手を伸ばす。机の天板の滑らかさを確かめながら、指先を動かしていく。
　こつんと硬いものに指の背があたる。つるりとした触感は陶器特有のものだ。
　まるいふちをなぞりながら、近くにあるはずのスプーンに指を添える。金属特有の冷たさに体温を移す。
　ちいさくため息をついた。目が見えないだけで、普段通りの行動にいささかの違いが出る。
　そのままスプーンを持ち上げようとしようとして、冷たい指が手首に絡みついてきた。咄嗟に蛇の姿を幻視する。反射的に振り払おうとするが、驚くほど自身の手首をつかむ指はびくともしなかった。ごく自然にスプーンを奪い取られる。
「私がお手伝いすると言いましたのに」
　拗ねたような言い方だが、声音には笑みが含まれていて、その男は妙に機嫌が良さそうだった。

　数日前のことである。
　食事に毒が混ぜられていた。咄嗟に吐き出したものの、かなり毒性が強いものだったらしく、命には別状はないものの一時的に失明した。なんの毒かも検出することは難しく、視力がいつ戻るかも分からない。一時的なものだと断言したのは、おそらく今すぐそばに立っているだろう男だ。
「はい、口を開けてください」
　男は楽し気に言いながら、ラインハルトの唇に触れた。おとなしく促されるまま口を開く。すかさずスプーンが差し込まれた。肉のうまみが舌の上に広がる。
　ここまでスムーズに食事をとれるようになったのは、初日にさんざん押し問答したからだった。ひとりでもできるとラインハルトは主張したが、男は絶対に譲らなかった。結局根負けしたのはラインハルトである。あれ以上時間を無駄にするよりも良いとは思ったが、こんなに当然のように世話を焼かれるのもなんとも言い難い気持ちになる。

　食事を終えたあとは、口元を丁寧に拭われる。ついでといったようになにかを唇に塗られて、ラインハルトは眉をしかめた。保養のための薬と言われたが、疑わしいものだ。
　出かけるための支度も男が主導する。背後に立った男は、鼻歌を歌いながらラインハルトの髪をいじっているようだった。どうせ軍帽をかぶるのだから、無意味だというのに。
　暗闇の中、頭上からゆったりとした歌が降り注いでくる。なんだかんだ心地よく感じている気がしているのは錯覚だろう。
　櫛で髪を梳く音、テーブルに櫛を置く音、なにかの瓶を開けた音。髪に触れられた感触。ふわりと香る匂い。なにかを髪に塗られたようだった。やめてほしいとさすがに渋面を作る。抗議をしても、男は大丈夫と自信満々に言い切るだけでやめないので、数日経ったいまでは諦めた。
「一応言っておくが、この後はついてこなくても良い」
　失明した状態で仕事ができるわけもなく、今は目が見えない状態で出歩けるように慣らしている状態だった。一日に一時間くらい出かけて歩き回るだけだが。
「別に、良いでしょう。一緒に散歩するのは楽しいですよ」
「散歩ではない。……歩いている間、ずっと卿の蘊蓄を聞かされるこっちの身にもなってほしいがな」
　


「さあ、目を開いてください」
　暗闇の中でだれかの親指が、私の目のしたをなぞった。もう目は開いている。見えないものは見えない。
「いいえ、それはあなたがそう思い込んでいるだけ」
　目を開けたまま、もう一度目を開けろという。無理難題だ、と思いつつも、なぜか素直に従った。
　不思議な感覚だった。ないはずのふたつめのまぶたがあるように感じる。重たいそれを無理やり持ち上げると、きらきらと輝く星雲が視界にうつる。振り向かずとも背後に誰かがいる気配は感じた。
　ゆっくりと身をよじって背後に視線を向ける。まず見えたのは、見えない床を這う長い黒髪だった。豪奢な椅子の足。ひじ掛け。人の胴体。喉。顔。星々が内側できらめいているような宇宙の瞳。
　その顔を私は知っているような気がした。
　唐突に暗転する。
　一瞬の意識の空白のあと、私は自室の寝台で目を覚ましていた。
　あまりのまぶしさに咄嗟に目を細めるが、徐々に慣れると視力が戻っていることが分かる。
　妙な夢を見たなと結論付けた。