秘密の『 I love you 』「かの人は、『 I love you 』を『月が綺麗ですね』と訳したわけだけれど…そこの辺り、朔夜くんはどう思うかね?」
「なんなんだ、その口調……それに、別にどうとも思わないが」
学院から、菩提樹寮への帰り道。
日が長くなってきたとは言え、熱の入った練習を終えた今、空は隙間なく濃紺に塗りたくられ、星は無数に瞬いている。
朝日奈の言葉を受け空へ視線を投げるが、新月なのか、今宵の空に月は見当たらない。
ますます何故彼女がその話題を出したのか、ただ謎が深まるばかりだった。
「『月が綺麗ですね』も、もちろんロマンチックで素敵なんだけど…これには唯一、けれど最大の弱点があるのだよ…」
「…弱点?」
隣を歩く朝日奈が、鼻息荒く拳を握る。
『月が綺麗ですね』に弱点も何もないだろうに。
彼女の思考回路はだいたい理解不能で何故そう考えるに至ったかなんて毎度皆目見当もつかなかったが、今日も今日とてやはり意味が分からなかった。
彼女を理解しようなんて、とうの昔に諦めているので適当に相槌を打つに限る。
「そう…『月が綺麗ですね』は当然月が出ている時にしか使えない、ということしかも、夜限定…
私としては、いつだってどこだって朔夜に『 I love you』を伝えたいわけで…」
「は?…いや、ちょっと待ってくれ…」
何故、朝日奈が自分に『 I love you』を伝える必要があるのか。
しかも四六時中、所所在在。
突飛な言動にも慣れたと思ったが、彼女の奇々怪々は予想の遥か上を越えていた。
こちらの制止など意にも介さず、朝日奈は得意気に言葉を続ける。
「だから、私が『 I love you 』を訳すとしたら…」
「『朔夜のヴァイオリンが聴きたい』」
「…っ、」
「これなら、月が出てなくても朝でも夜でも、いつだって朔夜に『 I love you 』が伝えられる上に、実際に朔夜のヴァイオリンも聴けちゃう!一石二鳥」
さすが私!と胸を張る朝日奈に、言葉が詰まる。
なんだそれ。それはただの君の要望だろう。
言いたいことはたくさんあるのに、どれも音になることはなく。
心臓は早鐘を打ち、そのせいで体中を駆け巡る血が加速して、全身に熱が回る。
頭の中でいろんな思考が絡み合う中、かろうじて発することができた言葉は、
「……なんで俺のヴァイオリンが聴ける前提なんだ」
「え、弾いてくれないの…」
それは予想してなかった、と言わんばかりに目を丸くして、朝日奈が衝撃を受けたようにこちらを見上げる。
ポカンと間の抜けた顔の朝日奈に、そんな彼女に振り回されている自分に、なぜだかだんだんと笑いが込み上げてきた。
本当、なんなんだ、君は。
本当、どうしたんだ、俺は。
こんなにも感情を乱されて。
「な、なんで笑うの」
「いや…、ふっ……君の顔が面白くて」
「私、そんな面白い顔してたどんな顔」
「ああ。鳩が豆鉄砲を食ったような」
「豆鉄砲…っていうか、豆鉄砲って何…?鳩が豆鉄砲を食べるのかな?」
「この場合の食ったは、『食べた』じゃなくて『撃たれた』らしい」
「へぇ、よく知ってるね!さすが朔夜」
目まぐるしく変わっていく話題。
刻々と変わる彼女の表情。
こんなにもペースを狂わされて。
こんなにも、
それが何故か、こんなにも心地良い、なんて。
「そういえば、『月が綺麗ですね』の返しは『死んでもいいわ』があるけど、私は朔夜に死んでほしくないからなー」
「……俺だって死にたくない」
「じゃあ、朔夜ならなんて訳す?」
「……………俺なら、」
「朔夜ー私、『朔夜のヴァイオリンが聴きたい』」
「俺は…『君と…一緒に弾きたい』」
「…うん、一緒にいっぱい弾こう…えへへ」
「っ…、ほら、早く…」
「…先輩、なんだかいつにも増して嬉しそうですね」
「なんか九条、顔が赤くね?」
「朝日奈さんがあんなに幸せそうなんだもの。きっといいことがあったのね」