、溢れる感情を止められなくなる。
嘘吐きは、泣いたりなんかしないのにな。
「…ジェイク?」
「放っとけ」
深々と下げた鍔先に頼るしかなかった。
近づくなと線を引けば、そこから侵入してくることもない。距離を取って、影を孕む。
もういいんだ。今更傷つくことでもないのだし、分かりきってることじゃないか。
"マークの為"と言い訳をしながらこうして埋められない溝を作ってしまったのは、自分自身なのも分かっているだろ?
「─っ、マーク!?」
壁を作るみたいに向けた背中から、影を呑むように下げた帽子を奪われてしまった。
咄嗟に奪い取った腕を見やれば、真剣な眼差しと交差してしまう。
あぁ、しまった。
「ジェイク」
「…返せ」
「嫌だ」
「マーク!」
「黙れ!」
キン、と響く怒号。
声音に乗る怒りは本音だけを語っていた。
どうして今に限って敷いた線を超えてくるんだ。
「…頼むから、話を聞いてくれ」
縋るような声音が波立つ感情を宥める。
今にも泣いてしまいそうなマークで、そんな風に言われたら聞かないなんて選択肢は消えてしまう。
卑怯だと、咎める事すら許されないくらい。
「俺は、お前に謝らないといけない。全部お前に押し付けて見ないふりをしてきたんだ、本当に自分勝手で申し訳ないと思ってる」
仕方のないことで、他に選んでいられる余裕もなかったのに、そんなことをぽつりぽつりと悔やむ。如何に自身が保身的で、無責任で、加虐的かを語っていた。
そんなこと、何でもないのにな。
オレはそれが自分の存在理由だと思っているし、役割だと認識しているからそれで構わないんだ。
ただこうして強く芽生えた自我が、強欲にも虚しくその眼差しを求めてしまっているにすぎない。勝手に求めて、勝手に傷ついてるだけ。お前は何ひとつ悪くないんだ。
「…だから、」
「…マーク」
「俺はお前に、」
「マーク」
「許されないだろうが、」
「マーク。」
もういい。そう告げるように強く抱き締めて、自分でも驚くほどに熱い体温を渡した。
もう自分を責めるのはやめよう。
オレも、自分に嘘を吐くのはやめるから。
「ジェイク」
「悪いと思ってるのは充分に伝わった」
「悪かった。本当に、すまない」
「もういいって。オレも悪かったよ。ちょっと拗ねてただけだ、お前は悪くない」
互いに引き合っていた線は曖昧になって、もう分からなくなってしまった。
割れた崖先みたいだった溝も、隙間なく埋められたように思える。
なんだか温かな熱にあてられた感覚で、今なら本音を形にできる気がした。
「なぁマーク。一つ、頼んでもいいか?」
「なんだ?」
「オレを愛してくれるか?」
むず痒くなる言葉でも、これが一番正しい表現なんだ。
"愛してほしい"
ジェイクロックリーの願いは、ただそれだけ。
「上等だ。お前が嫌ってなるほど愛してやる」
「ハハ、頼もしいな。なら、愛せるだけ愛してみろ」
肌を突き刺す冷えた空気は、いつの間にか心を満たす温かさに変わっていた。
愛せるものなら、愛してみせてくれ。