不器用な二人 二月半ば。最近は冷える日が多かったが、なぜか今日は少し気温が暖かかった。これならば昨日よりは良い音が出せるかもしれないと、俺は淡い期待を抱きながら準備を始めたのだが。
――そう、うまくはいかない、か。
オーボエの音色が響く。管内外の温度差によって、ひびが入ったり割れてしまったりする事を防ぐために、演奏前に充分に温めておいたものの……やはりと言うべきか、望むような良い音は出せなかった。
寒い季節柄、外で演奏するとどうしても楽器が冷えて音程が下がってしまうのは避けられない事だとは分かっている。ただそんな状況でも、良い音を奏でる方法はあるはずなのに――。
「……はぁ」
あまり長引かせるとまた楽器が冷えてしまう。どこかすっきりしない気持ちで一旦、演奏を終えると、ぱちぱちと近くから拍手が聞こえた。音のした方を振り返ると、そこにはコンミスの姿があった。拍手の主もどうやら彼女らしい。
「鷲上くん。練習お疲れ様!」
集中していたためか、近くに彼女が来ていたことに気が付かなかった。いつから聞いていたのだろう。
「……コンミス。お疲れ様」
笑顔で駆け寄ってきて、俺を見上げる瞳に、沈んだ気持ちを晴らすような明るい声色に、心がふっとあたたかくなる。
「君も、ここで練習を……?」
問いかけて、彼女が手に持っている物がヴァイオリンケースだけではないことに気がつく。
いつもは手にしていない紙袋。視線を注がずにはいられない、ピンクや赤の色鮮やかなハートが散らばっているキラキラとしたデザイン。
――そういえば最近、よく同じようなものを街中で見かける気がする。流行っているものなのだろうか?
「うん! と、その前に渡したいなと思って探してたんだ」
問いかけは言葉にならなかったが、ガサゴソと、彼女が持っていた紙袋の中から、何かが取り出される。
「はいっ! ちょっと見た目と形はわるいかもしれないけど、味見はちゃんとしたから、大丈夫だと思うよ!」
にこやかな笑顔でそう言いながら差し出された物。俺は持っていたオーボエを慎重にケースにしまってから、それを眺めて疑問に思う。
――どうして彼女は、これを俺にくれるというのだろう。
コンミスからは何度かプレゼントを貰ったことはあるが、それは楽器の手入れに必要なオイルや道具だったり、外で演奏をする時用の楽譜クリップだったり、実用的なものが多かった。時折、ご当地の何かしらだったこともあるが、今回の物は……どこかの名産品というわけでもなさそうだ。
包みには光沢のある綺麗なリボンで装飾がされていて、透明な袋越しに見える中には、明らかに市販ではなさそうな、歪な形をした黒茶色の塊があった。彼女が味見をしたと言っていたし、おそらく手作りの食べ物。かすかに甘い香りがして、それが何なのかに気づく。
気づいて、何か分かったからこそ、尚更に不思議だった。俺は、甘いものは特に好物という訳でもない。
「チョコレートを、俺に? なぜ…………」
「あ〜……ええーと、その」
今日は二月十四日。バレンタインだから手渡したかったのだと、彼女は言う。
「……受け取って、くれる?」
頬を染めて、照れくさそうに、柔らかい笑みを浮かべて。
「ああ、今日はバレンタインなのか。ではありがたく受け取っておく」
それは俺にとって、今までまったく縁のなかったもので、手渡された物も、渡された理由も、すぐには思い至らなかった。けれど彼女の言葉を聞いて、彼女の顔を見て、受け取った包みの中身をいざ意識すると、胸の奥が熱くなってくる。
先程あたたかくなった時はほんのりと小さな火が優しく灯るようだったのに、今度は何かが強く焼かれるような、そんな熱さだ。
「……………………」
バレンタインデー。世間では、日頃の感謝の気持ちをチョコレートに込めて親しい相手に手渡す日だと、そのくらいの知識はあった。それから女性が恋しい相手に、想いを伝える日でもあると……。
思わず期待に鼓動が鳴る。貰ったチョコレートをまじまじと見つめてしまう。これは一体どちらの意味での物なのだろう。
――まさかとは思うが、もしも、考えた通りだったとしたら? いやそうでなくとも、どちらにしても、わざわざ俺を探して、これを……?
「――わ、鷲上くん……!」
じわじわと込み上げてくる、えも言われぬ嬉しさを感じながらしばらく考えていると、不意に震えた声が告げた。
はっとして、声の主である彼女を見る。
「……どうかしたか?」
「あの、こういうの迷惑だった? い、要らなかったら、……自分で食べるから、無理しなくていいよっ?」
申し訳なさそうに包みに手を伸ばされる。口元は笑みをつくっているようだったが、彼女の顔は青ざめていて、明らかに元気が無さそうだ。先程までとはまったく違う。
そうさせてしまったのは明らかに俺の態度のせいだと、すぐに気がついた。
「迷惑だったか……とは――なぜだ、コンミス」
俺は驚き、焦った。迷惑でもないし、要らなくなんてないのに。まさか、そんなふうに誤解をされてしまうとは。
感情が顔に出ないと、内なる気持ちは気取られもしない。それどころか、真逆に受け取られてしまう。俺は体格のせいで怖がられることも沢山ある。そういったことに慣れてはいる、けれど今、彼女にそんなふうに勘違いをされてしまっては、困る。
――ああ、この気持ちをどう言い表せばいいのだろう?
「俺は…………」
どこか悲しそうな眼差しを見ていられなくて彼女から視線を外すが、それでもちゃんと伝わるように願いを込めて、懸命に言葉を探した。
「俺は、嬉しかったんだが、この上なく」
彼女に近付くと、包みに伸ばされていた手を掴む。触れた彼女の指先はとても冷えていた。
「……すまない。気持ちを形にするのは難しいな」
気持ちが伝わるようにと、それから少しは温まるだろうかと、ぎゅっと握ってみせる。視線を向けると、彼女は驚いたように瞬きをして俺を見上げていた。
とくんと心臓の音が鳴る。
「嬉しくて……言葉にならないんだ」
――難しいけれど、伝えないと。俺が何をどう、想っているのかを。
「……本当にありがとう。君のおかげで最高の一日になった」
と、精一杯の言葉で告げたところで、彼女の手がぶわっと一気に熱くなった。
「そっ――……そそそ、そっか!? それなら良かったよ!」
どこか焦った様子でこくこくと何度も頷きを繰り返す彼女の顔が赤く染まっていく。なぜかはわからないが、先程の青ざめた表情とは打って変わって、血色もずいぶんと良くなったようだ。
それを見てほっとした気持ちで、良かったと頬が緩んだ。
「貰ったチョコレートは、後でゆっくり味わうとする」
「う、うん! あっ。一応生ものだから、早めに食べてね!」
「ああ。…………」
誤解はとけたようで安心だ。けれどその先の言葉が浮かばず続かない。さて何を言えばいいものか――二度目の沈黙を破ったのは、やはり彼女の声だった。
「あ、あの〜、鷲上くん? そろそろ、手を……」
「――! す、すまない」
「ううん。謝らなくても大丈夫だよ、全然!」
ずっと彼女の手を掴んだままだった。それに距離も近い。思わずとはいえ、不躾な行動だった。申し訳ないと謝りながら離せば、彼女はその手を胸元に添えて、俯いて首を横に振った。
そしていつも凛々しくはきはきと話すことの多い彼女が、らしくもなく、小さくボソリと呟く。距離を離したせいで上手く聞き取れなかったその言葉が、「嬉しかったから……」と聞こえた気がしたのは――俺の思い込みだろうか?
「……コンミス、…………」
胸が熱くなるものの、俺の都合のいい聞き間違えかもしれないと思うと、喉の奥につっかえて尋ねることができない。
じっと彼女の顔を見つめて、代わりにひねり出した言葉は、別の内容だった。
「――君もそろそろ、練習するか?」
「へっ? あ、うん! そうしようかな?」
思わずといった調子ですぐさま彼女が頷く。その様子に俺も頷いてみせる。
「だったら……ここで聴いていてもいいだろうか? それから君さえ良ければ、後で、音を合わせたい」
「! うん、もちろん! 一緒に練習しよう!」
誘いをかけると、嬉しそうに彼女の笑顔が弾けた。それを見て、また胸の奥が熱くなる。この気持ちはきっと――
「……ああ」
――今はまだ、うまく言葉にならない。
だったら、熱い気持ちは、すべて音に込めよう。言葉にならないものも演奏でならば、上手く伝わりそうな気がする。
ヴァイオリンをケースから取り出し、奏で始めた彼女の綺麗な音に耳を傾けながら、一人では良い音にならなくてもコンミスと共に奏でるのならば。何かが見つかるかもしれないと、俺は考えていた。他ならぬ、彼女と一緒ならば……。
■おまけ(一緒に演奏することになって……)
「オーボエ、もう冷えちゃった?」
「ああ。でも大丈夫だ。君の綺麗な音を聴いていると胸が熱くなるから、しばらく懐に入れていれば、じきに温まる」
「そ、そう……」
「コンミスも、冷えたら言うといい。指先くらいなら、温められる」
「っ〜〜……わしがみくん、そういうとこあるよね……!?」
「? そういうとこ、とは」
「や、何でもない! じゃあ弾くから、聴いててね。感想よろしく!」
……みたいな会話も入れたかったけど入らなかった。体格見た目大違いだけど、二人とも二年生で同級生だから、対等な感じでお話できるといいなぁ。早く出会いたい。(と思っていたリリース当時)