邂逅▽トンチキ現代パラレル
▽王様が人魚
▽転生してません
▽ぐだキャスギル
「う⌇⌇ん、釣り日和だなぁ」
一人用の手漕ぎの小舟に椅子を置き、両腕を目一杯伸ばして黒髪の青年――藤丸立香は眩しげに空を仰いだ。どこまでも透き通った青い空は白い雲がところどころに浮かび、ゆっくりと風に流されていく。太陽に照らされても暑過ぎず、風の冷たさもなく、人間に最適と思いたくなるような長閑な気候に立香は目を細めて、よし、と呟く。
「よっ、と」
派手なルアーを取りつけた竿を振り、大体の目当ての場所へ投擲する。ルアーはぽちゃんと水の跳ねる音を立てて着水し、沈んでいく。それを眺め、不規則に糸を巻いたり竿を引っ張ったり、水中の魚がルアーに興味を示すよう動かす。まあ、目的は魚を釣ることではないので、そこまで細かく真剣に動かす必要はないのだけれど。こうしていると、頭を悩ませていることだとか、日々の雑事から開放されたようで、気分がいい。この感覚を味わいたくて立香は小舟に椅子を置いて腰かけ、手繰り寄せた当たりのないルアーをもう一度遠くへ放る。ぽちゃんという水の跳ねる音が好きだ。それからすぐ側でした、魚の尾が水面を叩くばしゃんという音も。
――――すぐ側?
「…………?」
立香はリールを回す手を止め、魚の跳ねた音のした方を見遣る。そして、
「ぅわっ」
それと目があって(目があった)思わず竿を放り投げた。船底に落下した竿はガランガランと金属と木の触れあう音を立てる。
「んなっ……な、ひ、人」
立香が驚くのも無理はないだろう。ひと気がないのを確認して竿を振っていたのに、今目の前には人がいる。
それは陽の光を受けて鮮やかに艶めく金色の髪に、血のような真赤な瞳をした、この村に来てから一度も見かけたことのないうつくしい造形の人だった。水面から出ているのは目元までだったが、それでもその顔が整っていることは解るほどの、美形、というのだろうか。こんな人間、村にいれば絶対に覚えている。しかし見覚えがないということは、立香と同じく移住者、それもかなり最近の移住者だろうか。それがなぜ、こんなひと気のない海に浸かっているのか解らないけれど。
「あ、あの! 危ないので、泳ぐなら別の場所にした方が……」
当然だがルアーと共に針がある。それが引っ掛かりでもしたら大事になりかねない。それに、泳ぐだけならもっと広い場所か、砂浜が近いところの方がいいだろう。
と、思ったのだが、その人はざぶ、と波間から口元までを水面から浮かせ、
「――雋エ讒倥√h縺剰ヲ九k鬘斐██縺御ス墓腐縺薙%縺ァ谿コ逕溘r蜒阪¥溘雋エ讒倥′縺昴驥昴↓縺九¢繧九縺ッ謌代豌代█縲█視縺ィ縺励※隕矩℃縺斐███繧」
薄い唇から零れたそれは、およそ声と呼べるものではなかった。キィィン、と耳鳴りのような甲高い音が鼓膜に刺さり立香は咄嗟に耳を手で覆う。なんだ今の声は。声か?口が動いているのだから声だろう、が、ノイズと耳鳴りを同時に鼓膜に叩きつけられたようで立香は思わずよろめく。これは立香の知る言葉ではない。何かを訴えようとしているのは、その真剣な表情から見て取れるのだが、肝心の言葉?が立香には理解できない。
「ご、ごめんなさ、 何、言ってるか……」
「……謇隧ョ縺ッ諢壹°縺ェ莠コ髢薙°縲██┌逶翫↑谿コ逕溘→縺ッ逵溘↓諢壹°縺ェ陦檎█縺縲███d繧√〓縺ョ縺ァ縺█l縺ー窶補」
「っぐ、」
耳鳴りが酷くなる。水面から顔を出したその人の表情からは怒りの感情が見て取れた。言葉は解らないが、自分の何かに怒りを示しているようだった。怒り。何か、この人を怒らせるようなことを――
「ぁ、魚、なら、オレは、みんな、リリースして……」
何故魚の生死など口走っているのか解らないが、何故かこれが聞きたいのではないかと酷い耳鳴りの中で考えた。伝わるのか、までは思考が至らなかった。
「……霆溷シア閠a縲███縺ョ險闡峨r隗」縺輔〓縺九ゅ∪縺ゅh縺██イエ讒倥′辟。逶翫↑谿コ逕溘r邯壹¢繧九h縺〒縺███l縺ー縺薙■繧峨↓繧り∴縺後≠繧九█◎縺ョ縺薙→縲√f繧√f繧∝ソ倥l繧九〒縺ェ縺◇」
「――ぁ、 あ、やば、……」
止まない耳鳴りが、頭痛が、意識を奪う。じわじわと暗転していく視界の端で、鮮やかな緋色の尾びれがぱしゃんと水面を叩く。あの瞳と同じ色をしていた。
(――――暗転。)
❏❏❏
う、という自分の呻き声が耳に届く。暗闇から突然陽の下へ引き上げられたように、遠くなっていた意識が戻る。瞬きをすれば太陽は斜め上の空にいた。どのくらい気を失っていたのだろうか。
「…………?」
上体を起こした立香は、改めて周囲を見渡し、そして首を傾げる。
(ここは……港?)
記憶は海のただ中で途切れているのだが、立香が今いるのは今朝出港した港だ。何故ここにいるのだろう、どうやって戻ってきたのか、立香は記憶を手繰れども答えに辿り着けない。
「オレじゃない。じゃあ、だれ、 が――……」
そう呟きかけて、血のように紅いふたつの眼、それと酷い耳鳴りが脳裏を過ぎる。あの形容しがたい声を思い出しかけて、背筋を冷たいものが流れてやめる。頭痛がしそうだ。あれはなんだったのだろうか。
「人……だよなあ……でも、魚……?」
尾鰭を見た気がする。スキューバダイビング用のフィンだったかもしれないが、一瞬ちらりと見ただけでは判断がつかない。――否、魚の尾鰭であるはずがない。確かに顔を見、声を聞いたのだから。
「…………」
顎に手を当てて立香は記憶を漁る。はずがない、のだが、最後に見えたアレは確かに尾鰭だった。フィンのような光を通さないものではなく、太陽に透けてしまいそうな、けれど存在感のある真赤な尾鰭。それは今まで見てきたどの魚の尾鰭よりも大きい。大きさだけで言えばフィンとどっこいだろう。翻って太陽の光を浴び、キラキラしていたような。
「……………………人魚……?」
言ってから、うーんと唸って首を傾げる。人魚。人間の上半身と魚の下半身を持つ、空想上の海のいきもの。立香が知る中では童話に描かれたものが一番印象に残っているが、あれはタイトルが示す通り女性の人魚の話だ。今日立香が見たのは、恐ろしく顔が整ってはいたが男性だろう。男の人魚なんていたんだ、と立香は考え、そもそも人魚が実在するのかでまた首をひねる。あの人が人魚である確証もない。酷い頭痛を引き起こす声をしているだけで、人間かもしれない。――などと思い込むのも何か違う気はする。ではあれは人魚だったのか?その答えもない。堂々巡りの思考。
「う⌇⌇⌇⌇ん」
立香は傾けていた顔を俯けて長めに唸り、
「よし、解んない!」
ぱっと顔を上げたと同時に大きめに言い放った。
「解んないものはしょうがないよね、っと」
あぐらをかいていた両足を解いてよいしょ、と立ち上がり、うーんと伸びをする。考えて解らないものは考えてもどうにもならない。けれど思考を放棄したわけではない。
確かに存在はしていたのだ。立香だけしか見ていないとしても、確かに存在していた。それなら、また出会うこともあるだろう。あの人魚(暫定)は立香に向かって何かを訴えていた。何を言っているのかは全く解らなかったが、何かを伝えたいようだった。伝えたいことがあって、伝えられなかったらもう一度、と思う可能性はある。ある、だろう、可能性くらい。あってもいいはずだ。うん、あるある。
また会えたら、自分は彼の言いたいことが解るだろうか。あまり期待はできないけれど、理解したいとは思う。あんなに真剣に訴えかけてきたのだ、何かとても大事なことなのだろう。あの時は頭痛と眩暈で何も考えられなかったけど、考えることを放棄したくはない。それは相手がなんであれ、だ。
根気強さ、諦めの悪さには自信がある。問題は彼がまた姿を見せてくれるかどうかだけど、何となく、また会える気はしている。
(次に会うまでにあの声をどうにかしないとなあ)
超音波だろうか。あんな、鼓膜に刺さって耳の奥へ入り込んで頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回すような音、まともに聞いていられないのは身に沁みて理解した。
(オレの言葉が通じればいいんだけど……)
あんなに真摯に何かを訴えていたのに伝わらないのは、自分なら悲しい。だから理解したい、と思う。たとえ些細なことでも、取るに足らないことだとしても。
「とりあえず来週末……かな」
なんなら今からもう一度、という考えも頭を過ぎらないことはなかったが、何しろ気を失った後である。あれから何時間経ったのか解らないが、今は休んだ方がいいだろう。すると次は早くて来週末になる。
「……また会えるといいけど」
見上げる空は、朱に染まり始めていた。その空よりも深く鮮やかな真紅を思い返しながら、立香は舟を降りた。
❏❏❏
そして、一週間後。
「――いよっし!」
天気は晴れ。風はなく、波は穏やか。
釣り日和だ。
「とりあえず前のポイントに……」
縄を解き、オールを取り、出港する。前回会ったのは港から少し離れた別の入り江だ。余所からくる釣り客はあまり近づかない、切り立った崖に囲まれ湖のように円く区切られた静かな海。立香は通い慣れた道なき道をのんびり漕いで進む。本当にいい天気だ。真夏であれば死を連想させる陽射しも、この時期は暖をとる程度で済む。空を見上げて目を細めた立香は、凪いだ海を進んでいく。そう遠くはないが、人力なのでスピードは出ない。もっと早く漕げばスピードは出るのだが、急ぐ道程でもない。早く会いたい気はするが、急がば廻れという言葉もあることだし、と、立香は普段のペースで舟を漕ぐ。
それから三十分程漕いだだろうか、舟は先週のポイントまで辿り着いた。周囲に人影はない。あの時と同じ、静かな海だ。
「とりあえず、っと……」
ゴソゴソと釣り竿をカバーから取り出し、カラフルなルアーその他を取りつけて投擲する。今日は魚を釣りにきたのではないから針はつけず、適当にリールを回して糸を巻きとってはまた投げ、を繰り返すだけだ。先週の再現。果たしてこれでまた会えるのだろうか。
(これでダメならもう会えないかもなぁ)
会えないかも、と思うと会いたさが強くなる気がする。会って、ちゃんと話をしたい。その一心で、ルアーを投擲した。
「――――」
二十分程だろうか。そろそろ腕が疲れてきたから休憩を、と椅子に座ろうとした立香の側で、ぱしゃん、と魚が跳ねるような音がした。
「!」
座りかけていた立香は立ち上がり、舟の縁から急いで音のした方を覗き込む。ただの魚かもしれないが、前回も水面を叩く音を聞いたのだ。もしかしたら、と思うと心臓が大きく打った。
そして。
「雋エ讒████ァ諛イ繧翫b縺ェ縺上∪縺溪██ヲ窶ヲ」
「ストップストップストーップ」
キィィィ、と甲高いノイズに耳を塞ぎながら、立香は大声で制止の言葉を叫ぶ。その声に驚いたのか、海面から顔を出したその人は、真赤な目をまるくしてぱちぱちと瞬きをした。うん、間違えようがない。先週のヒトだ。
「――、」
「待って! 待ってください! 今そちらに行きますから!」
耳をふさいでいたうちの片手で制止のジェスチャーをして、竿を置いた立香は急いでTシャツを脱いで放る。それからスキューバダイビングで使うような大きなゴーグルをかけ、深呼吸をしてから海へ飛び込む。生ぬるい海水に全身を覆われながら横を見た立香は、そのヒトの下半身が鱗と鰭のある魚のような姿であることを視認した。
「――っ、ぶは!」
「……!」
海面から顔を出し、空気を吸い込んだ立香は顔が水面から出るよう水中で手足を動かす。その金髪のヒトとの距離は、手を伸ばせば届く距離程度だ。立香が飛び込んだ時と同じように目を開いて、多めの瞬きをしている。驚いたのだろう。
「こんにちは」
とりあえず挨拶などしてみる。反応があれば、立香の言葉が通じているということだろう。
「――」
「あ⌇⌇っ! それ、それはダメです!」
そのヒトは、立香に向かって何かを言おうと口を開きかけ、立香の片手に口をふさがれる。初対面の相手にすることではないが、ここであの声を聞いたら溺れかねない。
「すみません、貴方の声はオレには解らないんです」
「……」
手のひらの下で唇が動いたのを感じ、立香は手を離す。黙り込んだところからして、言葉は通じているのだろうか。
「オレの言葉、解ります? 解るなら二回頷いてください」
こくこくと頷かれた。よし!と声には出さず右手を握り締めてガッツポーズなどしてみる。立香の言葉が通じているなら話は早い。
「えっと、文字は書けますか?」
「?」
これには首を傾げられた。ので、立香は水中の片手を持ち上げて、ざばーっと水中から引き上げる。その手に持っているのは水中でも文字が書けるボードとペンだ。
「書けるなら、これに書いてもらって……」
ペンを差し出すと、きょとんとしていた稚い顔つきのそのヒトは、素直にペンを受け取る。
「じゃあ、えっと……オレに言いたいこと、ここに書いてください」
ボードも渡して、代わりにペンの蓋を受け取る。陽に煌めく金髪のそのヒトは、すらりとしたしろく長い指でペンを持つ……と思いきや、がっつり握り締めると、ぎこちない手つきでゆっくりとボードに何かを書き始めた。俯くその顔は、髪と同じ金色の睫毛が瞳を隠している。鮮やかな血のような色をした真紅の瞳。この一週間ことあるごとに脳を巡ったその色が、今は目の前にある。そうだ、また会えたのだ。この高揚は嬉しさからくるものだろう。嬉しい。素直にそう思う。尾鰭も見間違いではなかったし、この一週間のモヤモヤがほとんど解決したのだ。テンションも上がるというものだろう。
「…………」
無意識に頬を緩めていた立香の前に、ボードが差し出される。受け取り、何が書かれているか確認する。
『むいみにころすな』
ぎこちない、ひらがなだけの一文だったが、それで充分だった。あの時の立香の勘は当たっていたのだ。酷い頭痛で朧気な記憶になってはいるが、自分はあの時殺していないことを口にした、ような。
「これは、オレだけのことですか?」
「……」
立香の問いは、ふるふると頭を左右に振って否定される。それはそうだろう。ここは漁村だ。立香一人の釣果だけでなく、村全体のことを言いたいのだろう。
「結論から言うと、できません」
「……!」
「あ、待って待って、最後まで聞いてください」
立香の否定に口を開きかけたそのヒトは、制止されて不満気に眉を寄せた。
「オレ……オレたち人間は、特にここの人間は、魚を殺すことで生きているんです」
「――」
「魚を獲って、食べたり、売ったりして生活しているんです。それは、やめられません」
立香の言葉を、そのヒトは真赤なふたつの眼を真っ直ぐにこちらへ向けたまま聞いている。
「生きるために必要なことなんです。理解は……できないかもですけど、無闇に、無意味に殺してるわけではないんです」
「……」
「オレの釣りは……ただぼんやりしたいだけ、なんですけど……釣れた魚はみんな海に帰してますよ。……それもダメ、ですか……?」
釣りそのものに執着はない。ただこの誰もいない海でぼーっと糸を垂らしてるのが好きなだけで、釣った魚を料理するだとか、そういうこともない。次からは針のないルアーを投げようか。
「………………」
そのヒトは眉間に皺を寄せたまま無言で俯き、何かを考え込んでいるようだった。立香の言葉は正しく届いただろうか。
しばしの沈黙。ちゃぷちゃぷと海に漂う音がする。立香の方は水中で手足を動かしていないと水面から顔を出すのは難しいが、目の前にいる半分魚のヒトは片手でペンを握り締め、もう片手を顎に当てて思案に耽っている。
「…………」
「…………」
しばらくして、立香から引ったくるようにボードを奪ったそのヒトは、そこに書かれていた文字を消し、真剣な表情でまた何かを書き込む。ややあって、顔を上げたそのヒトはボードをこちらへ向けた。
『いきるためならばゆるす』
許す、と、立香がボードの文字を呟いたのを聞いたのか、こちらへ向けていたボードをまた手元に寄せ、ばしゃばしゃと水音を立てて文字を消したあと、ぐりぐりと書き込む。
『それいがいはだめだ』
ぐ、と立香は顔を引き締める。そうして頷くのを見たそのヒトは、ボードの言葉を消し、
『みているぞ』
と、それだけを書いたボードとペンを立香に向かって放り、とぷんと海の中へ消えた。
「――…………」
ひとり取り残された立香は浮かぶボードとペンを回収し、舟へ戻る。空の舟に上がり込むのは少々骨が折れたが、なんとか転がり落ちるように海中を脱した。
「…………」
仰向けに寝転んで空を仰ぐ。空は高く、青い。今し方のこと――人魚に遭遇して筆談して念押しまでされた。噓のようだが本当のことだ。今目の前で起こったこと。あのヒトは人魚だったし、ボードには最後の言葉が書かれたままになっている。夢でもなければ幻覚でもない。人魚と異文化交流してしまったのだ。
(これって、すごいことなんじゃ?)
ガバッと上体を起こした立香は、まだぽたぽた海水の垂れる前髪をかき上げる。なんだかとてつもなく貴重な経験をしたような気がして、じわじわ興奮が湧いてくる。人魚に会ってしまったのだ。これはすごい。人魚が実在していただけでもすごいのに、言葉を交わした。
「………………また逢えるかな」
陽の光を糸にしたような髪と、血のような真紅の瞳の、とても綺麗な顔をした人魚。人間の言葉を理解し、意思疎通が図れる人魚。興味深いなどというものではない。伝承や生物学は門外漢だが、好奇心を抱くには充分すぎるだろう。
「逢えたらいいなぁ」
降り注ぐ陽射しに右手を翳して遮ってみる。なんとなく、また逢える気がして立香は鼻歌混じりにオールを掴む。そうして、来た道を小舟はゆっくり戻っていく。遠くで紅い尾鰭が翻るのを見た気がした。