初音 赤とは燃える炎の明るさ。それを思い出さずにいられないほど鮮烈な赤髪が、さらさらと書卓に落ちていく。その気配に女官がちろりと視線を向けると、頬杖をつき項垂れた主が苦々しい表情を浮かべていた。読めない文字、知らない言葉があっただろうか。物を知らぬ女王と侮る者もいるけれど、国のために根を詰める主君を見れば敬愛の念は芽生えるものだ。
女官がお茶と茶菓子を用意すると、女王は苦笑しながらありがとうと囁く。蓬莱での癖が抜けないので、バレないように声を潜める新しい癖が出来てしまった。
ホォー、キョ?
磨かれた指先が菓子を摘んだとき、庭院からなんとも間抜けな声がした。暦の上で黄鶯睍睆を迎えて数日、ようやく聞こえた初音に陽子は失笑する。
「下手な鶯もいるんだな」
「まだ若いのでしょう」
「へぇ」
穏やかに相槌を打つ彼女は女王と形容するよりも年相応の素直な少女に見えた。もうひとつ鶯が調子の外れた声で鳴く。
「台輔にお任せなさいませ」
女王のあたたかな気安さに、女官がほろりと言葉をこぼした。
どうして景麒が出てくるんだ。
陽子は疑問を口にしたけれど、女官にはぐらかされてしまっていた。心に引っかかったまま数日。彼女は梅の香りを微風が運ぶ庭院で答えを見つけた。
その日、陽子が政務の合間に時間を見つけ桓魋に稽古をつけてもらおうかと考えたとき
ホー。ケキョキキョッ。
とまた、不器用な鳴き声がしたのだった。ここにも分からないなりに頑張っているものがいるのだと、陽子は妙に励まされたような心地になる。本来なら上手く鳴く鳥だけを放すのだと祥瓊は憤慨していたけれど。
ホー、ホケキョ。
すると、これがお手本とばかりに声が続いた。声音が違ったのと、なによりここしばらく聞いてきた下手が急に成長するとは思えない。別の鶯だろう。指導しているのだろうか。そう考えているうちにも間抜けな声がする。上手な方が鳴く。何故だか好奇心がくすぐられた。積翠台を出て回廊を歩き、声の元を探す。彼女を待つように、2羽のやり取りは続いていた。庭院を歩き門をくぐり建物を通り過ぎ、いくつ目かの回廊の角を曲がる。
不意に梅の香り。
導かれるまま進むと知らない園林に出た。陽子から見て手前に池があり、奥に梅の木が並び、初春のやわらかい光がたっぷりと満ちている。感嘆の吐息が漏れた。水墨画で描かれたままのような見事な枝振りが、繊細な白い花を纏っている。その下に景麒が座っていた。地べたに座るなど珍しいと陽子は小さく驚く。彼は二胡のようなものを持っていた。
ホーォ。ケキョ。
声がする。きっと梅の枝にとまっているだろう。陽子の見つめる先で景麒は弓を滑らせる。
彼の性質をよく表した、生真面目に正道をなぞる音色。紛れもない、この麒麟が鳴き方を教えていたのだ。面白いような意外なような、納得できたような。初春の空を水面に湛えた池の橋を渡りきる頃、当然というふうに景麒は立ち上がった。受け入れはするが、歩み寄ってこないところが彼らしい。
玉砂利の小気味いい音をさせて陽子が花の下へ着くと、景麒はいつも通り美しい礼をした。
景麒を座らせ、自分も隣に腰を下ろす。景麒は何か言おうとしたが、自分自身の行いを思い出したか口を噤んだ。罰の悪そうにしているのを見て、陽子は楽しそうにくすくす笑った。
「鳴き方を教えていたのか。楽器ができるなんて知らなかった」
「できるのは鶯の鳴き真似だけです」
「へぇ」
演奏を学ぶにしても、曲ではなく鳥の声を選ぶとはどういうことだろうか。麒麟だからか、それとも彼だからか、不思議な生き物だと思う。
隣の梅の枝が揺れる。鶯が居場所を移したらしい。
陽子は景麒の膝にある二胡を見やった。上等な黒檀が艶々として、弦を張った棹がスッと伸びている様は持ち主の姿勢のよさを思わせる。2本の弦に弓毛が挟まれているのでやはり二胡らしいと、授業の記憶を引っ張り出して結論した。
「その弓は、まさか景麒の?」
「はい」
弓に張るのは馬の毛。しかし景麒の手の中にある弓毛は薄い金色。弓の端には飾り結びがいくつかと房飾りが垂れている。すべて、彼の顔を縁どり背に流れるものと同じ色をしていた。……この弓を拵えるために切った訳ではないだろう。泰麒帰還の際、鬣のあまりの短さに心痛めていた麒麟たちを陽子は思い出す。麒麟が鬣を切るなら余程のことだ。
陽子は景麒の横顔を見つめたけれど、彼は人形のように澄ましている。
ホー……。
頭上で鶯が、途中で鳴くのをやめてしまう。それが自分のようで、あるいはこの無愛想な臣下のようで、陽子は溜息を吐いた。景麒はその白く細長い指で房飾りを撫でた。そして悼むように目を伏せる。
「主上」
その姿勢のまま彼は呼びかけた。主の顔を見る勇気がないのだろうかと思って、うん、と陽子はやさしげに相槌を打つ。
「私は言葉が足りませんので、お聞きになりたいことはその都度お尋ねくださいませ」
「自覚があったのか!」
「主上は私を何とお思いか」
はっと目を見開いた陽子に、むっと不機嫌を露わに景麒が顔を上げた。やや見つめあって、王は笑い麒麟は困ったように顔を顰める。ふたりの間にあった空気は一変してしまった。冷たい風が頬を撫でて、これが主の長所であろうと景麒は思い直す。ならば仕方ない。
「あぁ、すまない景麒」
陽子は一頻りくつくつ笑って、はぁ、と息を吐く。今一度自分の半身を真っ直ぐに見つめた。
「何があった。景麒が話したくないならいいが……こうして見てしまった」
心配のあまりいっそ情けないような顔をする陽子に、景麒はただ首肯した。こんなにもころころと表情を変えるこのひとが好ましい。主の表情が映ったように眉尻を下げる。
「失道の病床で、焼き切りました」
「……自分で?」
「ええ。記憶はないのですが、黄医の目を盗んで鬣に火をつけたと聞きました。その火を握り潰して、千切ったと」
眉間にしわを寄せる陽子に何を感じているのだろう、景麒が遠くを見るように目を細めた。
「どうして、そんなことを」
「女仙にも散々叱られました」
陽子は愕然とした。あまりの内容に呻くような心地で訊いたのを、これは叱責と捉えたのか。
「責めているんじゃない。理由を知りたい」
翠の瞳に強い生命の光がある。時にその強さを受け止められず目を逸らしてしまう程の覇気を持つようになった主に、景麒は心のうちで頭を下げた。呼吸を整える。
「これを王に差し上げよと」
紫の瞳が陰るのを、彼は隠し通せなかった。今は亡きひとを語ると舌が苦い。王座ではなく機織りを選んだ先王。彼女から平穏な人生を取り上げておきながら、何もできなかった。誉れ高い麒麟の鬣ならどの金糸にも勝ると、熱に身体を焼かれながら考えたのかもしれない。
「最期に喜んでいただきたかった」
それだけは覚えていた。寒風が梅を揺らして香りが舞う。陽子は息を飲んだ。失道の凄まじさ、この冷淡な麒麟の激しい情念、なによりその鬣がここにあることの意味に眩暈がしそうだった。景麒は死者を悼む静かな面持ちをしている。陽子が探しても恨みなど見えなかった。
麒麟は天意の器に過ぎない。天意に定められた枠組みのなかで動くしかないと景麒は考えていた。しかし、そう教えたはずの泰麒は王のため剣を振るって見せた。……もっと、何かできたのではないか。その思いは強くなるばかり。身を貫かれ動けなくなってしまうことさえある。
後悔していると言えば喪われたものに対して失礼に過ぎる。そして自ら道を切り拓く主の努力を軽んじることになる。
弓を滑らせている。
国をみすみす傾けた罪を手に、自らのなすべきことを掴めない。王宮で誰にも心開けなかった先王をなぞるように。
景麒。
と、自分を呼ぶ声がしてふわりと意識を浮かばせた。すみません、と、曖昧に謝罪する。
弓に添えられていた白い手を陽子が掬う。景麒がはっとしたときには、掌を指の腹で撫でられている。
「火傷は痛かっただろう」
「いえ、覚えておりませんので」
努めて淡々と景麒は答えた。主の顔が強張るのが分かったけれど、そのような思いをさせたい訳ではない。知らず、ため息が出た。多くの麒麟が王を選ぶ前に身につけているようなことが、自分にはどうしても難しい。
「まったく景麒は……。つらいときはつらいと言え」
景麒を見つめる翡翠に悲しみか怒りか、鮮やかな炎が揺れている。それが暗い色をしていないのは彼女の強い心根故だろう。
陽子の両手が冷えた手をやわく包む。景麒は少女らしい小さな手に生命の熱を、剣が固めた皮膚を感じた。まさしく王の手。彼女の隣にいると、日差しまでもが王気のようにあたたかい。
「王のおそばにいる麒麟に、つらいことなどありません」
ただ、身を切られるほど今日の空は青い。
目を伏せる景麒に
そうか。
と陽子は小さく言って、彼の手を強く握って離す。そっと膝立ちになり金色の鬣を撫でる。真珠を薄く金で染めたかのように様々な色を散らす、この色彩が愛おしい。
「よかったら、なにか曲を覚えて聞かせてくれないか。春の朝焼けが似合うようなものがいい」
「そんな暇など」
「国が安定したら暇ができるだろう。それからでいい」
やさしく降ってくる声に景麒は何も言わず、静かに頷いた。目を閉じると鮮やかな春曙が目前に迫るようだった。その美しさは彼女に似ている。
そのときになったら話をしようと麒麟は夢想した。5年後か、30年後か、未来がある、そのためにお仕えできるしあわせに涙しそうだった。療養中の蓬山の臥室に鶯が来たこと。国を傾けた麒麟を憎みながら鬣を打ち捨てられず、二胡に変えて差し出してきた天官を憐れに思うこと。……この飾り結びは回復と長寿の願いであること。
彼は景麒が曲を覚えるまで、若い鶯を放ち続けるだろう。