黒の救済「望美、そこは反対よ。 大丈夫、針を通しきってないもの、ゆっくり引き抜いて。 ……そう」
朔の説明を受けながら、縫い物をしているのは望美だ。
運針する手はたどたどしく、見ている朔が内心はらはらとしている。
それでも朔は代わろうかとは言わないと決め込んでいるし、望美も諦める気配はない。
手にしている黒布はただの布切れではない。
弁慶の外套だ。
ーーー話は昼間に遡る。
望美たち一行は熊野を目指し山中を歩いていた。
初夏にかかり始める時期。
物見遊山にはよいが、殆ど変わらない景色の中黙々と歩き続けていることにやや辟易とし始めていた。
何処か休めそうなところがあれば一旦休憩にしようと決めれば、やや活力が戻ったようだった。
周囲への注意を霧散させない程度に、弁慶は地面へ視線を向けた。
これはもう癖のようなもので、何か薬草になるものがあればと手持ちを頭で列挙させた。
そうして歩いていると、僅かな地割れがあった。
雑草に紛れているがその罅は細く波打っている。
(あまり強い地盤ではないな)
そういえば明け方に、強い雨が降っていた。
滑落や落石するかもしれない。
頭上にも気をつけなければならないが、気になるのはその罅の先だ。
さっと仲間に視線を走らせ、その罅の外側にいる望美に大股で近づいた。
「望美さん、もう少しこちらへ」
「えっ」
肩を引き寄せ、望美と弁慶の位置が入れ替わった。
「!」
途端、罅が入った地面が落ち、足を滑らせてしまった。
思うより早く体が斜面目掛けて落ちていった。
「弁慶さん!」
「な……っ」
手を掴んだ望美が地面から一緒に落ちていることを認識したのは、手を伸ばした朔を反対側へ引き寄せる景時の姿が、空中で舞う望美の髪越しに見えた瞬間だった。
弁慶は咄嗟に望美を引き寄せ、外套と弁慶自身で庇えるよう強く抱きしめた。
手に持っていた薙刀を突き刺し、斜面に足をつけ衝撃を殺しながら、だが何度か均衡を崩し地面に肩や背中を打ち付けながら落ちていった。
土中の石に引っかかったのか、強い手応えに思わず薙刀を離してしまった。
斜面に沿って滑落していたが、その反動で体が投げ出される。
「っ!」
幸いそこからの高さはあまり無く、すぐに落下は止まった。
仰向けで望美を抱きしめたまま、先程より視界の狭まった空を見る。
肩を強かに打ち付けただけで済んでいるのは僥倖だろう。
あとは途中で布を裂く甲高い音が聞こえていた。想定の範囲内だ。
ゆっくりと息を吐く。
腕の中の望美も浅い呼吸を繰り返していることを確認する。
「望美さん…大丈夫ですか」
「だいじょうぶです…」
望美の背中を支えながら弁慶は体を起こした。
「弁、」
「君に怪我がなくて良かった」
望美の言葉を遮って、それに気づかない振りをする。
「ああ、髪に泥がついてしまいましたね」
弁慶は望美の髪を指で梳る。
「ま、待って、弁慶さんの方が」
外套にべったりとついた泥や、どこかにひっかけたのか手の甲に擦り傷があった。
「弁慶さん、手……! 他に怪我は」
「君こそ怪我は? 痛いところはありませんか?」
「………っ」
元々怪我は日常茶飯事。
傷の一つや二つ、一顧だに値しない。
それは本当なのに、望美は納得するどころか更に顔を険しくした。
「弁慶さんが自分を大切にしてくれないなら、こんな髪くらい切り落としますよ」
「……困ったな。そんなつもりじゃないんですけど」
困ったように笑う弁慶に、戸惑ったように望美の眉がぎゅっと寄った。
「弁慶! 望美!」
弁慶と望美の間に流れる不穏な空気に割るように九郎の声が聞こえた。
次いで、朔や譲たちがそれぞれ呼んで無事を確かめる。
「今日は大事を取ったほうがいいな」
弁慶の薙刀を引き抜いてきたリズヴァーンの一声で、それは決まった。
弁慶は大丈夫だと言い張ったが、リズヴァーンの意見に賛同するのが圧倒的多数。
今日の進行は止め、早々に宿を取ることとなった。
尚不服そうな男性陣が弁慶を布団に叩き込まれている。
あんなに立場の弱い弁慶は初めてだと、朔はひそりと口角を上げる。
荷物の整理を終え望美の姿が見えず探していた朔は、宿の裏でその姿を見つけた。
「望美?」
「朔」
望美自身の洗濯物か…と思いきや、見慣れた黒い布が桶の中を泳いでいた。
何度か桶の水を変えた後なのだろう、辺りは水が散っており、桶の中の水も随分綺麗になっていた。
「弁慶殿の外套ね」
「………私を庇ったときに汚れて破れちゃったの」
ああ、と朔は察した。
見つけたときに不機嫌そうだと思った背中の印象は間違っていなかった。
気づかない振りをして、そうなのね、と相槌を打って望美の隣にしゃがみ込んだ。
話して発散できる種類のものなら、望美はもう!といいながら怒っている筈だ。
「望美に怪我がなくて良かったわ」
「でも」
「弁慶殿も一先ず大したことはなさそうよ。普通ならむち打ちにもなりそうだけれど……弁慶殿なら大丈夫じゃないかしら」
「………」
ほっとしたようだが、望美はまだ怒っているようだ。
思わず小さく首を傾げる。
さらりと馬酔木の飾りが鳴った。
(………弁慶殿が好きなのかしら)
望美の気持ちを探ろうと、頬杖をついてその横顔を見つめてみる。
けれどいまだぷりぷりと怒っている望美からは気持ちを読み取ることが出来なくて。
(仕方ないわね)
「ねえ望美。貴女が良ければだけれど」
裂けたところ、貴女が繕ってみる?
その言葉に朔を見、次いでじとりと外套に目を落としたまま、望美は小さく頷いた。
弁慶に何か言いたいことがあるのだろう。
自分たちが望美たちのところに辿り着いたとき、会話まで聞こえなかったが雰囲気がよくなかった。
あの時は心配でそれどころではなかったが。
(内容は……察しはつくわ)
仕方のないひとたちね、と口には出さない。
顔の横から流れていきそうな望美の髪を指先で留める。
お礼を言った望美は桶から外套を引き上げ、鬱憤をぶつけるように思い切り絞った。
思っていたよりも時間がかかってしまった。
月は中天に差し掛かる。
欠けた月がこれから沈んでいく頃、望美は廊下をそろそろと歩いていた。
この時間になったのは、外套が乾くのを待っていたからだ。そもそも縫い始めたのが始めたのが遅かったのもある。
付き合ってくれた朔にも明日にしたら、と言われた。
けれど、一度弁慶に割り当てられた部屋を確認して、灯りがなければ朝にしようと思い、部屋のほうへと向かう。
「ーーー弁慶さん、起きてるんですか?」
「望美さん?……ええ、起きてますよ」
そろそろと板戸を開けると、灯りを頼りに巻物を読んでいた弁慶と目が合った。
どきり、と心臓が音を立てる。
これはときめきだとかそういうものではなく、これから一言彼に言ってやろうと思っている所為だ。
「………あの、これ」
「洗ってくださったんですね。ありがとうございます」
外套を受け取ろうと手を伸ばした弁慶の手から、望美はすいとそれを遠ざけた。
「望美さん?」
「どうしてあの時私の手を振り払ったんですか」
やはり気づいていたのか。
酷いとでも言いたげな責めるような声音が、深くない傷口にやけに沁みた。
「では聞きますが、どうして君は僕の腕を掴んだんですか」
声に出してから、思っていたより棘があると思った。
一瞬怯んだ望美は、それでもぐ、と握った手に力を込めた。
「やっぱり振り払ったんですね」
弁慶は内心で舌打ちをした。
引き際を間違えた。
望美の性格を考えれば、望美の勘違いだと言いくるめるべきだった。
真っ直ぐこちらを見てくる瞳を逸らしたくなった。
「……望美さん。 貴女は白龍の神子で、僕は八葉です。 君を守るためにいるんですよ。
戦場に出しておいてと思うかもしれませんが、貴女には怪我のひとつだってして欲しくない」
「私だって弁慶さんに怪我してほしくない」
半ば遮るように、望美は強く言った。
「………」
「………」
分かっている。
後ろめたかったのだ。
その後ろめたさを隠したくて、責めるような口調になった自覚はあるから思わず溜息とともに目を逸らした。
崖下で腕の中の望美と目が合った時、泣きそうな顔をしたから。
望美でなければ、落ちたことが怖かったのだと思っただろう。
望美でなければーーー落ちる弁慶に躊躇いもなく手を伸ばさなかっただろう。
「ちゃんと助けたかったのに……間に合わなくて…」
(………ん?)
その言葉に違和感があって、思わず望美を見た。
今の今まで、咄嗟に手を伸ばしたのだろうと思っていたのだが。
「………望美さん、貴女あの時僕を引き戻すつもりだったんですか?」
「そうですよ。 ………失敗しましたけど」
僅かな灯りに照らされた彼女は、影のせいだろうか、昼間よりも頼りなく見えた。
その印象と行動が噛み合わなくて、思わず破顔した。
「ふ………ふふ……っ」
「ちょっと!」
「無茶を考えますね。 知っていたけれど……はは、想定外だな」
「なっ、で、出来ます!」
「一緒に落ちたじゃないですか」
「次は出来ます。絶対に」
「………困ったな」
八葉がそう何度も神子に守られるのも如何なものか。
そうでなくとも弁慶にだって腕に覚えはあり、強くとも望美は女性なのだ。
だがここで譲らずにいても平行線だろう。
そう思うくらいには望美のことを知らないわけではない。
「ではそうならないよう善処します。………外套、洗ってくれたんですね」
「………」
気まずそうに該当を差し出す望美を不思議に思って、受け取った外套を改める。
と、すぐにその理由がわかった。
「破れたところ、縫ってくれたんですね」
お世辞でなんとか綺麗ですよと言える縫い目。
よくよく見ればぽつぽつと指先に赤い点がある。
その視線に気づいたのか、望美は慌てて指を握りこんだ。
「やっぱり不細工ですよね。 解いて朔にお願いしてきます」
「いいえ、そのままで」
外套を取り返そうとする望美の手に、弁慶は手を重ねた。
「確かに少し不揃いな縫い目ですけど」
「だ、だから」
「それでも僕は、貴女が縫ってくれたこの外套がいいです」
少し引っ張ってみる。
見た目以上にしっかりと縫われているようだった。
「ありがとうございます」
「………」
若草の、まんまるな瞳が嬉しそうにとける。
「弁慶さん」
「はい」
「助けてくれてありがとうございます」
ーーー今思えば、やはり何か縁が欲しかったのかもしれない。
ばたん!
暴力的な風に外套が宙で叩かれ、一層重く大きい音が鳴る。
意識が唐突に浮き上がった。
視界に白い闇と、次いで赤が飛び込む。
一瞬意識を失いかけていた。
絶望を告げる白と、終焉を示す赤の中で、はためく黒に夏の日のことを思い出す。
それだけでよかった。
胸を張れない人生だったけれど、最低限の責任とそれなりに意義があったと思えた。
誰よりも綺麗な彼女を好きになれて、今度こそ、上手く手を振り払えた。
振り払えた筈だったのに。
「弁慶さん!」
また、泣きそうな顔。
今度はあんな小さな崖どころではないのに。
また腕を掴んでくれることが嬉しいなんて。
外套も、弁慶自身ももうぼろ切れのようになってる。
紫苑の花びらの如く宙に舞う髪。
こちらに向かって伸ばされた細腕。
引き戻してみせると、大真面目に言った望美の瞳。
今度はもう逸らせはしなかった。
現在と過去が混じり融け、吹雪く。
絶対助けると言い切る望美を、内心無茶だと笑った自分を嗤う。
歪な縫い目は、そこだけは、今も確りと。