「人間に戻りたいのです。どうか、助けてください……!」
そういって蟲は前足(?)で目元(?)を覆って泣き崩れる。
カブトムシって喋るんだ……。なによりもまずそう思った。この探偵事務所で働き始めてから、いくつかの事件にかかわったが、こんなにしょっぱなから怪奇なのは初めてだ。
俺の新しい上司のほうは、蟲が喋ったくらいでは動じないらしい。優雅に紅茶を一口飲んで、カップをソーサーの上に戻している。
蟲の話をまとめるとこうだった。まだ人間だったころ、会社に向かう途中で頭に衝撃を受け気絶。目を覚ましたらカブトムシになっていたらしい。これは困ったと町中を彷徨い、どこぞの壁に貼ってあったオカルト大歓迎なこの事務所のチラシを見つけ、一縷の望みに賭けて飛んできたとか。
へー、と気の抜けた相槌を打つ。正直まだ現実が飲み込めていない。
俺はカブトムシをまじまじと見た。カブトムシは照れたように揺れた。照れるな。
「あんた、元はどんな外見だったんだよ」
探すんだったらそれくらいの情報は欲しいが、なにぶん今はカブトムシである。もとの姿がわかるものなんで持てるわけもない。
「えーと、そうですね。黒髪で……男で……スーツ着てました」
「薄すぎる! もっとなんか特徴だせ、特徴」
「そ、そんなこと言われましても、自分の外見特徴とか、分からないですよぉ……」
蟲が抗議するように縦に揺れる。
どうしたもんかなと頭を抱えたところで、上司が口を開いた。
「もしかして、これか?」
そう言いながら上司がスマホの画面を蟲にも見えるように、テーブルの上に置く。
蟲はよいしょと画面を覗き込んで、絹が裂かれたような悲鳴を上げた。
「なななな、なんですかこれ!? 確かに私の顔ですが!」
スマホの画面を確認すると、どうやらSNSサービスでの検索結果らしい。検索キーワードはこの一帯のランドマークと"奇行"だの"変な"だのといった単語を組み合わせだった。
検索結果に並んでいるのは目撃証言だ。写真や動画付きの投稿もあり、いたって凡庸な男が、街路樹にはりついているという奇行を激写されている。そんな写真が変な人いたという一言と共に投稿されているわけである。
俺は一気にこの蟲に同情した。誰だってこんなことで社会的に死にたくはないだろう。
「ふむ、徐々に移動しているようだな。それに……ふるまいも徐々に変化しているようだ」
検索結果を眺めながら、上司はそう言った。
「目撃証言をまとめて、整理したほうがいいだろうな」
金の瞳が俺を見る。心臓の鼓動が早まる。俺はただ頷いた。
上司がテーブルの上に広げた地図の上に蟲自身の証言をもとに気絶した位置や、目撃証言の位置に印をつけていく。
案外写真から分かるものはある。映っている建物や、角度など、情報は色々あるのだ。
「えーと、ここは……このコンビニと薬局が並んでいるから……このあたりか」
SNSの投稿を確かめては、地図に書き込む。その作業を繰り返しているうちに、俺は集中しすぎていたらしい。次にそれ以外に意識が向いたのは、唐突に兄の名が耳に飛び込んできた時だった。
「カール」
あいつがここに!?
俺はぎょっとしてあたりを見回し、おもしろげにしている上司を見つけた。
「な、なんだよ」
「ああ、いや、すまない。卿がカールに似ているから、つい、間違えてしまった」
あっさりと謝られて、なんとも言い難い気持ちで曖昧に頷く。間違えられたことを怒っているわけではないし、事実として兄と俺は顔が似ているのだからそういうこともあるだろう。しかし、なんだろう。妙に居心地が悪い。
ふと蟲のほうを見ると、首をかしげているような動作をしたが、なにぶん蟲なので、本当にそうなのかは分からなかった。
「現在地の予想もできたし、あとは現地に行って調べる」
上司がそう言った。
目撃証言をたどると、奇行を繰り返していた男は、移動を繰り返しつつ、徐々に普通の人間らしく振舞っているようだ。SNSの目撃を頼りに追えなくなり始めている。
カブトムシを肩に乗せて、上司の後を追う。
人生でカブトムシを肩に乗せる日が来るなんて思わなかったな……と若干の感慨に浸る。
「今までの移動速度と方向を考えたらこのあたりだろう」
あたりには飲食店などが並んでいる。昼時のためか、人通りは多い。
俺はこの小一時間で見慣れた顔がその中に無いか、道を行く人々を確認した。
「……あれじゃね?」
案外あっさり見つかった。あっさりというか、なんか妙なことをしていたために否が応でも視界に入った。
飲食店の合間にある公園で、木に登っているスーツの男がいた。なんでそんな木に執着してるんだよ。蟲か。…………蟲だったな。
「わああああ、スーツが……! スーツがずたぼろに……!! 高いやつなんですよあれ……!」
男が身に纏っているスーツは、擦過傷や汚れが付着して、ぼろぼろになっている。
蟲はおいおいと泣いた。
近づくと、その男は木から離れて、近づいてきた。
「おお! 私の元の体をよく連れてきてくれた……!」
元は蟲なのに流暢に喋っている。驚きつつも、どうやら相手ももとに戻る気はあるらしいと思った。
「頭をぶつけてうっかり精神が入れ替わったと……」
ひとまず探偵事務所に戻って話を聞くと、そういう説明をされた。
へー、と今日で一番実感がない相槌が出た。
蟲はただの蟲ではなかった。その体はカブトムシなのだが、中身はなんでもはるか昔から存在している精神生命体。
木に執着してたのは、蟲の体で長期間過ごしすぎて、木がかなり魅力的に感じるようになってしまったからだとか。
「まあ分かったけど、どうやって戻るんだ?」
「それが困ったことに、私は自分の精神を移動させることはできるが、他者の精神を移動させたことはないんだ」
「そ、そんな~! 私一生カブトムシなんですか!?」
めしょめしょと元人間の蟲が悲痛な叫び声をあげる。
上司は少し考えたあと、むんずとカブトムシを掴んだ。
「え!? ど、どうされました!?」
「つまり、入れ替わった原因を試してみればいいんじゃないか?」
言い終わるよりも前に、上司はもう動いていた。勢いよくカブトムシをスーツの男の頭に投げつける。妙ににぶい打撃音と共に、スーツの男は勢いよく倒れこんだ。
今の、人間が出していい音じゃないだろ……。
様子をうかがうと、一瞬の痙攣ののちに頭のぶつけた部分をさすり始めたので、生きてはいるらしい。カブトムシのほうは床の上でひっくり返っている。生きているんだろうな……?
起き上がった人間の体は、自身の両手を見下ろしたあと、体のあちこちを調べて、こう言った。
「戻ってます! やったあ! 戻ってますよ!!」
浮かれてにこにこと笑う人間の体に、うまくいったなと上司が笑う。
オカルト事件、そんな物理で解決していいんだ……と俺は思った。
これで万事解決と思っていたが、なんとそのあと人間の体にどちらの精神も残ったままと発覚した。
日常生活に支障はないので、これからは同じ体に同居することにしたらしい。
それでいいのか?と思ったが、依頼人が一人暮らしの生活に話し相手出来て楽しいと言っていたので、まあいいんだろう。
その数日後のことである。
事務所であるカフェに入った俺は、いつもの席に座っている上司の様子がおかしいことに気が付いた。
上司は基本的に笑顔が絶えない男だ。しかしその日は妙に機嫌が悪そうだった。いや、表情がないためにそう見えたんだろう。鬱陶しそうに長い金髪をかきあげて、耳にかけながら、なにかの書類を見ていた。
声をかけると、上司の金の瞳がこちらを向く。
「卿か」
だれだと思ったんだと藪蛇はつつかなかった。
「何見てんの?次の依頼?」
少し考え込んだあと、上司は書類を俺に見せた。
卒業アルバムのページをスキャンしたものらしい。見覚えのある顔がいくつもある。元クラスメイトだ。遅れて記憶の中からクラスメイトの名前と人生背景が浮かび上がる。
「もしかして次の依頼人、俺と同じ学校に通ってたやつ?」
「……まだ確定ではない。もしかしたら依頼を受けるかもしれない」
「ふーん、こういうのに巻き込まれそうなのって誰なんだ」
「そういえば、卿はいないようだな、この中に」
「なんだっけ、ああ、そう、体調崩してさ。写真撮る日に休んだんだ」
アルバムに自分がいない理由が、遅れて記憶の中から浮かび上がった。
バイトが去ったのを確認して、金髪の男はもう一度卒業アルバムのコピーに視線を落とす。
「全然違うだろう」
「……どうだか」
自身の口からこぼれ出た言葉に、ぽつりと返事をつぶやいた。