Naked storyとうとうこの日が来てしまった。
煌びやかなシャンデリアや、ヒールを傷つけることのないやわらかな絨毯。
それらの怜の目を刺すような光は、蟻地獄のように思えた。
今日は自分の結婚式だ。
日にちが決まってから、気分が晴れた日は一日だってない。
婚約者(正確には今日から夫となるが)のことは生理的に無理とまで言わないが、決して好きではない。
鏡で自分の顔を見る。
酷い顔色をしている。
ヴェールもドレスも哀れなほどに。
挨拶にきた参列者たちはみんな「綺麗」と言っていたが、本心なら何を見ていたのだろう。
(私自身でないことは確かね)
いつだったか、オケで演奏したことをきっかけに、ブライダルフェアでモデルの代わりをした彼女たちのほうがよほど幸せそうな顔をしていた。
スタッフに促されて、チャペルへ向かう。
指示された通りに歩いて、新郎の元へといく。
ドレスが足枷の如く重い。
耳を滑っていく音楽に遠慮するような音で扉が閉まる。
学生の時に所属していたスタオケのメンバーは誰も呼ばなかった。
勿論朝日奈も。
祝ってほしいと思えなかった。
彼女らから―――彼女から、この結婚に「おめでとう」なんて言われたくなかった。
ずっとずっと、彼女の『香坂怜』でいたい。
そう願うのに、周囲の期待を裏切ってこの結婚を嫌だと叫ぶこともできない。
そうやって生きてきたから、ひとりでどう叫んでいいのかもわからない。
式は順調に進行していく。
だからせめて彼女の記憶の中だけでも、『香坂怜』でいられたらそれでいい。
それでいいと彼女を憶いながら、未練が擡げる。
指輪が嵌められてしまえば、学生の頃のあの日のように取ってもらうことは、もう出来ない。
振り払ってしまいたい衝動を堪え、目を閉じる。
小説のように、或いは漫画のように、或いは映画のように。
或いは御伽噺のように。
(もう閉じられてしまった扉が開いて)
歩きながら、ありもしない空想に口角が上がる。
(名前を呼んで。手を取って私を連れ出して)
不意にがちゃん、と背後から音が聞こえた。
思わず閉じた瞼を開いた。
願望にしては鮮明な音。
「香坂先輩!」
それよりもはるかに鮮烈な声。
「コンミス……?」
参列者に紛れ込むためか、コンサートのときに着ていた赤い太陽の色をしたドレスの朝日奈がいた。
会場内がどよめく。
それ以上に心臓が耳元に移動したように、早い鼓動が五月蠅いほど鳴る。
よくよく会場を見回せば、呼んでいない筈のスタオケのメンバーがいる。
「どうして……」
ドレスもジュエリーも会場の装飾も何もかもが憂鬱で、周りを見ないようにしていたから気付かなかった。
見ていなかったのは、自分も一緒だ。
「先輩!」
はっと顔をあげる。
いつかの、指輪を取れた時と同じ笑顔だ。
どこまでも健全で、泣きたくなるほど眩しい。
「先輩、私と逃げましょう!」
その眩しさのまま、力強く笑って手を差し出してくれる。
「あ―――」
状況が呑み込めていないのに、あっという間に心が決まった。
ヴェールを乱暴に剥ぎ取る。
彼女のもとへ行くのに、こんなもの邪魔なだけだ。
ぷちぷちと何本か髪が千切れる音がしたが構わない。
「怜!」
「ごめんなさいね」
今まで彼に向けた笑顔で、今が一番きれいに笑えた気がする。
取ったベールを彼に投げつけ、つま先の方向を変えた。
「待っ……!」
制止する声が飛ぶ。
そんなもの、もうなんの鎖にもならない。
彼と、参列しているひとたちの顔と名前をもう忘れていいのだと思うと爽快で。
「朝日奈さん!」
「香坂先輩っ」
朝日奈の胸に飛び込むように抱き着くと、瞬きの間だけ抱きしめ返してくれた。
すぐに手を取って、扉を抜けて世界が広がる。
朝日奈が連れ出してくれた世界。
チャペルに入った時は色を無くして見えていたのに、魔法にかかったように鮮やかになった。
アスファルトを叩くヒールは、視えないけれど傷だらけだろう。
脚にドレスが絡むたび、ドレープを手の中いっぱいに搔き集める。
ドレスが重いけれど、朝日奈が掴んでくれた手を離したくない。
引いてくれる細い腕がいとしくて、頼もしくて。
「ここで少し隠れましょう!」
式場に併設された薔薇園だった。
今は残念ながら時期ではないけれど、だからこそ人もおらずウェディングドレス姿の怜が衆目を集めることもない。
息が上がったまま、目が合う。
へにゃりと笑ってくれる。
嗚呼。
どうして知っていたのとか、何故連れ出してくれたのとか、聞きたいことは沢山ある。
なのにそんなことは言葉にならなくて。
「朝日奈さん、私、」
形を持っていない言葉だけが浮かんでくる。
呼吸に喘ぐように、もどかしく口を動かす。
どうか受け止めてほしい。
だって心を動かしたのは貴女なのだから。
息は落ち着いたのに、心臓が甘く怜を叩く。
「わたし、―――」
握りっぱなしだった手をもう少し強く握り返した。
天井。
「―――」
朝日奈の手を握っていた手は、布団の中でぎゅうっと握りこまれているだけだった。
布団から出した手は、勿論何も握っていない。
強張った手をほぐしながら掌を開く。
窓から差し込んだ朝陽が指の隙間から零れるのが見えた。
夢が夢で残念な気持ちと、まだ彼女らと演奏していられる時間がある幸福が混ざって、ほんの少し幸福が勝った。
優しい色が現実を染め上げていく。
昨日よりも今朝は少し寒い。
もっと寒くなって、またあたたかくなるころ、私は。
………今はやめよう。
窓に近づいて観音開きの扉をあける。
吹き込んでくる風は布団から出たばかりの体に沁みるが、何かを羽織って寒さを認める気にもならなかった。
「いい朝ね」
口に出してみる。
太陽でじんわりと体温を取り戻していく。
いい日になりそうな気がしてきた。
今日は彼女とどんな話が出来るだろうか。
どんな演奏が出来るだろうか。
私の御伽噺の顛末が、たとえ夢とは違っていても。
どうか彼女の夢だけは、必ず叶いますように。
『朝日奈さん、私、』
「――—」
夢の続きを呟いて、朝日奈の手を握っていた掌に唇を音もなく押しあてる。
(少し名残惜しいけれど)
夢の残滓が残る夜着を脱ぐ。
はらりと髪が一本、落ちていった。