断末魔の追憶幼い頃から、其れらは当たり前に千歳の傍に在った。
二足歩行をする兎。
烏帽子を被った猫。
人の言葉を流暢に操る鳥。
動物ではなく靄のようなものだったり、小さな鬼もあった。
ただ彼らは千歳に対して基本的には友好的で、危害を加えるようなこともなかった。
板間のささくれを教えてくれたり、明日の天気を教えてくれたり。
報酬変わりに厨から小さいモノたちが食べる食料をくすねる程度。
専らたわいもない話をすることが多かった。
「そんなモノ、視えるだなんて決して人に言ってはいけませんからね!」
両親も、世話をしてくれている女房たちも、口を揃えて怖い顔をしてそう言った。
「どうして」と尋ねると、返ってきた言葉は悲しくなるようなものだった。
「恐ろしい」
「気味が悪い」
―――そんな言葉を言われ、傷ついている千歳を心配そうに見上げてくる彼らのほうが、余程人間味があるように見えた。
それが繰り返されるうちに、千歳は視えざるものが視えると言うことを辞めた。
それまでも態々吹聴したこともないが、意識的に口を噤んだ。
最初は苦労をした。
千歳にとって当たり前に見えているものが、家族を含め他の人にはそうではない。
最初はその基準がなくて、彼らと話をするときは慎重に周囲を確認した。
両親の考え方に同意をしたつもりは無いが、やはり両親に心配をかけることは本意ではない。
この件に関して以外は、大切に育てられた自覚はある。
それに、千歳が気落ちしているとやはり小さな彼らも心配をするのだ。
そう割り切ることができたのも、兄の存在もあった。
「あの人たちはお前が可愛いんだよ。 要らない苦労させたくないんだろう」
「でも」
一頻り話を聞いたあと、あやすように少し乱暴に頭を撫でる。
この手が好きだった。
「もう、あにうえ!」
髪が乱れてしまう、と本気ではない抗議に勝真は笑って応える。
「勝真ー! おっ千歳もいるじゃん!」
「ようイサト」
布にくるんだ何かを抱えて、イサトは軽快に走りながらやってきた。
「いいもんあるんだぜ!」
そう言ってイサトが得意げに見せたのは木通だった。
「お前また寺に生えてるヤツ取ってきたのかよ」
「いーだろ別に。 勝真が食わねえなら千歳と分けるからな」
「ばーか。 食べるに決まってるだろ」
「ふふ」
子供の頃の、三人でいた頃の記憶が一番幸せだったと思う。
昼には真っ白だった太陽が茜になり西に沈みかけた頃。
普段は余り大きく声を立てない妖が数匹、転げるように千歳の部屋へ姿を現した。
『チトセ! たイヘんたいへン!』
『町が燃えル』
『カツザネも燃えル』
『ぜーんぶハイになっちゃウ』
口々に聞こえる不吉な科白が千歳の頭を殴った。
「え……?」
カツザネ。兄が。
急いで部屋を出ると、妖たちが指す方角から黒煙が上がるのが見えた。
さあっと全身の血が失われたように目の前が真っ暗になった。
まさか。
「あそこに兄上が……?」
―――リン
混乱した千歳の耳に、その涼やかな音がやけに耳についた。
チカ
呼応するように、何かが閃いたように見えた。
「ひ………ッ」
鱗だ。
そう思った瞬間、巨大な蛇かと生理的嫌悪感を感じて思わず悲鳴をあげかけた。
≪神子≫
優しい重低音の声。
単語として認識できる言葉が聞こえると思わず、混乱しかけていた感情が少し落ち着いた。
ゆっくりと目を開く。
気付けば墨をぶちまけたような、漆黒があたりに広がっている。
「りゅ……う?」
無感情に見える目も、大きな口も恐ろしい筈なのに、黒い龍だと気づくと恐怖心が霧散した。
≪汝が我が選んだ神子。 ―――黒龍の神子≫
こくりゅう。
≪八葉を救え≫
「はちよう」
聞いたことのない単語だった。
水を水瓶に注ぐが如く、何故か兄とイサトの顔が浮かんだ。
「………っ」
震える足で、はしたないとわかっていても走り出した。
渡殿を走る千歳に目を丸くする女房たちを無視して、父母がいる部屋へと向かった。
「父上! 大変です、兄上が……っ兄上とイサトが火事に巻き込まれます!」
「勝真とイサトが?」
尋常でない千歳の様子と科白に、さっと父の顔が強ばった。
一瞬逡巡して、すっと視線を厳しいものにした。
「千歳。 なぜそんなことを知っている」
「………ッ」
どう、答えよう。
父母は自分のこの力を嫌っている。
答えによっては兄の命が助からないかもしれない。
だがすぐに答えられなかったことで、両親からの視線はより厳しくなった。
顔を見なくてもその視線が痛い。
どうしよう。
どうしようどうしよう。
「………おね、がいです。助けてください……!」
それしか、言えなかった。
七歳の千歳にはそれ以上どう伝えていいかわからなかった。
未来永劫失ってしまうことだけは耐えられない。
いやだ、死なないで。
ガタガタと震えるばかりで、父を納得させられる言葉が思いつかない。
代わりに精一杯父を見つめる。
涙がたまる。ぼやける。
一度ぎゅっと目を瞑ってみると、冷たい涙がころころと落ちた。
は、と強い溜息が聞こえた。
「武士団を派遣させよう」
「!」
その言葉にほっとした。
これできっと大丈夫。
手配のため部屋を出て行く父に頭をさげ、どうか間に合ってほしいと心から祈った。
そうして兄は助けられた。
………兄だけ、助けられた。
イサトが無事だと聞いたのは、夜が明けて憎いほど眩しい朝が来て、太陽が中天を過ぎてからだった。
勝真が火傷を負いながらも「戻って他の人を助けてくれ」と声が枯れるまで叫んだが、聞き入れてくれる大人はいなかった。
身体は大きな怪我もなく五体満足で帰ってきた兄は、そのことに負い目を感じていることはすぐに気づいた。
けれどもやはり兄は喪えないし、生きていて良かったと心から思う。
だがこの一件が切っ掛けで、勝真とイサトと千歳は滅多に顔をあわせなくなった。
それでも。
兄が生きていてよかった。
ふたりが生きていて本当によかった。
異形は「視えなくて」いい。
何も「聞こえなくて」いい。
彼らが生きていてよかったと思う心だけは、どうしても譲れなかった。
それが千歳の、七歳の記憶。
幸せなこどもの時間の終わりの記憶。
例えば炎のような夕焼け。
例えばあの日、千歳に火事を知らせた妖。
例えば三人で食べた木通。
そういうものを見るたび、泣いてしまいたくなるような思いに駆られる。
感情に蓋をして、何もない振りをした。
何度も何度も繰り返しているうちに、いつしか摩滅していってしまった。
貴族の娘としての教育を受けながら、千歳は育った。
京には末法思想が重く圧し掛かっている。
ある夜。
―――リン
夜中、就寝していた千歳は、極々小さなその鈴の音ですんなりと目が覚めた。
見慣れた自室ではなく、夜着のまま真暗闇の只中に立っていた。
―――リン
「! いた……っ」
もうひと度音がなると頭痛に気付いた。
脈打つように痛む頭を堪えてあたりを見渡すが、墨の中に落ちたように黒しか見えなかった。
白い夜着が見えなければ、自分が目を開けているかもわからない。
千歳が今まで見てきた異形のものたちで、こんなことができる力を持ったものはいない。
「だれ……?」
『黒龍の神子』
低い、どこか甘さを感じる男の声だった。
誰、ともう一度誰何しようとすると、黒墨から男が現れた。
金の髪と、不思議な仮面。
『お前に危害を加えるつもりはない。 お前を助けるために来たのだ』
甘やかに響く。
声も、言葉も。
『この京は破滅へと向かっている』
「………っ」
息が詰まった。
貴族が巻き込まれ死んだ暴徒の話や、千歳自身体感している地震。
女房や、ひとりきりのときに妖から聞いた話を思い出す。
それが「破滅」という恐ろしい言葉で色塗られた。
けれど。
「私は……何もできないもの」
視るだけ、聞くだけ。
気味悪がられておしまい。
あの火事の日の記憶が蘇る。
助けたかったものを沢山取り零してしまった絶望感。
『出来るとも。お前は<黒龍の神子>なのだから』
黒龍の神子。
「あ―――」
あの日視た、黒曜石を纏ったような美しい龍。
言われて思い出した。
何故忘れていたのだろう。
『黒龍の力を使って、破滅への時間を留めればよいのだ』
「………留める?」
今この時を留めることができたなら、少なくとも破滅へは向かわない。
滅びを止めることはできなくても―――留められる。
気付いた瞬間肌が粟立った。
(守りたい)
今度こそ、兄だけじゃなく、多くの人を。
―――誰かの力を借りるだけではなく、自分の力で。
「どうすればいいの?お願い、教えて」
≪力を貸そう。 お前にいない八葉の代わりに≫
(八葉……?)
聞き覚えがある単語。
どこかはもう忘れてしまった。
今度こそ。
≪京を≫
お願い。京を救いたい。
≪京を―――せ≫
―――リン
再び鈴の音が聞こえると、千歳は自室にいて昨晩眠った時と同じ状態だった。
「姫様、お目覚めですか」
御簾の向こうから女房の声が聞こえた。
視界は茫洋としているが、思考ははっきりとしていた。
(………出なくちゃ)
ここから。
この鳥籠のようなところから。
支度をして、すぐに両親のいる母屋へと向かった。
龍神の神子に選ばれたと伝えれば、きっとこの邸から出られる。
そしてその思惑は正解だった。
千歳が龍神の神子に選ばれたことはすぐに両親に伝わり、滅亡の中で一条の光として瞬く間に帝や院へと伝わった。
可視化出来ない不安に対して、『伝承の龍神の神子』の効果は絶大だった。
御伽噺程度には知られていて、正確な情報は少ない。
どうせ滅びゆくのなら、少しでも不安を取り除きたい。
人である限り、不安は長く抱えていられない。
「ふざけるな!」
そして勝真が知るところになるころには、院の元で昼も夜もなく祈りを捧げることが殆ど決まっていた。
「今まで千歳が何か視えると言っても取り合って来なかっただろ!」
それは、と小さく呟いて言い淀む。
その話を否定することも莫迦にすることもなく、聞いてくれていたのは家族で唯一次兄だけだ。
それが今更信じるようになった理由なんて。
「これが切っ掛けで院か帝の側室にでもなれば、この家は……私もお前も安泰だ」
理由なんて、わかっていた。
彼らにとって千歳が実際に龍神の神子かどうか、真偽なんてどうでもいいのだ。
わかってはいたが、ほんの少し胸が痛んだ。
少しでいいから、自分が離れることを惜しんで欲しかったと思うのは、今は贅沢だったとよくわかるのに。
ずっと信じて貰えなかった<力>が、こんなことであっさりと信じられたことにも、もう自嘲するしかなかった。
けれど。
「………っ」
勝真が怒りのあまり息を呑む音が聞こえた。
「千歳を……っ娘を何だと思ってるんだ!」
勝真の怒号が響く。
本気で怒っている。
幼い頃は、怒っていても余裕があった。
兄がここまで怒ったのは、あの大火の時以来だと思う。
本気で怒ってくれて、いるのだ。
泣きそうになるのを堪えて、呼吸を整える。
今度は泣かずに済んだ。
あの大火の日とは違う。
決めたのは、自分だから。
「兄上」
「! 千歳。 お前は下がっていろ」
「いえ。 いいえ。 父上、兄上。 私は院の御所へ参ります」
「な」
「おお、おおそうか、行ってくれるか」
信じられない、と目を丸くした兄の視線から逃れるように、千歳は顔を伏せた。
そもそも、貴族の娘に生まれたのだ。
不自由の少ない生活と引き換えに、人生が決められている。
親が決めるか、龍神が決めるか。
それなら、誰が決めるか位決めてもいいのではないだろうか。
(守りたい。 今度こそ、ちゃんと)
自分で守ることが出来るなら、その《範囲》は自分で決められる。
怖くないわけではない。
視えるだけの自分が何かをすることへの恐怖は、ずっと背中にひたひたと張り付いている。
久しぶりに兄の傍に立つと、こんなに背が高かったかと気づいた。
最後に兄の顔を見ようと見上げたが、見慣れない位置にある勝真の顔は想像通り怒っているようだった。
(でも、兄上)
ゆっくりと瞼を伏せる。
(今度こそ、必ず)
あの火事で喪われた命はもう戻らなけれど、出来るだけすり抜けていかないように。
この京に、ひとが、命が、心が留まりますように。
―――リン
どこかが痛む。
頭の奥か、胸の奥か。