雪解けの温度 モニカがそれに気がついたのはほんの些細なことからだった。
いつもの通りモニカは会計の書類確認の為に、前会計のシリル・アシュリーに話しかけた。いつもと違ったことといえば、話しかけた場所は生徒会室ではなくその横にある給湯室で、シリルがお茶を入れ終わったタイミングを見計らって、背後から声をかけたことだろうか。
「あの、シリル様」
「ノートン会計!?」
どうやらシリルはお茶を入れることに集中していたのか、モニカのことに気がついていなかったようで上擦った声で返事をした。
いつもはきりりとした顔で何か用かと聞いてくれる真面目な生徒会副会長だが、この時は慌てて一二歩後ずさると、こほんと息を整えてからモニカに向き合った。
モニカはほんの違和感を感じながらもいつものように書類についてシリルに質問を投げかける。シリルはモニカから書類を受け取ると口頭で説明を始めた。
またもやモニカは違和感を感じてほんの少し首を傾げる。いつもならモニカが理解しやすいように一緒に書類を覗き込みながら解説をしてくれるのに、シリルは口頭で説明を終えるとモニカに書類を返し、お茶を持って給湯室から出て行ってしまった。
その背中を目で追いながらモニカはふと青ざめる。
「シリル様に…………避けられてる!?」
♦︎♦︎♦︎
困ったことに、モニカにはシリルに避けられるような心当たりがなかった。モニカがシャキッとしていないのも、人見知りなのも、自信がないのも今に始まったことではなく、シリルがモニカを突然避けるような原因にはなり得ないような気がする。それどころか、モニカが苦手なことに挑戦していく姿をシリルはいつも見守ってくれていた。
その上、シリルのモニカへ対する態度には全く変化がないのだ。避けると言ってもあからさまに嫌な顔をしたり、ひそひそと嫌味を言うようなことはない。悪意を向けられ慣れているモニカは人の悪意に敏感だった。シリルにはそれが全くないのだ。
変化があったのはたった一歩、開いた距離。
シリルはいつの間にかモニカから一歩距離を取るようになっていた。
ほんの些細なことなのに、気がついてしまえば嫌でも意識してしまう。
つい先日、学園祭が終わったころはそんなことはなかったはずだ。
モニカは学園祭の会計処理のためにシリルと一緒に資料室にこもって作業をしていた。膨大な数字の量に普通の人間ならうんざりするところだが、数字を愛するモニカにとってそれは宝の山だった。学園祭の収支を足しては引いて、足しては引いて。スルスルと暗算していき、綺麗な解が出た時、モニカはうっとりその数字を見つめるのだ。
そんな姿に呆れながらもシリルはモニカが質問すればすぐ隣に来て書類を確認してくれたし、最終確認の後には良くできていると褒めてもくれたのだ。
それなのに、今日もその一歩は埋まらない。
気のせいかもしれないとしばらく様子を見ていたが、目視で距離を測れるモニカは確信していた。毎日毎日距離を測るが、やっぱりほんの一歩、前よりも距離が遠いのだ。
シリルは真面目で誠実な人だ。必ず何か理由があるはず。
モニカは一人、資料室で頭を悩ませていたが原因は全く思い浮かばない。
誰もいない資料室には窓から赤い光がさしてもの寂しい。換気のために開けていた窓からは冷たい風が吹いていて、モニカはくしゅんっとくしゃみをすると小さな手をさすった。
モニカは風ではためくカーテンを紐で括ると窓を閉める。換気はもう十分だろう。
なぜだか大好きな数字も頭に入ってこない。モニカは計算中の資料をテーブルに置くと、お茶を淹れるために席を立ち、資料室の扉を開けた。隙間風がぴゅうと吹いて、モニカはぎゅっと身を縮こませる。
はっ、と息を呑む声がして、モニカが顔を上げると眉間に皺を寄せたシリルが静かにモニカを見下ろしていた。
別の意味でモニカはぶるりと身を震わせる。普段大きな声で怒るシリルをよく見るだけに、黙って不機嫌そうな顔をするシリルにモニカのノミの心臓が音を立てる。
「ノートン会計」
「ひゃいっ」
「用があるので資料室で待っていろ」
「えっあっはい!」
固い声でモニカに命じるとシリルはスタスタと給湯室へ入っていった。モニカは思わずへなへなと床へ座り込む。
怒られる。絶対に怒られる。何をしたかはわからないが、きっとこれから怒られるのだ。
シリルは基本的にその場で大きな声で怒るのに、静かな固い声で用があると言われた瞬間、恐怖でモニカは気絶しそうだった。
怒られるのはいいのだ。モニカは他の人のように上手く人に馴染めない。たくさん迷惑をかけて、叱られて、出来損ないの自分を変えていけるならそれも構わなかった。少しずつだけどモニカは変われることに気がついたから。
でも、避けられるのは嫌だ。たった一歩の距離だけど、それがモニカにはもどかしい。
だった一歩の距離をどうしたら埋められるだろう。出来るだけ人間から距離を取ろうとしていたモニカには距離の近づけ方なんてわからなかった。
しゃがみ込んで頭を抱えていると、脳天から声がした。
「神聖な生徒会の資料室で奇声を上げながらしゃがみ込むな!」
「すみません!」
シリルの一括にモニカの背筋がピンと伸びる。いつものシリル様だぁ、とモニカは怒声を噛み締める。
シリルは訝しげにモニカを一瞥するとテーブルの上にマグカップを二つ置いてモニカに座って飲むように促した。
モニカは椅子に座ると、おずおずとカップの中身を覗き込む。黒い液体から甘い香りして鼻腔をくすぐる。シリルが前にも入れてくれたチョコレートだ。
マグカップの熱が手袋越しにモニカの冷えた小さな手に伝わって温かい。モニカはカップを傾けるとこくりと一口飲みこんだ。じんわりと口の中に甘さが広がって、ほおが思わず緩む。
シリルはそんなモニカを一瞥するとチョコレートを一口飲んだ。
「体調はどうだ?」
「あっ、はい。もう大丈夫です」
実を言うとモニカは学園祭の会計処理が終わった次の日、風邪を引いてしまい学園を欠席していたのだ。学園祭を乗り切った安心感で気が抜けてしまったらしく、またもや生徒会に迷惑をかけてしまった。
もしや、また休んだことでシリルに迷惑をかけてそれで怒っているのだろうか。ごくりとモニカは唾を飲み込んだ。すると、シリルの口が重苦しく開いた。
「すまなかった」
「え?」
想像もしなかった一言にモニカは目をぱちくりさせて素っ頓狂な声を上げた。
「部屋が冷えていたのに何時間も作業をしていたから体が冷えたのだろう。私が作業を中断させるべきだった」
モニカは今度こそ言葉を失った。
つまり、シリルはモニカが風邪をひいて倒れたことに責任を感じていたのだ。
確かに学園祭の後、会計処理で何時間も作業をしていたが、モニカは学園祭での疲れを癒すかのように大好きな数字に没頭できた上、シリルにも褒められてホクホクしたながら帰ったのだ。
モニカが風邪を引いたのは学園祭で敵と交戦して毒を吸って元々体調が良くなかったことが大きな原因だ。シリルが責任を感じることなんて何もない。
けれども、それをシリルに伝えることはできない。
口をパクパクさせて困惑するモニカをよそにシリルは話を進めていく。
「私がいるとますます部屋が冷える。生徒会室にいるから何かあれば声をかけろ」
ガタリと立ち上がり、シリルは資料室から出て行こうとする。
その間もモニカの頭は忙しく働いていた。
なるほど、シリルは魔道具の影響で常に冷気をまとった魔力が漏れて出てしまっている。どうしても部屋の中はひんやりしてくるし、冬場は近づきたがらない人間も多いのかもしれない。
けれども、モニカはそう思わない。近づきたくない冷たい人間はモニカの周りにたくさんいたけれど、冷気をまとっていようが、シリルは心が温かい人間だとモニカは知っているからだ。離れているのが寂しい温度だと、モニカは知っているからだ。
離れてしまった一歩はモニカへの気遣いだった。少しでも寒くないように一歩距離を保ってくれた。
そんな温かい人が、モニカから離れてしまうと思うと、心の中に隙間風がぴゅうぴゅう吹くような気持ちになるのだ。
寒さはきっと、寂しさに似ているから。
モニカは立ち上がると、出て行こうとするシリルの袖をそっと掴んだ。
離れてしまった一歩を埋める術をモニカは知らない。けれども、それはきっと簡単で。
モニカから、一歩踏み出せば良いことだったのだ。
「あの」
怪訝そうに見つめてくるシリルの視線が痛い。モニカは言葉を紡ぐのが得意ではないけれど、一生懸命言葉を探す。数学の解は一つしかないけれど、言葉は決まった答えがない。伝えたい言葉はモニカが見つけるしかないのだ。ほかの人より時間かかってしまうかもしれない。けれども、シリルはモニカの言葉を待ってくれる人だと知っているから。
「シリル様は温かいんです」
つかえていた喉からほろりと言葉がこぼれ落ちる。
「温かいお茶を何度も淹れてくれました。今も、わたし、チョコレートを飲んで寒くなくなりました」
カップを持つシリルの手がぴくりと動く。
「一緒にいてもそんなに寒くなくて……書類は一緒に見た方がわかりやすくてですね……」
だんだんと言いたいことがぐちゃぐちゃになってくる。魔術式や数字のことならすらすらと言えるのに、言葉は自由で、それゆえに不自由だ。
「えっとそのぉ……」
それでもモニカは声を搾り出す。
「つまりは魔力は冷たくてもチョコレートが温かいのでシリル様はこの部屋にいても大丈夫です…!」
ぎゅうぎゅうに言葉を捻り出したせいか、最後はヤケクソ気味になってしまった。
恐る恐るモニカがシリルを見上げると、釣り上がった青い瞳が珍しく丸くなっていた。それも一瞬できりりと眉が吊り上がる。ぷいとそっぽを向くとシリルは珍しく抑えた声でポツリと呟いた。
「それくらい自分で淹れられるようになれ」
「すみません……」
しおしおと枯れた苗のようにモニカの背筋はしおれ、袖を摘んでいた手が離れる。
こほん、と咳払いが聞こえてモニカはしょぼくれながらシリルの言葉を待った。
「しかし、また風邪を引かれては敵わん。今度こそ私がしっかりと見張っておいてやる」
はっきりとした声で告げられた言葉にモニカの瞳が煌めいた。
「貴様が倒れると生徒会の業務に支障が出るからな。いいか!これは殿下のためだからな!」
「はい!」
つんと顎を高く上げるいつも通りのシリルも、にこにこと声高々に返事をするモニカも寒い部屋にいるはずなのに頬が赤く染まっていることには誰も気がつかない。
モニカは早速計算途中の資料を持ってきてシリルへ一歩踏み出す。
埋められなかった距離は、雪のように二人の温度に溶けて消えてしまった。