その傷を抱きしめて コンコン、と扉を叩いて名前を呼ぶ。
部屋の中からは物音ひとつ聞こえてこない。
モニカは魔術の仕事をしている時、やめ時を見失ってしまうことが多々ある。今日は肥料への魔力付与の分量やその影響についてぶつぶつと呟きながらひたすら紙に書き込んでいた。
なかなか作業が終わらないので今日は泊まっていくようにハイオーン侯爵もとい父から勧められ、あれよあれよという間にモニカのハイオーン家でのお泊まりが決定したのである。
父のニコニコというよりにやにやとしたふやけた顔がシリルにはくすぐったかった。婚約者であるモニカにシリルのことを聞きたくてたまらないようだ。渡りに船と言わんばかりにモニカに泊まるよう勧める父にシリルは顔を真っ赤にしておろおろする事しかできなかった。
そろそろ夕食ができる頃だ。そわそわしている父に急かされて、シリルはモニカを呼びに部屋へ赴いたものの、返事がない。
あてがわれた寝室でもずっと作業を続けているのだろうか。こうなると返事は期待できない。
「モニカ、私だ。入るぞ」
ガチャリと扉を開けて中へ入る。
「あ」
そこには半裸のモニカが立っていた。
バタンと大きな音をたてて扉が閉まる。顔を真っ赤にしたシリルは額を扉にぶつけて冷静さを保とうとするがこの行動こそが冷静さの欠如であることに気がついていない。
扉の中からはあうあうとモニカの奇声が聞こえてくる。
再びしんと辺りが静まり返ってから改めてシリルは扉をノックする。
「……どうぞ」
シリルはそっと、それはもうじりじりとゆっくり扉を開けた。
顔を真っ赤にして俯いたモニカはぷるぷると震えている。モニカはいつもの黒い魔術師のローブからゆったりとした白のワンピースに着替えていたようだ。
それならそうと呼びかけた時に言ってくれ。相手が別の男だったらどうするんだ。白いワンピースがとても似合っていてかわいい。などなど言いたいことは山ほど出てくるがぐっと飲み込んでシリルは咳払いする。
「夕飯の準備ができたので呼びに来た」
「えっと…その…」
シリルはじっとモニカのつむじを見つめた。ポツリと落とされた声には覇気がない。先ほどのことで動揺してるのかと思ったがそれにしては暗い声だ。
「何かあったのか?」
「ななっ、なんでもないです!」
茶色い瞳がうろうろと彷徨う。
ふわふわとレースが揺れる真っ白なワンピースは肩まで見えるデザインでモニカのほっそりとしたラインにボリュームのあるスカートがよく映えている。
「かわいい」
こぼれ落ちた声に思わず手を口元に当てるが後の祭りであった。
「え?」
「あっ、いや…そのワンピースが似合っていてかわいいなと」
誤魔化すことでもないと思い直すものの、顔が熱くなっているのがわかり、シリルの口元がぐにゃりと歪む。
「ありがとうございます」
いつもは花が咲いたようにふにゃりと微笑むモニカだが困ったように眉を下げて笑う。
「でも、やっぱりいつものローブに着替えようと思って」
お返事できずにすみません、とモニカは頭を下げる。
シリルは首を傾げた。
小さいモニカの身長にもあったサイズで特に問題は見当たらない。子供っぽいモニカも少し大人びて見えるようで微笑ましい。確かにいつもの服装に比べて肌がよく見えるデザインではあるが。
そこまで考えてはたと気がつく。表は鎖骨のあたりまでしっかりと布に覆われているが、先ほど一瞬扉の中が見えた時、背中のデザインは肌ががっつりと見えていたような気がする。
つまりはそういうことなのだろう。
※※※
シリルが扉を閉めて出ていくとモニカはふうと息をついた。
婚約のお祝いに勝負服だと渡されていた服はずっとクローゼットの奥に眠っていたものだ。
今日、泊まりになってシリルの父親と話をする機会があるかもしれないと思うとモニカは心臓がバクバクして昨日はなかなか眠れなかった。
シリルに相応しい婚約者だと思われたい。そんな気持ちがむくむくと膨れ上がり、勝負服のことを思い出したのだ。
代々貴族であるローズバーグ家の令嬢、メリッサ・ローズバーグが選んだものなら認めてもらえるかもしれない。そんな甘い誘惑にモニカは乗せられてしまった。
意気込んで服を着て姿見を確認した時、モニカは愕然とした。
背中の傷痕が見えてしまっている。
モニカはこの傷痕のことを今の今まで存在を忘れてしまうほどに気にしたことがなかった。好きな人と両想いになって浮かれる毎日に傷のことなんてすっかり頭から抜け落ちていた。これでは婚約者に相応しいどころではない。
ぼんやりと服を脱ぎかけたところでシリルが扉を開けて大騒ぎ、というわけである。
晩餐にはいつもの黒いローブで行くしかない。
シリルがワンピースのことを褒めてくれただけに、モニカは悔しくて、しわになるのも構わずにギュッとスカートを握り込む。
(泣いちゃダメ、化粧が落ちちゃう)
モニカが瞼を下ろすとほろりと涙がこぼれ落ちた。涙がつたう頬をふんわりとした感触が包みこむ。
顔を上げると真剣な青い瞳がモニカを見つめていた。
シリルは白いショールをモニカに羽織らせると胸元をブローチで留めようと悪戦苦闘しているようだ。ようやくかちりとブローチが留まるとシリルはふうと一息ついた。
「クローディアの物を持ってきてもらった。今日は少し冷えるからな」
ほっそりとした白い手がモニカの小さな手を引く。姿見の前までくるとモニカはぽっと頬を赤らめた。
真っ白なワンピースと純白に一滴ミルクを落としたような薄いクリーム色のショールは見事に調和している。ワンポイントとしてつけられた青い宝石のブローチがランプの灯りできらめいた。
(シリル様の色だ)
モニカに勇気をくれるおまじない。鏡の中にそれはあった。
「行くぞ。父上が待っている」
「はい!」
ぎゅっと繋いだ手を握りしめる。この高鳴る鼓動が、熱い体温が、少しでも伝わればいいな、なんて思いながら。