沈黙の貴公子 おどおどと俯いて指をこね始める少女。セレンディア学園の生徒会メンバーとして全く相応しくない振る舞いにシリルは思わず鼻を鳴らす。
あの第二王子、フェリクス・アーク・リディルに選ばれ、栄誉ある生徒会役員のメンバーになれたというのにこの小娘は震えて青ざめるばかり。会計に必要な計算能力はシリルも目を見張ったが、その他諸々が壊滅的になってない。
彼女が会計に決まってしまったことは仕方がない。教育係として、シリルはこの後輩を導いていかねばならない。
生徒会の名誉のために、そして、彼女がこの学園で少しでも周りから認められていくように。
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小さな手に握られた羽ペンがカリカリと数字を書いていく。彼女はことりとペン立てに置くと、数字をうっとりと眺めて息をついていた。
数字のことになると彼女の口はいつものもたつきが嘘のように良く回る。とにかく数字が好きで夢中になると周りが気にならなくなるようで仕事そっちのけで別の数式を書類に書き始める始末だ。
そんな数字に夢中な彼女をシリルはチラリと盗み見る。ついつい視線が吸い寄せられるのは彼女の人より小さな手だ。
思い出されるのはあの夜の出来事。――静かなる化け物との遭遇。詠唱もなしに意のままに魔術を操るあの化け物の手は彼女の手にそっくりだった気がする。
魔がさしてこっそり彼女の手袋を外そうとしてしまったことがあるが、今思えば、あの恐ろしい化け物と、このおどおどびくびくした小娘が同一人物などとはとても考えられない。
確かに、魔術式と数式は切っても切れない関係だ。だからと言って無詠唱で魔術を使うなど飛躍しすぎている。
馬鹿馬鹿しい考えを振り払うかのようにシリルは数字に夢中な会計に活を入れるため、立ち上がった。
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詠唱なしで魔術を使うなどあり得ない。ただし、例外が一人だけいる。奇跡の天才。この国の宝。
――七賢人が一人、《沈黙の魔女》。
毒殺未遂事件の尋問後、シリルは胸元のブローチをいじりながら寮へと帰っていた。
イザベルから《沈黙の魔女》の話が出てきた時、シリルの頭に浮かんだのはあの化け物であり、小さな後輩の少女だった。
あの化け物の正体がモニカ・ノートンであるならば、必然的に彼女は《沈黙の魔女》ということになる。
七賢人という肩書と、ぷるぷる震えてカーテンに隠れる小さな少女があまりにもかけ離れていてシリルは眉間を押さえた。
あの娘がそんな大層な肩書を背負っているようには見えない。
毒を飲まされ死にかけたというのにベッドから起きた彼女のしたことはフェリクスとシリルにベッドから転がり落ちて頭を下げることだった。掠れた声で謝る彼女に一瞬で頭に血が上り、病人だというのに少々乱暴にベッドへ押し込んでしまった。
とてもじゃないが見ていられなかったからだ。
第二王子であるフェリクスに認められ、生徒会役員に抜擢された彼女への重圧はかなりのものであったはずだ。自分がそうであったからその重みをシリルは身を持って知っている。多くの羨望、妬みを退けてシリルはフェリクスの隣に立っている。
貴族としての振る舞いを心掛け、学業にも手を抜かず、フェリクスの隣にあるために、自分を選んでくれた義父のために、シリルは背を伸ばしてこの学園で歩み続けてきた。
その道は決して楽ではなかった。
貴族としての教育を受けていない彼女もそうであるはずだ。どうしても側から見ると庶民にしか見えないモニカやグレンは風当たりが強くなる。
先輩として、守ってやらねばならなかったのに。もっと気をつけるように忠告しておくべきだった。シリルは思わず唇を噛む。
か細い声で謝り続ける彼女の声がまだ耳に残っている。
上手くできなくてごめんなさいと涙声で語られた言葉には、もっと上手くできるようになりたいという願望が滲み出ていた。
それならば、シリルにできることは彼女が上手くやっていけるように手を引き、背中を押すことだ。
あの少女は臆病でおどおどしているが、己の責任からは決して逃げようとはしない。できないことはできるようになりたいと、ダンスもお茶会も一生懸命取り組める人間なのだ。
だから、シリルは彼女は生徒会の会計に相応しい人間になれると確信していた。あとは、自分が助けてやればいい。シリルを助けてくれたフェリクスのように、彼女を支え、導いて。
いつか彼女が自信を持ってセレンディア学園の生徒会役員として自分を誇ることができたなら、今日みたいに謝って涙を流すこともなくなるのだから。
ふと、シリルは自室の引き出しを開け、中から袋を取り出した。義父からもらったそれをシリルはなかなか飲むことができなかった。これを飲んだことが敬愛しているあの人にバレるのが怖かったからだ。
苦い紅茶を飲み干してしまった彼女が普段どんな食生活をしているか、シリルは知らない。
甘いものは好きだろうか。落ち込んでいたあの少女がこれで少しでも元気が出るのなら。
シリルは袋と一緒に仕舞われていたチョコレートの作り方が書かれた紙をつらつらと読み始めた。
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初めて目にした七賢人は、どこをどう見ても庭師の格好をした男、いきなり性別を間違えるヒョロヒョロした男、そして――小さな少女だった。
一言も言葉を発しない姿はまさに《沈黙の魔女》。……にしてはいささか迫力に欠けるというか、どことなく後輩を思い起こす小さな女の子であった。指をこねる仕草、小さな背格好、ちょうど彼女を見下ろす位置がまさにあの後輩とそっくりなのだ。
黒いローブをひっぺがすと、あの少女が涙目でこちらを見上げてるのではないか。そう思うくらい《沈黙の魔女》と彼女は似ている。
後輩と違うのは左腕を痛めているということくらいだろうか。弱々しくシリルを押し除けた彼女の様子に胸がつきりと痛んだ。
彼女は見知った後輩ではないのに、まるでモニカ・ノートンに拒絶されたような気がした。
だからだろうか、無意識に、シリルはモニカと魔女の相違点を探していた。
臆病で人見知りな彼女が七賢人などあり得ないという考えはあの庭師と呪術師に会った瞬間にだんだんと萎んでいってしまった。
七賢人は決して家柄や出自、本人の人柄で決められるのではない。必要なのは圧倒的な魔術の才能だ。
それは、突出した計算能力のみでセレンディア学園の会計に選ばれた後輩の状況によく似ている。
もしかしたら、モニカ・ノートンは《沈黙の魔女》なのかもしれない。
その疑惑がますます膨らんだのは冬休みが終わった後だった。
フェリクスが左腕を痛めた女を探し始めたのだ。
フェリクスが探し人の話し始めた時、ドクリとシリルの心臓が音を立てた。左腕を痛めた女に心当たりがあったからだ。
《沈黙の魔女》は左手を痛めているようだった。そして、フェリクスはその人が学園にいると確信しているようだ。
フェリクスが探しているのは《沈黙の魔女》なのだろうか?別人なのだろうか?
第二王子である彼が探すような重要人物などあの魔女くらいしか思いつかない。
おずおずと片手をあげて、痛みはないと訴える後輩はどことなく顔色が青い。いや、フェリクスに詰め寄られて青ざめるモニカの姿はいつも通りとも言える。きっとそうだ。そうに違いない。
モニカ・ノートンはうっかりこの学園に編入してしまった庶民上りの小娘なのだから。
シリルは消えない疑惑を頭の隅に押しやって、押し込んで、なんとか追い出そうとした。
そして、ついに確信の時が来る。
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黒い布が取り払われてしゃらりと長い杖が音を立てて姿を現す。彼女の背よりも高い杖は七賢人しか持つことの許されない権力の証。
セレンディア学園会計モニカ・ノートンの正体は《沈黙の魔女》モニカ・エヴァレットである。
本人の口からその言葉が出てきた時、シリルはようやくいままでそれを認められなかった理由が分かった。
確信がなかったこともあるが、それよりも、なによりも、シリルはこの小さな後輩を失いたくなかったのだ。
彼女が《沈黙の魔女》であるならば王の相談役である彼女の立場はシリルよりずっと上だ。身分も、魔術の腕も、シリルより上なのだ。
もう二度と、彼女に先輩として接することはできない。彼女の手を引くことも、背中を押すことも、支え、導くこともシリルには許されない。彼女はシリルよりもずっとずっと高くて遠いところにいるのだから。
だから、シリルは認めることができなかった。フェリクスの指示でも彼女に魔女の疑いがあることを進言できなかった。
彼女には後輩でいて欲しかったから。彼女を叱咤し、導き、立派な生徒会役員にする、その思いを捨てることができなかったから。
シリルは自分にとって都合のいい事しか信じようとしなかった。
それをようやく自覚して、飲み込んで、息をつく。伏せられていた長いまつ毛が震えて、青い瞳が開く。
シリルは決意に満ちたモニカ・エヴァレットの瞳を見つめる。窓からの光を受けて、彼女の瞳は緑色に煌めいていた。
その瞳に宿る真摯な思いに、どうして答えずにいられようか。
誰もが言葉を失い、動くことができない中、シリルは彼女の前に立つ。
そして、いつも背中を追いかけてきていた小さな後輩に心の中でそっと別れを告げて、ゆっくりとひざまづいた。
沈黙を破る、覚悟を決めて。