新作:酔いどれ騒ぎ 酒場の明るい光が室内を照らし出し、エールの泡を一層白く輝かせた。各々の仕事が終わり、夕飯時となった酒場にはほどよい活気と様々な種族の人間たちの陽気な笑い声が響いている。とあるテーブルでは酔っぱらったトールマンたちが高らかに歌を歌い始めて周囲の人間から囃子を入れられ、はたまた別のテーブルでは炭鉱のドワーフたちが酒比べを行って次々と酒瓶を空けていく。人々が楽しく飲み騒いでいるなかで、唯一沈痛な表情で酒を呷っているテーブルがあった。
「おい、お前は私の酒が飲めないと言うのか」
「そのお酒って度数がエゲつないやつでしょ。そんなの飲んだらぶっ倒れますよ」
「じゃあ私が飲む」
「隊長、お酒は控えて一旦お水でも飲みましょうか」
「いやだ」
「誰だよ。隊長にここまで酒飲ませた馬鹿は」
「お前とリシオンが面白がって飲ませたんだろうが」
この馬鹿、とオッタがフレキの頭を軽くはたく。フレキはチッと軽く舌打ちをしてオッタを一睨みすると、びしりと据わった目をしている隊長を指差した。ミスルンの周囲には空になった酒瓶が無造作に何本も転がっている。そして当の本人はリシオンの肩に手を回してぐいぐいと酒瓶を頬に押し付けていた。完全に面倒な酔っ払いと化したその姿を見て隊員たちはぐったりとため息を吐いた。
以前の飲み会で隊長とトールマンの男の赤裸々なお付き合い事情を知ってしまってから、何となく元カナリア隊員たちの間では隊長に酒を飲ませるなという共通認識が出来上がっていた。好奇心に身を任せて事情を深堀りしようとしたのはこちらからだったが、滔々と聞いてもいないことを話し続ける隊長の対処は思ったよりもかなり面倒だったのだ。それに多少の敬意を向けている相手が大層年下の若造に抱かれている話を聞くのは結構辛い。何せ隊員たちはてっきりミスルンが抱く側だと思っていたので、思いもよらない暴露話はかなり気持ちがすさんだ。そんな訳で、飲み会にミスルンが参加するときはさりげなくパッタドルを近くに座らせて飲酒量の管理をさせるか、はたまたシスヒスやリシオンが近くの酒をさりげなく奪い、ミスルンが酒を飲みすぎることを防いでいたのだ。
だが、今日に限ってはその限りではなかった。
城へ魔物調査の報告に行ってから酒場に戻ってきた隊長は、普段の無表情から一転して眉根に深い皺を刻み込んだ非常に人相の悪い顔になっていた。僅か数時間の間に機嫌を損ねていた隊長を前にどよめく隊員を気にすることなく、遅れて飲みの席に着いたミスルンはただ無言のままにテーブルの席にあった酒を掴み取った。
それからは酒瓶を空けては飲み干し、開けては飲み干しの見事な飲みっぷり。止めるものがいれば違っただろうが、残念ながらパッタドルはおらず、面白がって酒を次々渡し続けたフレキとリシオンがミスルンの酔いを悪化させた。そうして生まれたのが見事な絡み酒ミスルン隊長であった。
「どうしたんだよ、たいちょ~。そんな機嫌悪く酒飲んでさ。珍しいじゃんか」
「私で良かったらお話聞きますわよ」
さりげなくミスルンの手から酒瓶抜き取りながらフレキとシスヒスがミスルンの肩に手を置く。ぼんやりとした表情で二人の顔を眺めたミスルンの瞳には、うっすらと水の膜が張っていた。そのことにぎょっとした隊員たちの間に波紋が広がる。「嘘だろ、あの隊長が泣いてる……?」「いや、酔っぱらいの生理現象でしょ」「シスヒスに女装と犬食いをさせられても何も反応しなかった隊長が……」「今その話は関係ないんじゃないかしら」などざわざわと動揺が広がる最中、ミスルンは袖で自身の目元を拭うと重い口調で小さく呟いた。
「……結婚するらしい」
「え?何がですか」
「カブルーが、結婚するらしい」
ぴしり、とその場の空気が凍った。カブルーってあの隊長の恋人の短命種の、隊長を抱きたがる奇特な趣味の奴か、などかなりカブルーにとって不名誉な風評が飛び交ったが、そのざわつきはミスルンの目からぽろりと零れる涙を前にして自然に収まった。
「つまり、浮気されたってことか?」
「おい馬鹿、もっと言い方考えろ!」
オッタがフレキの口を塞ごうとする横で、リシオンがミスルンの傍らにしゃがみ込んだ。そして獣人の姿になると、ミスルンの手を自身の頭の上へと置いた。ぺとりと耳を伏せたリシオンの頭がミスルンの手へと押し付けられる。
「……何だ」
「フレキが俺の毛並みは癒されるって言うから隊長もどうかなって」
ミスルンが小さく手を動かすとリシオンの毛並みに柔らかく沈んでいった。手のひらがもふりとした感触とほどよい温もりに包まれる。そのことに対して特別思うことはなかったが、リシオンが自身を慰めようとしている意思は伝わって、ミスルンはほんの少しばかり口角を持ち上げた。
「元気でました?」
「恐らくは」
「じゃあ何があったか教えてくれよ」
力になれるかもしんないからさ、というフレキの言葉にミスルンはこくりと頷いて、ほんの数刻前出来事を話し始めた。
「いや~、君の報告書はいつも魔物の様子が微細に書かれててありがたいなあ!良かったら今度魔物の骨とか肉も一緒に持ってきてくれないか?」
「分かった。善処しよう」
魔物調査の報告書を受け取ったライオスは、まるでプレゼントを貰った子供のように目を輝かせながらその文書を夢中になって読んだ。カブルーがこの場にいたら「その熱意を普段の政務にも持ってくださいよ!」と怒り出しそうだ。ミスルンの脳裏には恋人の笑顔で怒っている姿が鮮明に目に浮かぶ。今ならシェイプシスターに出会っても正確にカブルーを映し出せそうだな、と思っているとライオスがそういえば、と顔を上げた。
「ミスルンさんはカブルーの結婚式には参加するのか?」
「……何と言った」
「カブルーが今度お見合いしたお嬢さんと結婚するらしいからさ、君は彼と仲が良いから参加するのかと思って」
そうだ、今度この報告書に書かれている魔物に関してより詳細な調査を……というライオスの独り言が酷く遠く聞こえた。見合い相手ということは政略結婚なのだろうか。そもそもカブルーが見合いをしていたことも今初めて知った。ミスルンはカブルーと付き合っていたはずだが、今この時まで何も知らなかった。
ミスルンはその場で儀礼的にライオスへと礼をすると、城内での転移術はやめろと言われたことを無視して酒場まで転移術を使って移動した。そして今現在酒を大量に飲んで酔っぱらっている訳である。
「そうか、それで隊長は悲しくなってやけ酒を……」
「いや、別に悲しんでいる訳ではない」
もふもふとリシオンの毛並みを撫で続けながらミスルンは涙の訳を否定した。確かに悲しみに打ちひしがれているという様子は感じられない。けれども、確かにミスルンを取り巻く空気は普段よりも重苦しかった。じゃあ何で泣いてたんだよ、という隊員たちの疑問が口を突く前にミスルンは瞼を伏せて悄然と呟いた。
「私は、多分怒っていたのだと思う」
「なるほど、怒って……怒って?」
「ああ、過去の私も怒り狂っている。私というものがありながらと」
ミスルンは、過去の私?という疑問を浮かべた隊員たちの手から転移術で酒を奪うと、その酒を一気に呷って飲み干した。ダン!と勢いをつけてテーブルに酒瓶が置かれる。ミスルンは一層赤らんだ顔でまるで悪魔を前にしたかのような形相を浮かべた。
「どんな手を使っても手を出した責任を取らせろ、と過去の私も言っていることだし、結婚前に攫ってやろうかと思っている」
逃がす気は毛頭ない、と呟いたミスルンに隊員は無言のまま目くばせしあった。
どうしようか、これ。隊長が逃がさないって言ったんなら転移術と財力で地の果てまで追いかけるぜ。怒りすぎて泣くって隊長の執着心の強さ怖いんだけど。等々、ミスルンにも聞こえる声量で話し合いが開かれる。それを気にすることなく、ミスルンはテーブルの上の空き瓶を増やそうと、再び酒を手に取った。その手が誰かによって防がれる。
「探しましたよ、ミスルンさん……!」
「カブルー……」
息を荒げたカブルーにミスルンは剣呑な視線を投げかけた。そしてカナリア隊の者たちも「おっ、修羅場か?」と好奇の視線を無遠慮に投げつける。エルフたちに囲まれる中で、カブルーは臆することなくミスルンの両手を掴んだ。
「ライオスからの話を聞いて誤解が生じたんじゃないかと思って会食後に急いで来たんですよ」
「何の誤解があると言うんだ」
「まず俺には結婚する予定はありません。相手に気に入られて見合いまで持ち込まれたのは事実ですが、ちゃんと断っています」
「……そうか」
「俺には付き合っている相手がいるのでって伝えたんですが、変に話がねじ曲がってライオスまで伝わってしまったみたいで」
黙ったままですいませんでした、としょげた様子でカブルーは頭を下げた。沈黙が数秒ほど続き、ふう、とささやかな息がミスルンのかさついた唇から漏れた。
「すまなかった。お前に事情を聴くことなく疑ったことを謝罪しよう」
「いえ、構いませんよ」
貴方が俺に執着していることを知れたので、気分もいいことですし。というカブルーの言葉に成り行きを見守っていた周囲が騒めく。こういうの東方では破れ鍋に綴じ蓋って言うんだっけ、と零したフレキはオッタに肘で突かれた。良かった良かった、元鞘に収まったなと安堵感が広がっていく。
「かなり飲みすているようですし、酒はもうやめておきましょうか」
自然な動作でカブルーは空いた椅子に座り、自身の膝の上にミスルンを引き寄せた。そして水の入ったグラスを掴み、手ずから彼の口元へと傾ける。こくりと水を呑み込んだミスルンの口の端からたらりと零れ落ちた水をごく自然な動作で片手で拭った。そのことに感謝を告げるようにミスルンはカブルーの肩に頭を預ける。
突っ込む余地もなく二人の空間が出来上がったことに遅まきながらカナリア隊の者たちは気が付いた。お世話にしては距離が近すぎる。カブルーにもたれかかってうたた寝しそうになっている隊長の背を撫でているカブルーは、普段の空気を読む能力を失っているかのように周囲の騒めく声を気にしていない。よく見るとカブルーも普段よりも赤みの差した顔をしていた。もしや、こいつも酔っているんじゃないか、という推測に思い当たったエルフたちは一斉に目くばせしあった。
やいやいとこの二人の間に割り込んで引き離す役を互いに押し付け合うエルフたちを他所にして、ミスルンはカブルーに火照った頬を押しあてて熱い吐息を吐いた。そしてカブルーの背中に自身の手を回すとゆっくりと瞼を閉ざして夢の中へと落ちていった。
言い争うエルフたちとその傍らで寄り添うトールマンとエルフの光景は、図らずもいつの間にか周囲の注目を集めていたことを、カブルーは後日メリニで流行り出したトールマンとエルフの恋物語の中で知ったのであった。