あの日、君がくれた幸せを「終わったね~…でも、まだ夢の中にいるみたい」
本人の言うとおり、未だどことなく夢見心地な彼女の声音。彼女の言うことも分からなくはない。あんなにも華やかで、煌めいて、幸せを具現化したような時間。まさか自分が、しかも彼女の隣でそれを体験するとは思ってもみなかった。自分でも、柄にもなく浮き足立っているのが分かる。
「いやー、緊張したなー…コンサートより緊張したかも」
「君が?あんなに楽しそうにしてたのに」
「そりゃあ、もちろん楽しかったけど…おそらくたぶんきっと、一生に一度の晴れ舞台だよ?緊張もするよー」
「……」
冗談冗談、と彼女が悪戯っぽく口の端を上げて笑う。
「断じて絶対間違いなく、最初で最後の晴れ舞台だよ。……朔夜も、そうだと嬉しいな」
「……言われなくても、最初で最後に決まってる」
君以外の隣なんて、想像もつかないのに。
彼女は一瞬目を丸くして、ふっと嬉しそうに微笑った。先ほどよりも明らかに足取り軽く、なんなら本当にスキップをしかねない勢いの彼女に苦笑しつつも、こんな日の彼女の些細な不安を取り除けたらしいことに心底ほっとした。
予約していたホテルに着き、チェックインを済ます。前から一緒に住んでいるし、そのまま帰っても良かったが、今日は特別な日だから、とホテルを予約していた。
実際、疲れているし、荷物も多いから、ホテルを取っておいて正解だった。というのももちろん本音だが、まだしばらくこの空気に浸っていたい、と思うくらいには気分が高揚しているらしい。
それに、
「(……渡したいものもある)」
煌びやかなホテルに嬉々と喜ぶ彼女の横で、人知れず深呼吸をした。
エレベーターに乗り込み、目的の階のボタンを押す。ゆっくりと閉まるドア。
動き始めた箱の中、彼女はふと、自身の左手を目の前に掲げた。
その薬指には、今日、たった数時間前、お互いに交換しあった環が煌めいていた。サイズは違えど自分の薬指に収まるそれと同じもののはずなのに、彼女のそれのほうがずっと輝いて見えた。無意識なのか、彼女は、それは愛おしそう見つめるから、何故だかこちらがくすぐったいような気分になる。
「あ」
何かに気づいたらしい彼女が勢い良くこちらを振り向いた。思わず首を傾げれば、彼女の左手がそっと俺の左手を取る。数時間前、この指に指環をはめてくれた時のように。
「?」
「これ、初めてのお揃いじゃない」
瞳をキラキラと輝かせ、世紀の大発見をしたと言わんばかりの彼女の興奮ぶり。何故だか昔を思い出して、思わず笑いが込み上げる。
「……ふ、」
「え、なんで笑うの」
あの頃に比べて、見た目は随分と落ち着いた大人の女性に変わったというのに、こういうところは前と変わらない。それに安心しているのは他でもない、自分。
「いや…君は変わらないな、と思って」
「……朔夜はよく笑うようになったね」
「……え、」
「前から朔夜のことはとっても好きだけど、今の朔夜はもっと好き」
口を開くが、気の利いた言葉が出てこない。そうこうしている間に、エレベーターが目的の階に着いたことを知らせる。気恥ずかしくなったのか、彼女は「ほら、着いたよ!」と、エレベーターのドアが開くのと同時に、繋いだままだった手を引っ張った。
柔らかな絨毯の上、足音もなく降り立つ。背後でゆっくりと閉まる、エレベーターのドア。舞い降りる沈黙。未だ握ったままの手。
「……部屋、どっちだっけ?」
「……こっち」
部屋の番号を確認しながら、ゆっくりと握ったままの手を引っ張れば、その手はあっさりと付いてきた。その歩調は、すぐに一緒になる。
「そ、そういえば竜崎くん、すごく泣いてたね私の親より泣いてたよ」
照れ隠しで口調が早くなるのは、彼女の昔からの癖。周りの客室に配慮してか、その声は小さい。
「拓斗くんも蒼司くんも涙ぐんでたし……なんだか私まで泣きそうになっちゃった」
私たち愛されてるね、と恥ずかしそうに、けれどそれ以上に嬉しそうに彼女は言った。
本当に有難い事だと思う。自分たちが青春時代を過ごしたスターライトオーケストラは、仲間に恵まれていた。その仲間を集めたのは、彼女の音、彼女自身が放つ眩しいくらいの光。そして、彼女の音に、彼女自身に惹かれていたのは、恐らく自分だけではないはずだ。
だから、分かる。彼らの思いが。
もし、自分が彼らの立場だったなら、きっと願わずにはいられない
彼女が誰の隣を選んでも、ただただ幸せな未来を、と
……だから、自分も覚悟を決めなければならない
「朔夜?」
いつの間にか辿り着いていた部屋の前。なかなか入ろうとしない俺に、彼女は不思議そうに首を傾げる。
「……いや、何でもないよ。入ろう」
足を踏み入れて、灯りを点ける。
「わぁ、」
暖色の灯りに満たされた部屋は、想像していたよりも広く豪華だった。彼女も感嘆の声を漏らしながら、部屋の中をキョロキョロと見回している。
「……あれ?」
そして、ある物に気づいた。部屋の中央で存在感を放つ大きなベッドの上。綺麗に整えられたシーツの上に置かれた、それを。
「花束……?誰が?」
彼女が花束に近づく。贈り主を調べようと花束を手にして、ふと動きを止める。
「あれ……これ、って……」
「唯」
彼女がバッとこちらを振り向いた。
「……君が昔くれた花束、いつか返そうとずっと思ってた。あの日、君がくれた幸せを」
彼女の持つそれは、白い花を基調としたブーケ。昔、スターライトオーケストラがブライダルフェアの手伝いをした時に花嫁役の彼女がもらい、俺にくれたもの。随分昔のことだから、あまり記憶に自信は無かったが、彼女も思い出してくれるくらいには、あの時のブーケを再現出来たらしい。
「……“結婚”したからと言って、必ず幸せになれるとは限らない」
彼女の肩がビクリと震える。
あの時言ったことは本心だし、今もその気持ちは変わらない。けれど、
「……君と……君と二人なら、きっと幸せになれると思う」
何度でも誓う
病めるときも健やかなる時も、いつまでも君と共に在りたい