使用人ガノリン「お時間です、ガノンドロフ様」
高すぎない、心地良い低さの柔らかな声が、七年前からこの城の主となった男の部屋に響く。見事な金髪を上品に結い上げ、立襟の淡いグリーンのドレスの上に装飾の無い白のエプロンを身にまとった、若い使用人だった。質の良い飴色の木で出来た机の前で、紙の束を手に眉間に皺を寄せていた男は、その使用人の姿を認めるといささか表情をやわらげた。もうそんな時間か、と呟き、はい、と答えた使用人が引いていくカーテンに隠れる空を見る。太陽は既に地平線へと沈み、赤く染った空を白い月がゆっくりと光を纏っていく。昼と夜の境目、光と闇が交わるところ。黄昏の切なく美しい時間は、いつ見てもガノンドロフの心をざわめかせる。
「今宵は遅くから雨が降るそうです」
「そうか、冷えぬようにしろ」
「はい」
ワゴンに乗せられた食事の準備を進める使用人に、かつてこの城がハイラル王のものであった頃のガノンドロフを知る者であれば、驚くほど穏やかな声と言葉がかけられる。使用人は慣れた手つきで主人の食事の用意を終えると、一礼して退室する。ガノンドロフは、貴人、要人であれば当たり前である毒味を介さず、用意された食事に手をつける。元より高い魔力は、欠片といえども神の力によって更に高まり、それは大概の毒を無力化してしまう。それでも、当初は適当な者を見繕い、反逆の芽をを探るという意味合いでも毒味をさせていたのだ。もちろん、先程の使用人にも。
リンク、という名の使用人は、二年ほど前から城へとやってきた。ハイリア人だが両親を赤子の頃に亡くし人里離れた田舎で育ち、城の警備をさせている魔物にいちいち怯えることのない彼女は、ガノンドロフの気に入りとなった。それこそ、身の回りの世話を任せるようになるまでに。なんでも、養父が亡くなり田舎から出てきた彼女は、縁あってかつてあった王家の使用人をしていたという老婆と知り合い、使用人としての基礎を教わったという。ガノンドロフにとって、使用人として使える者であれば女だろうが男だろうが、人であろうが魔物であろうが同価値であった。意のままに動くがそれ以上のことはしない、所謂、痒いところに手が届かない魔物は、使い勝手は良いがそれまでである。その点、リンクは実に有能な使用人であった。初めの頃こそ不慣れさが目立った彼女であるが、物事の飲み込みと吸収の早さは目を見張るものがあり、ひと月も経てば一人前とも呼べる使用人となった。
冷えた水を口に含み、ゆっくりと味わい、飲み干す。水の一滴が貴重な故郷で過ごしていた頃からの、ガノンドロフの習慣である。この国を手に入れたいと思った元々のきっかけとは、故郷では乏しく、この国では豊かな緑と水のためであったと、今もなお忘れてはいない。ただし、穏やかにことを進める術を選ばず、もしくは選べず、奪うことしかできなかった己は、今更故郷の為などとは口に出来ぬと思っていた。欲しいものを手にする為に、本心を隠し、牙も爪も隠し、嘘と欺瞞を纏って過ごしてきた。他者を欺き、中枢まで入り込んで機を窺うことに、罪悪感など無い。清廉潔白を装うハイラル王家、貴族に友好国、権力を持つ者たちにとって、駆け引きという名の騙し合いなど日常のすぐ側にあるものである。息をするように嘘をつき、無害な笑みの下に毒の刃を潜ませる。いちいち良心の呵責などしてはいられない。それこそが国の中枢、権力の座に在る者としての当たり前であるからだ。ガノンドロフが狡猾であり、特別忍耐強くあったのは事実ではあるが、それと同じくらいには、彼が身を投じた世界も悪意に満ちていたのである。
そうして暗い世界で息を潜めていたガノンドロフは、光の匂いには敏感だった。今、その匂いを強く感じるのは、取り逃してから姿を消した姫ではなく、先程の使用人のリンクであった。よく言えば純朴、悪く言えば世間知らずな所がある彼女は、傍に置くようになってからどこか痛みを感じているような表情を見せるようになった。本人は上手く誤魔化していると思っているようだが、ガノンドロフは些細な変化を見逃すような男ではない。彼女の感じている痛みとは罪悪感であると、的確に探り当てていた。
初めて彼女を見た時、まさかとは思うがゼルダ姫ではあるまいなと勘ぐった。しかし、その疑いもすぐに晴れた。王家の人間にしてはというより、そもそも心の内を隠すことが下手すぎるリンクは、正真正銘、職を探して田舎から出てきた娘なのだとため息をついたのだ。そんなリンクが罪悪感を感じているなど、何か隠し事をしているか、己を欺いているかのどちらかか、そのどちらもかと、ガノンドロフは空になったグラスを眺める。リンクから香る光の匂いは、ここ数日で香り始め、強くなっている。己とは程遠いと思っていた、穏やかで愛おしい日々。いっそ永遠に続けばいいと儚く夢見ていたが、夢からはいつか目覚めなければならないのだ。朝を告げる鳥を全て殺し尽くしても、リンクと共に太陽の下へは出ていけないと、現実が残酷に語りかける。
空のグラスから、結露した水滴がガノンドロフの指を伝い、膝に落ちる。ぬるくなったひとしずくでも、ガノンドロフの意識を呼び戻すには十分な刺激であった。
眠りにつく前に、リンクの纏うものを剥ぎ取ろう。
窓の外に星が瞬くようになるまで、ガノンドロフはそのままグラスを持ったままでいた。
時は、七年前に遡る。
ハイラル王がガノンドロフによって誅殺され、インパの手によってゼルダがその魔の手を逃れた、その数日後。時の神殿にてひっそりと聖地への道は開かれ、神の力は三つに別れて飛び去った。退魔の剣は選ばれし者に抜かれたが、魔王となったガノンドロフが見たものは、台座の傍に置き去りにされ、まるで眠りについているかのように静かなそれであった。抜いた者が逃げたのかと思いはしたものの、それにしては丁寧に鎮座する剣に、己の敵たる者は、何らかの理由で剣を持たずに立ち去ったのだと結論付ける。果たしてそれは正解であったが、ガノンドロフが真実を知るのはまだ先のことであった。
一方で、その剣を抜いた者は最後のシーカー族たるインパの腕の中にいた。それは少年であり意識はあるものの、体はぐったりと弛緩し、目は虚ろである。その胸元で、相棒の妖精が心配そうに羽根を羽ばたかせているが、少年はゆっくりとした呼吸を繰り返すだけである。
「インパ!」
「ゼルダ様」
とある民家の中へ、インパがするりとその身を滑り込ませると、翠の瞳を心配そうに潤ませた少女が控えめに名を呼んだ。インパは粗末ながら身を休ませるには十分な寝台へと少年を寝かせると、ようやっと人心地ついたと肺の空気を吐き出した。
「リンク、どうしちゃったんだろう。剣を抜いたら倒れちゃったんだよ」
少年の胸から飛び出した妖精が、あたりを忙しなくふわふわと飛び回る。それでも少年はぼんやりとしたままで、覚醒しきっていない、半分夢を見ているような有様である。少女も唇を引き結んだまま、そっと少年の側へと歩み寄ると、だらりと投げ出されたままの片手を己の手で包み込んだ。
「見たところ、命に別状はありません」
「それは良かったけれど、一体彼に何が…」
「剣を抜いたら倒れたとのことですので、彼が話せるようになるまで待つしかありません」
退魔の剣の伝承は王家に伝わっているものの、全ての事柄が詳細に語り継がれてきているわけではない。また、仮に全てが伝わっていようとも、今の時代に生きる者達に、実際に剣を見た者も、それを振るう者を知る者もいないのだ。一説には意思が宿るとされる退魔の剣が、己を振るうに値すると認め、引き抜くことを許した相手に何をしたのかなど、当人でなければわかるはずもない。限界がきたのか、静かに眠りへと落ちていった少年を前に、人間と妖精はただなすすべも無く目覚めを待つことにした。
リンクが目を覚ましたのは、寝台へと運ばれてから半日が経った頃であった。目の前が、坂道を転がり落ちる樽の中にでも入ったかのように回り、頭蓋の中を槌で打たれているような鈍痛が響く。あまりの不快さに吐き気を感じ、口の中へ苦い臭いが込み上げてくるが、大きく呼吸を繰り返すことでなんとか抑える。段々と収まる目眩に少しばかり安堵して、あらためて瞳に映した景色にはて、と首を捻った。
自分は、荘厳な時の神殿の道を開き、その先に鎮座していた退魔の剣を引き抜いたはずであった。途端、雷に打たれたような衝撃が身体を貫き、その手に握りしめていた剣の柄は滑り落ちた。もう一度剣を手にしようと柄を握れども、指が、腕が震え、持ち上がらなかった。そうこうしているうちに、相棒の妖精が口にする自分の身を案じる言葉を聞いたと思った時、腕と言わず全身の力が抜け、糸の切れた操り人形の如くその場に崩れ落ちたのだ。