奈落の連理 静かだった空間に突如として何かの咆哮と破壊音が響き、土煙が噴き上がる。直後、それを掻き分けるように飛び出した二人の男女が全速力で咆哮の主から距離を取ろうと駆けていた。
「メグミ! それ落とすんじゃないわよ!」
「分かってるッ」
子どもから大人へなりつつあるくらいの見目をした彼等。メグミは腕に収めた今日の成果……アビスと呼ばれるこの大穴に眠る遺物をガッチリと抱え直す。
彼等は探掘家だ。謎だらけの大穴(アビス)へ潜り、調査し、遺物を持ち帰るのが主な仕事。見習い(赤笛)から抜け出してようやく一人前(蒼笛)となったが、師や先輩や友人にも恵まれ、徐々に経験を積んでいる所である。
「てかあの馬鹿どこ居るの!? デートか? またデートなのか!?」
「一応探掘するとは言ってたけどな……!」
「ぜっってーーデートになってるだろ! 愛の巣まで救援要請しに行くとか不可能なんだけど!?」
そんな二人の背後から迫る巨大な生き物は原生生物と呼ばれる大穴の住人。その中でも凶悪な生態や図体を持つ種は生身の人間がどうこう出来るような相手ではない。イチ人間である彼等では後ろのデカブツから全速力で逃げる事しか出来なかった。
しかも追手は本来深界三層、つまりここより一つ下層に棲んでいるはず。蒼笛は二層までしか行けないので普段はお目にかかる事の無い相手だ。気紛れなのか時折上層での目撃情報が上がるとはいえ、一層ごとに環境や生態、過酷さが跳ね上がるアビスにおいてこの遭遇は死活問題となる。
だからアレに対処出来る相手……自分達の友人であり同行者の元へ向かう必要があるのだが。
「そういえば今日は巣に居るか分かんねえぞ! この間、地図見ながら行ってみたい所ピックアップしてた!」
「デートスポット探してんじゃねーよ!」
その友人は現在単独行動中。厳密に言うと二人行動となっているはずだが、友人と一緒に居る相手は人間ではない。いや、友人自身も人間かは怪しいが一応今の所は地上で人間として暮らしているので人間枠。
だから問題はそのお相手なのだ。突如深層(恐らく六層以上の深さ)から一層にひょっこり現れ、謎多き生態故に数多の研究者と探掘家の好奇心やら欲望やらを掻き立てた存在。
あろう事か、友人はそんな生物に求愛をされている。それはもう熱心に、熱烈に。これで友人が迷惑していれば二人も対応を考えたが、満更でもないのが丸分かりなのだ。探掘前はソワソワして、迎えに来られたらモジモジして、別れ際も離れ難そうにグダグダして。
そんな友人だが今日は離れた所……人の身では行けない地点に遺物らしき輝きを見付けたとか言って、開始早々に二人と別行動していた。いつも通りならお相手と道中で合流して逢瀬に勤しんでいるだろう。
毎度思うがあちらは探掘の予定など知らないはずなのに、どこからどう嗅ぎつけているのか。
「やっぱ撒けねえな」
「ベニクチナワが上がって来てるなんて知らないわよッ!」
相も変わらず赤い蛇か蛭のような原生生物、ベニクチナワは二人の背中を追いかけている。遺物や鉱物を好んで腹に入れたがるこの生き物は今、メグミの抱える遺物を彼ごと呑み込もうと大口を開けて猛烈な勢いで這い寄って来ていた。
体格差故にじわじわと距離を詰められつつ、二人は相手の動線を妨害出来るような物陰は無いかとあちこちを見回す。
「やっと蒼笛になったのに! ここで死んでたまるかっての!!」
「ノバラ、ユウジ探しに行け! 俺が引きつけるッ」
「馬鹿! そんなのもう数分ももたな」
「メグミ! ノバラっ」
ベニクチナワの咆哮と破壊音、その全てを引き裂く鮮烈な声。その主を二人が悟って振り向いた直後、勢い良く這うベニクチナワが真横に突如ぶっ飛ばされた。巨大な頭蓋がベコンと凹んでいて、その威力を思い知る。
「…………!!」
血と怒りの声を撒き散らして身を起こしたベニクチナワは、食事の邪魔をした不埒者へと怒りのままに向き直った。
「ユウジ!」
「おっそい!」
そこに立つのはメグミと同じくらいの背格好をした少年。人の身では不可能なレベルの跳躍でもってベニクチナワを蹴り飛ばした彼……ユウジは、相手の図体へほんの少しでも張り合うかのように胸を張ってみせる。
「ほい、遺物!」
更にはそう言って、この辺りではあまり見ない和装の懐から小ぶりな遺物を取り出して掲げた。ベニクチナワはそんな囮に目の色を変え、ユウジへと狙いを変更する。
そのまままるで覆い被さるように食らいつこうと大口を開けたその時。
「痴れ者」
白い颶風が吹き荒れ、幾重もの星が瞬いた。
「ッッ!!??」
捕食のために開けた口を驚愕に歪めながら、ベニクチナワはぱくぱくと何度かそれを開閉する。直後、その全身へ縦横無尽に星の軌跡が刻まれたかと思うと。
バチャ、と生々しい音を立てて、賽の目となった巨躯が地面に赤色をぶちまけた。けれどこれはユウジの持つ力ではない。
「やっぱ居たわね」
「……ふしゅるるるるるる」
ユウジの傍へまるで立ち塞がるように二本脚で立つ影。ユウジより頭一つ分以上大きなそれは、部分的に見れば刺青だらけの大柄なヒトの男性に似ている。
しかし二重の大きな耳や五又の尻尾、そして脚や四本ある腕はモフモフとした白い毛に覆われていた。爪は黒々としているのに、一目でその鋭利さが分かるくらいギラついている。それから爪と同じ色の角が三つ、珊瑚色の髪から覗いていた。
彼こそが深層から現れた異形の存在(成れ果て)。先の原生生物さえ瞬きの間で下す程の力を持つ、成れ果ての王……スクナである。
四つある赤い目は地べたを這う虫けらを見る時の無関心さで血の海を眺め、生体反応の消失を確認し、それからパッと後ろを振り向いた。
「スクナ」
ユウジと目が合い名を呼ばれた途端、ピコリと大きな右耳が動く。匂いをつけるように擦り寄って来る大きな身体をユウジは踏ん張って受け止めた。
「ぐるるるるる」
「んはは、すげー喉の音」
ふわりとスクナの尾が揺れると、藍色が追従するように閃いた。それは尾の内一つの付け根で蝶結びされた長い布で、少し端が擦り切れてしまっている。
けれどメグミもノバラも彼がそれを一等大切にしている事を知っていた。師が触れようとした時なんて大喧嘩になりかけたくらいだ。
「用は済んだな?」
流暢に言葉を操る彼の声は低く、耳触りが良い。状況的にどうやら逢瀬の最中で異変を察知したユウジがこちらへ向かい、スクナもユウジの戻りを待たず追いかけて来たらしい。
「済んだけど、また出て来ないとも限らないだろ」
「……」
耳の毛をモフモフと指で梳かれて心地よさそうにしながら、スクナは鼻をふんふんとヒクつかせる。最後にふすん、と息を吐いて、耳を梳くユウジの指を甘噛みし始めた。
「居らん。オマエがナキカバネと呼んだあれ等くらいか」
「そっか、お出かけ中断してごめんな。結構楽しんでくれてた?」
「……ふん、早く戻るぞ。オマエはまたすぐ俺を置いて上へ行ってしまうのだろうからな」
「ごめんて。…………メグミ、ノバラ」
スクナの頭を優しく抱きしめたかと思えば、その琥珀色が振り向いてくる。言わんとする事を察した二人は何も言わず頷いてやった。
その気になれば地上(オース)すらも鏖殺出来るだろう彼のご機嫌をとれるのはユウジだけなのだ。ユウジ自身はスクナへの好意ばかりで、使命感やら何やらは微塵も抱いていないようだが。恐らくスクナはそんな所も含めて好いているのだろう。
そうこうしていると、初めて会った時のように尻尾で包まれた体が軽々と持ち上がる。鍛え上げられたユウジの身体は筋肉が詰まっていて決して軽くはないのに、スクナは容易にそれをやってのけた。
対するユウジは魅惑の手触りとしか言いようがないモフモフにしっかり掴まって、お日様の香りに混じった、どこか甘いような上品で落ち着く匂いに安心する。
「あんまり長引くんじゃないわよー」
「おう!」
モフモフの狭間から突き出た手がひらひらと揺れた。直後スクナは地面を蹴り上げて、あっという間にユウジを遥か彼方まで連れて行ってしまう。人間どころか原生生物でも追いつけるものはほとんど居ないだろうという速度だ。
「はっや」
そうぼやきつつ、二人は巻き上げられた土埃を揃って無表情で払う。本当に自分達を助けに来るためだけに姿を見せたらしい。きっとスクナから異変を聞き、ユウジが彼にデートの中断を申し出たのだろう。と言っても、スクナがわざわざそれを報せたのはユウジのために違いないが。
「まあ、ナキカバネしか居ないならコロニーに近付かなきゃいいだけだ」
「そうね。鳴き声も聞こえないし、この辺もう少し見て行きましょ」
きっとユウジは今頃、リサーチしたスポットへスクナを連れて行っている頃だろう。その途中で何かしら遺物をゲットしてくるに違いないから、それに負けてはいられない。
一息ついて周りを見渡し、視界の開けた草原を眺めながらメグミはふと思い出す。
「ユウジを見つけたのもこんな緑だらけの所だったな」
「あれは深界一層だからここより一個上だけどね」
と言っても今あの場所はすっかり様変わりしている。スクナがやって来てからというもの、彼が自身の巣にしてしまったからだ。
あれは昨年の事。
緑豊かな平地で、赤笛(見習い)だったメグミとノバラは謎多き存在……ユウジと出会った。
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ある所に一つの島があった。人類最後の秘境とされるそこは周辺の外国より科学力において大きく劣るものの、特殊な生態系や環境が根付いている。島の中心に口を開ける、下へ下へと成長する巨大な縦穴……アビスがその証だ。
そして大穴の縁に街を作り、神秘と謎を求め奈落を命懸けで探検する者が居た。探掘家と呼ばれる彼等の中の一人、ノバラはその日も深界一層へと足を踏み入れていた。
「あーあ、私もマキさんともっと深くまで潜りたいのに」
ノバラはそうひとりごちながら、半ば土に埋もれていた物を手に取る。これは遺物だ。アビスのあちこちにあるアイテムで、それぞれがその貴重さ等によってランク付けがなされる。深層にある物は不可思議な力を持つ場合もあるらしい。
太陽玉、と呼ばれるそれはつるりと卵型をしていて、簡単な模様がついていた。もっと下の層で出る物は複雑な構造や模様をしているらしいが、ここで出る太陽玉はただ強い光を放つだけのガラクタ同然の代物。まあ外国には高く売れるらしいが。
彼女にとっては散々見慣れた遺物。付いた土を拭う最中、視界にちらりと首元に下がる笛が入り込んだ。この赤という色だけなら嫌いではないけれど、それが示す見習いという立場はやはり制約が多くてつまらない。
「はぁ……」
あと一年弱、十五歳になれば一人前の証である蒼笛になれる。そうすれば憧れの先輩であるマキと同じ、もう一つ下の階層まで潜る事が許されるのだ。
実を言うならノバラは現時点で探掘隊に入っているため、特例扱いで蒼笛になる事も出来る。しかし隊長たる白笛の師は余程でない限り順当に笛のランクを上げさせる方針だった。
ノバラも内心ではそれに賛成している。一層と言えど運と知識が無ければ普通の人間なんて簡単に死ぬ。だから二層へ降りるのにも相応の経験を積むべきだと。
「マキさんの足引っ張りたい訳じゃないしね」
どうせ一緒に行くなら褒められたいし頼られたい。メグミという信頼出来る幼馴染と共に、着実に。そう考えながらポーチへ太陽玉をしまおうとして。
「あ、ヤバッ」
指の腹が丸い輪郭を撫でるように滑り、ぽろりと取り零した。草の上をてんてんと跳ね、ころころと転がるそれを小走りに追いかける。思いの外元気の良い勢いに舌打ちしつつ、遺物が飛び込んだ草むらを覗き込んだ。
岩肌へ沿うように自分の背よりも高く草や蔦が鬱蒼と繁るそこには正直あまり手を突っ込みたくない。小さい虫とか居そうだし。
年相応の少女らしい感覚と常から持つ美意識故にそう思いながらノバラは真顔になる。
「メグミにやらせるか」
きっと頼めば彼は溜息をつきながらやってくれる。途中で二手に分かれたがこの近くに居るはずだ。
未来の彼と同じように息を吐き出し、顔を上げようとしたその時。
「……え?」
違和感に気が付いた。
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「メグミ」
「シッ」
背後からの呼び声に黒髪の少年、メグミは鋭くそう言いながら振り向く。
「……」
「!」
彼の指差した先に居る巨大な生物を見てノバラは息を呑んだ。
タチカナタ。この一層に住まう原生生物の名前だ。両手に備えたハサミは頭部に見た目が似ていて、傍からは頭が三つある怪物のように見える。近くの水辺から気紛れにやって来たのかもしれない。
全身が甲殻とヒレで覆われているためにとても頑丈だが、何より恐ろしいのはあのハサミだ。挟む力の強靭さ故に周囲へ衝撃波を起こし、その威力は空の彼方をも断ち切るとされ、名前の由来にもなっている。
聞いた話によれば美味いらしいが、そのために挑みかかろうとは思わない。生身の人間が不用意に近付けばあっさり真っ二つだ。
一旦距離を取る。話はその後。
アイコンタクトでそう語り、揃ってここを立ち去ろうと踵を返した。
「!!」
直後、背後から聞こえた足音に事態を悟った二人は言葉も無く駆け出す。ガサガサガサガサと多脚のそれが奏でる足音は不気味そのもの。ノバラはメグミがポケットから太陽玉を取り出すのを見て、咄嗟に彼へ声を掛けた。
「あっち! 隠れられそうな場所見つけたから、それで目くらましした瞬間に飛び込むわよ!」
「! 分かったッ」
そもそも彼女はそれを知らせに自分の所へ来たのだとメグミも理解する。その隠れられそうな場所も安全かは分からないが、タチカナタよりはマシだと信じるしかない。
あそこだとノバラが指差した場所には岸壁とぼうぼうに生い茂る草があった。
「あの草の向こう、穴がある! ちょっと屈めば入れるはず!」
「ッよし、投げるぞ!」
さあ光ってくれ、と投げた太陽玉は折良くタチカナタの眼前で強烈な光を放つ。あの距離であの光量をぶつけられれば、ある程度の視力がある生物なら目くらましには十分だ。
タチカナタが怯む姿を横目に、ノバラは先程忌避した草むらへ身を縮めながら躊躇無く飛び込む。蔦を引き千切る感覚にぐっと口を引き結んだ。背後でメグミがそれに続く気配がして、二人揃って向こう側へと倒れ込む。
「ったた……」
「……何だ、ここ……」
息を整えながら身を起こした彼等が目にしたのは、狭くも広くもない草原。地形の関係で上手く秘されていたらしいそこには、岩の隙間やぽっかり開いた天井から穏やかな光が射し込んでいる。こんな場所があるなんて知らなかった。
「もしかしなくても、大発見?」
「かもな」
「よく今まで見つからなかったわね……」
「タチカナタの棲家に近いし、まあ一層だからな。探掘家が来るとは言え、ここの遺物探しをするのも赤笛ばかりだから見落としがあってもおかしくない」
清流まで内部に流れ込んでいて居心地は良さそうだ。そう思いつつ、揃って辺りを見回しながらもう少し奥へ足を進めると。
「……待て、何か居るかもしれない」
「え?」
メグミが一気に緊張したのが分かり、ノバラも息を詰める。足音を極力消して近付いた先は少し盛り上がった小さな丘の上。
果たしてそこに鎮座していたのは、原生生物でも遺物でもなく。
「……人間……!?」
そう、柔らかな緑の上で体を丸める人の子が居たのだ。目を閉じているものの死体ではないとすぐ分かる。すよすよと呑気な寝息が聞こえてくるから。
それを見た二人はここを初めて訪れたのが自分達ではなかったらしいと落胆するよりも前に、警戒しながらこの人間らしき生物へ近寄る。学習した声を出して獲物を誘き寄せる原生生物も居るのだ。それに類似したナニカである可能性は否定出来ない。
しかし探掘家として謎を明らかにしたい気持ちは、例え見習いの身であっても同じなのだ。
「……襲いかかって来ないわね」
手が届くくらいに近寄っても、その少年は気持ち良さそうに眠るばかり。自分達と同い年くらいだろうか。
しかし探掘家ではなさそうだ。笛も無いし、服装もよく見る動きやすいそれではない。どちらかと言うと自分達の師が纏う物に似ている。外国の東の方で着られていたという、襟を左右から重ねて帯で留める衣だ。下半身には足先と踵が見えるぴったりとした黒い履物を身に着けている。靴は履いておらず、けれど露出した爪先や踵に土の汚れは見受けられない。
(ここまで運ばれて来たって事か……? 誰が何のために)
メグミは眉間に皺を寄せながら、この不思議な存在をどうするべきかと考える。起きてくれれば話は早いのだが、起こしていいものか。そもそも起きてくれるのか。
「メグミっ」
「!」
そんな事を考えていたらノバラが何かに気付いたらしい。咄嗟に顔を上げると、メグミも目を見開いた。
「ふぁ〜〜あ……」
馬鹿でかいあくびをしながら、目の前の少年が身を起こし始めたのだ。珊瑚色の髪がふわふわ揺れて、大きな蜂蜜色の眼が眠たそうに瞬く。
「ん、ぁれ……?」
頭に葉っぱを付けながらぼんやり呟く少年は、周りに誰か居る事にすぐさま気が付いた。
「アンタ等は……」
「ノバラ」
「メグミ。偶然ここの空間を見つけて、オマエが居たって感じだな。名前は? 何でアビスに居るんだ。探掘家じゃねえだろ」
「俺、ユウジ。俺がここに居たのは………………」
そこまででユウジと名乗った少年は言い淀み始める。言いづらいという訳ではなさそうだというのは彼の表情を見れば何となく伝わって来た。
「……ここどこ? 俺、どうやって来たんだ? アビスって、ここの事? 探掘家って何?」
「アンタ、まさか何も……」
不安そうな、心細そうな顔。無意識だろうか、目線をうろつかせる様は何か頼れるものを探しているような雰囲気があった。
その時。
「ッ!?」
ドカン、という破壊音。自分達が入り込んで来た入り口の方からだと気付くのと同時、向こうに大きな影が見える。
「まだ居たの!?」
そのままでは通れない穴の幅をタチカナタがハサミを閉じる衝撃波で無理矢理こじ開けたらしい。
未熟な赤笛ならここでパニックを起こしていてもおかしくはない。しかし二人はそれなりに探掘で経験を積んで来た身だ。こういう時こそ冷静さを必要とする事をよく理解している。
「ノバラ、そいつのサポート頼む」
「分かった。煙幕ある?」
「ああ。もう少しこっちまで誘き寄せたら使って脇を抜けるぞ」
「了解。ほらアンタも、えっ」
ノバラが手を貸そうと振り向いた先にユウジは居なかった。まだ探索しきれていないが、この空間にタチカナタから逃れられる抜け穴などは恐らく無かったはず。ではどこへ、と血の気が引いた瞬間にメグミの声が響く。
「おい待て!」
「っちょっと、アンタ!?」
何とユウジが原生生物へ立ち向かおうとしていたのだ。組み付くなりして蛮勇を止めようにも、あまりの足の速さに間に合わない。そうこうしている間に、人間の頭よりも随分と大きなハサミが威嚇するように開閉される。
「無茶だ!」
あまりの自殺行為。咄嗟にメグミが煙幕を投げようとするも、タチカナタのハサミがユウジを捉える方が断然速い。少年の胴が真っ二つになる未来をタチカナタ含む誰もが思い描いただろう。
けれど、この少年はそんな理にそぐわなかった。
「!」
左右から肉を断ち切ろうとする凶悪なハサミの側面を下から膝でぶん殴り、挟み込まれるより先にタチカナタの頭上までかち上げ空振りさせる。彼我の体格や膂力の差を考えれば有り得ない暴挙だ。
さしもの原生生物すら、異様な光景に反応が遅れる。
その逡巡と動揺をユウジは見逃さない。
「ッらァ!!」
膝を上げていた方の脚でそのまま一歩踏み込み、甲殻に覆われた中で唯一柔らかいとされる部位……顎へ手加減無しのアッパーカットをぶちかます。ゴッッ、と鈍く嫌な音がした。
タチカナタは衝撃に耐えきれず、ぐらりと仰け反りながら仰向けに倒れ込んでいく。
「うっそでしょ」
「ッとりあえず今の内に退くぞ!」
「こっち!」
起き上がろうと藻掻く巨体を追討ちのようにユウジが放り投げ、道を空けた。パッと駆け出す背中を二人で慌てて追いかける。
「ユウジ、逆!」
「ん!」
地上方面と真反対に向かいかけたのを制止すれば、ユウジは元気に返事をしてついて来る。あっという間に横へ並ぶどころか力を抜いて走るくらいの健脚ぶりだ。
何なら地上までの道中、荷物を担いだ二人を抱えてショートカットとばかりに人の背よりも高い段差を一跳びで登頂する程。方向問わずひょいひょいとトラのように跳んで駆けるユウジに、メグミはもう訳が分からなくなっていた。反対側の小脇に抱えられたノバラなんて目を回しかけている。
「っおい、おい!」
「へ? ……あ、ごめん! もう大丈夫だよな」
そっと二人を下ろしたユウジは眉を下げながら、無我夢中で走って来てしまった事を謝罪する。その顔色は普通だし、息も切れていない。
メグミからすればそれは異常の一言に尽きる。
「オマエ……上昇負荷は?」
「じょ?」
アビスには「上昇負荷」という呪いじみたものがある。穴の下へ下へと潜る分には何も起きないが、一旦降りた後で上方向へ進む……地上へ戻ろうとすればそれが襲いかかる。
階層ごとに呪いの強さは異なり、六層ともなれば人間性の喪失か死という凄まじいものとなる。と言っても一層ならば軽い目眩と吐き気程度だし慣れればほぼ感じなくなるようなレベルだ。
(だが笛すら無いならこいつは探掘家じゃねえ。基本的な知識も無い上にアビスに潜り慣れてる感じでもない……)
ジャンプ程度では異変は起こらないが、あれだけの勢いと速さでこんな地上手前まで一気に上がって来たなら上昇負荷を感じて然るべきなのだ。しかもあの地点は深度六百メートル以上。本来なら瀑布ゴンドラを使って行き来する程の距離なのに、ユウジはふらつく素振りも吐き気を堪える風でも疲れ切った様子も無い。
「目眩とか、不調は無い?」
「全然」
ノバラの問いにそうはっきり答える。
未踏と思われる空間で眠っていた、上昇負荷を感じない、原生生物に生身で対抗出来る身体能力を持つ少年。
(……俺達はとんでもないモンを見つけちまったんじゃねえか?)
こんなの、その辺の探掘家へ軽々しく言える訳がない。
「先生に相談しよう」
「先生? メグミとノバラの?」
「そうよ。あんなのでも一番凄い探掘家の一人なんだから」
周りに他の探掘家が居ない事を確認して、そそくさとユウジを連れながら上へ続く道を進む。
「あんまり見ない格好よね」
「この服?」
「着方からして先生が持ってる奴に似てるな。外国の民族衣装だったか」
東の方の国にある衣らしく、楽だし着心地も良いし最高〜、なんて師が時折身に着けているのをメグミもノバラも見かけていた。なまじ顔が良いから何を着ても様になるのがちょっとムカつく。
まあそこは置いておいて。
「ここじゃ他に着てる奴はまず見ねえ。それこそ先生くらいだ」
「そんな格好でアビスの中に居たのも意味分かんないし」
「んー、そう言われてもマジで覚えてないんだよな……」
「記憶喪失か」
名前は分かるようだが、逆にそれくらいの記憶しか無いのだ。探掘家含むアビス等に感する知識もほぼ無いと見ていい。
つまり彼の格好の事も、異常な身体能力や体質についても分からない。
「逆にさ、探掘家とかについて教えてよ。俺が居た場所の事も」
普通なら動揺なりするところだろうが、ユウジは朗らかに笑ってそう言ってみせた。二人は顔を見合わせてから応える事に決める。
「俺達が今から行く所……地上はオースって呼ばれてる。で、今まで居たのはアビス。島の中心から下へ伸びる大穴だ」
「そこを探検するのが探掘家。探掘家は皆、この笛を持ってるの。色でランク分けされてるわ」
「だから俺が違うって分かったんだ」
基本も基本な内容ばかりだったが、素直に話を聞き入れるユウジとのやり取りにはストレスが無い。気が付けばメグミもノバラも揃ってアビスや探掘の知識について口々にユウジへと話していた。
時間も忘れてそんなやり取りをする内に気が付けばあっという間に地上まで出て来ていたばかりか、目の前にヌっと人影が立ち塞がってようやく全員我に返る始末。
「うわ!?」
縦に長い影を見たユウジが思わず飛び上がって驚くのとは対照的に、二人は隠し切れない安堵をその目に宿す。
「や。おっかえり!」
白い髪に青い瞳。すらりとしたシルエットの若い男性。ひらひら手を振りながら出迎えてくれた彼の首元には真っ白な笛があった。白い笛は最高位の探掘家の証。先程そう聞いたばかりのユウジは二人の様子も併せて、彼こそが話に出て来た「先生」なのだと理解する。
「遺物あった?」
「まあ、いつも通りです」
あくまで普段と変わらない様子でメグミとノバラが遺物を先生へ渡す姿をユウジはただ見守るしかなかった。ちょっと居心地悪そうに爪先で地面を弄る姿は少し稚い。
先生は遺物を預かり、タチカナタとの遭遇等の探掘に関する報告を聞いて、それからやっと本命……ユウジへと意識を向けた。
「さて。じゃあ詳しく聞こうかな。二人の前からの友達じゃない、笛も無い、アビスから来た君について」
✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼
「先生」
あの探掘から数日後、自分が所属する探掘隊のメンバーの住居も兼ねた拠点。廊下を歩いていたメグミは前から来た師に声をかける。
ここへユウジを連れて来てから彼は師の預かりとなり、メグミとノバラは今日までユウジに会えていなかった。先輩達の目撃情報からユウジが師と共にアビスへ向かったという所までは聞いたが、果たしてどうなったのか。
「ユウジは……」
「ん、とりあえず話は聞いたし、色々確認も済んだよ」
そう言ったサトルははぐらかすことなく、ユウジとここへ来てからの事についてメグミに明かしてくれる。
「とりあえず初めまして。僕は白笛のサトル。慣例に沿った仰々しい二つ名もあるけど……先生とかサトルって呼ばれる事の方が多いし僕もそっちの方が嬉しいかな。よろしくね」
「ッス……」
拠点の一室へ通され、面談のような形でサトルと向かい合って座ったユウジはどこか緊張した様子で頷く。出されたコップには何の変哲もない水が注がれており、それをちびちびと口に含む事で気を紛らわした。
「じゃ、君の名前から聞こうかな」
「俺はユウジ。……その、すんません。それだけしか……」
メグミとノバラの反応からして、自分が彼等の常識から逸脱した存在だという事は既に何となく理解している。この状況を怖がって仮に隠し立てや誤魔化しをしようにも、そもそも前提となる記憶が何も無いのだからユウジには素直に答えるしか選択肢が無い。
「あそこで寝てた理由も、いつから居たのかも、どうやって辿り着いたかも分かんないんだよね」
「ん」
「で、原生生物とタイマン張れるフィジカルに上昇負荷を軽減か無効化する体質の可能性ね……」
「先生は何か分かる? メグミ達も知らんような知識とか……」
「んーーーー、ぜーんぜん!」
「えぇ……」
キッパリと手を×にして笑うサトルにユウジはずっこけそうになる。下手に誤魔化されたり騙されたりするよりマシだと言えばそうなのだが。
「特に上昇負荷についてはまだ確証無いから明言出来ないってのもあるんだけどさ。……でもまあ、もし本当に全く上昇負荷が無いのなら大変な事だよ」
「え?」
「上昇負荷ってのはね、人間なら例外無く食らうもんなんだよ。完全に回避出来るのは一部の原生生物とかロボットとかの非生物」
「……」
つまり自分は人間ではない。見た目が似ているだけの別物。ユウジはそれにどう反応するべきか分からなかった。ショックを受ければいいのかどうかすら。
「もしかすると君は人間で、その体質には何かしらの遺物が関係してるのかもしれない。もしそうだとしても僕もそんな遺物知らないからやっぱり分かりようがないかな」
「なるほど……」
「極端な事言うと君はメグミ達と出会う直前にあそこで初めて生まれた、アビス産の人間っぽい何かかもしれないし」
「や、それは無い……と思う」
「どうして?」
サトルの問いにユウジはモニョモニョと口を動かし、ここへ来るまでに掴んだ感覚を思い起こす。正確には掴めていないのだが、その感覚こそが自分に過去があり、今は失っているだけという証明だった。
「記憶、多分あるんだよ。俺の中に確かにある」
「つまり不毛地帯ではないと。再生出来ないだけで」
「……うん。何も思い出せないんだ」
過去の記憶を掻き集めようとしても何も掴めない。重要な経験や記憶により自分の中枢を成す根や幹も、あちこちに伸びて細やかな記憶を宿していたはずの枝葉も。今の自身にあるのは「ユウジ」という名前だけで構成された土壌だけだ。
他は粉々に壊れてしまっていて、輪郭を確かめようにも指先をすり抜けてしまう。けれどそれはつまり、自分には相応の「過去」があったという事。
「正直、怖い」
何か大切なものを、大切なひとを忘れているんじゃないか。そう思って必死に手を伸ばしても何一つ分からない。
そこにあるべき物が見えないもどかしさ、指が空を切る虚しい感覚。これならいっそ「記憶が壊れている」事すら分からなければ良かった。跡形もなく枯れ果ててしまっていれば良かった。
そうすれば自分は今ここでユウジという土壌だけを持って、アビスの中で新たに命を芽吹かせたのだと割り切る事が出来たのに。
「……そっか」
そこまで話して俯く少年が顔を上げられるよう、サトルは静かに声をかけた。
「でも、それって逆にさ」
「?」
「過去の君は、例え粉々になったとしても記憶を捨てたくはなかったんじゃない?」
「……」
「いつか形を取り戻せるかもしれない、そんな可能性を諦められなかったんだと思うよ。今の君みたいに苦しい思いをするとしても……枯れて朽ちさせて、無かった事にする方が耐えられないってね」
「やっぱ、それくらい大切な記憶なんだ」
「だとしても焦らなくていい。ほら、そういうのって焦れば焦る程に上手く掴めないもんだし。何がきっかけになるか分かんないからね」
広大な暗闇の中で我武者羅に一本だけあるはずの樹を見つけようと手を伸ばしても、触れる事は難しい。それならあてもなく無意味に足掻くより、一旦落ち着いて色々な物に意識を向け、経験をしてみる方がいい。その最中で目が慣れて枝先だけでも輪郭を捉えられるかもしれないし、或いは影が薄らいで光が射し込むかもしれない。
「あそこで倒れてたって事はアビスが記憶にも少なからず関連してるかもね。僕としては探掘家をおすすめしたいかな」
上昇負荷無効の可能性、人間離れした身体能力。アビスに適応したと言ってもいいこの子どもの体質は、あまり他へ知られてはいけない。特に前者は特級遺物どころか奈落の至宝と同等の扱いをされてもおかしくないレベルだ。良くない連中に知られば研究のために攫われるなんて普通に有り得る。
それならいざという時に潜って身を隠せるよう、探掘家となりアビスの歩き方や環境をあらかじめ知っておくのは悪くない。潜っている間なら人目が少なく、ボロが出る機会が減るのも利点だ。
その上、探掘家になれば自分の隊に教え子として受け入れられるし、白笛の威光で多少は覆い隠してやる事も出来る。ここにはサトルが信頼して隊に引き入れた仲間しか住んでいないから、不安ならここへ籠れば外部の人間との接触を控えられる。
そんな「先生」の言葉にユウジは目を瞬かせ、それから顔を俯けた。
「何でここまで親切にしてくれんの?」
「そりゃ、可愛い教え子達の頼みだからね。僕個人の興味もあるけど。……後は君が居ればあの子達が死ぬ可能性を低く出来るかなって」
「!」
「タチカナタと戦ったなら分かるだろうけど、探掘は命懸けだ。つまり同行者は信頼出来る相手じゃないと話にならない。それもあってメグミとノバラは幼馴染同士、二人行動をさせる事が多いんだ。孤児院の赤笛は区域を決めて単独行動してるらしいから、ウチが過保護なんて言われる事もあるけどさ。そこに君が加わってくれるなら僕もちょっと安心」
ここまで話した上で感じたユウジの為人(ひととなりrb)、ユウジと共に居た時の二人の雰囲気。それもあってサトルはそう提案した。
「あの子達はもうすぐ見習いを卒業するんだ。今は上層の探掘が主だと言っても、アビスでは何が起こるか分からない。何せ外界の自然以上の理不尽を押し付けてくる世界だからね」
「ん……」
「記憶を取り戻すまでとか、君が居たい間だけで良いよ。無理に縛り付ける気はないから」
「うん、俺も家があると安心……かも」
「じゃあ決まり! 部屋を用意しないとね」
そう言ってサトルは空いている部屋をユウジへ割り当てた。その日は体を休めてもらい、翌日からまた色々確認や手続きをするという予定を伝えて。
✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼
「……その後はアビスに?」
「うん。職権乱用して三層ギリ手前まで連れてったよ」
「結果は……」
「軽減とか慣れなんて生温いモンじゃないね。あの子には上昇負荷が完全に効かない。それどころか予防接種無しでタチキリ熱にも罹らないから、病原体にも耐性があるね。試しに弱毒化させた食べ物をあげても何とも無かったし、毒耐性も追加」
「!」
ユウジが人外なのか、遺物関連で体質を得たのかまでは分からない。けれど上昇負荷に牙を剥かれない事実だけは間違い無いのだ。更には病や毒にも耐性があるなんてアビスを歩くにはこの上ないアドバンテージだ。研究者や好奇心の強い者ならば喉から手が出る程に欲しがるだろう。
けれどメグミは彼が人と全く同じ意思の疎通が出来て、人と変わらない感情を持つ事も知っている。彼が心無い扱いをされるとしたら、素知らぬフリは出来そうになかった。
「だからあの時みたいに仲良くしてあげて」
「それくらい全然良いです」
「うんうん、頼んだよ」
メグミの即答にサトルが声音に少し安堵の色を滲ませる。
そうと分かれば早速ノバラに報告をしに行こうとメグミはすぐに考えた。彼女も食事の度に話題へ出す程ユウジの事を気にかけていたのだ。命の恩人で、何となく気の合う感じのする同年代(っぽい)相手だから無理も無い。
「じゃ、ノバラにも」
「メグミー!」
噂をすれば。そう思って振り向いたメグミは目を見開いた。
「ユウジ捕まえたわよ! コイツ拠点で迷子になってた!」
「だってメグミもノバラもどこ居るか知らねえし!」
そこに居たのはノバラと、彼女にガッツリ連行されてくるユウジ。その首元には赤色の笛があった。探掘家になる話が本当なのだとメグミも改めて実感する。そんな彼の視線を感じ取ったか、ユウジはうれしそうに赤笛を掲げて見せた。
「見て! お揃い!」
「ああ」
「ま、探掘の時は大先輩のノバラ様が導いてやらん事もないわ」
「頼らせてもらいますノバラ様!」
「よろしい」
あっという間に三人で仲良く集まり始めた赤笛の末っ子達。サトルはその姿をどこか眩しそうに眺めながら自身の白笛に触れる。
懐かしいね、と語りかけるような言葉は無意識だった。
「……僕等も、」
「先生!」
「!」
「次はいつ探掘行けんの?」
数日前はどこか不安そうな、迷子のような顔をしていたユウジが明るい笑顔を見せている。新たな居場所と友人を見付けられて安心出来たようだ。
そんな仲間と共に探掘をしに行く。少しずつでも探掘家としてのランクを共に上げて、まだ見ぬ世界へ挑む。探掘家向きの好奇心と真っ直ぐさだ。死が真横にある世界へ進んで飛び込むのだから、ある意味ではイカれているともいえる。
「やる気があるのは良い事だよ。じゃあ明日にでも行こうか!」
「おおー!」
「じゃあ今日は準備だな」
「ユウジ、窓からアビス覗ける場所教えたげる。運が良いと割と下の方までよく見えるわ。望遠鏡持ってるの」
「いーね! へへ、じゃあ今日も明日も二人についてく!」
先生またね、と手を振るユウジにサトルは手を振り返し、三人並んで離れていく背中を見送る。それと同時に、自身の褪せない青春の日々をその背中に重ね合わせた。
「僕等もさ、昔あんな風に……」
触り慣れた白色の輪郭をなぞる。師にどやされながら、才能故に周囲が驚く速さで笛の色を変えていったあの頃。最高の悪友と毎日のようにアビスへ潜り込んで、原生生物と大立ち回りをして、レアな遺物もきっちり集め回って、こ許可されてない深度までこっそり潜って、上昇負荷で二人仲良くゲロを吐き散らかして、もう一人の友に悪態をつかれながら怪我を治療して貰って。
文字通り、怖い物無しだった。
二人一緒なら。
(まあそれは今も変わんないけどさ)
ここしばらくは教え子達の教育に精を出していたから、ちょっと息抜きをしても許されるのでは? なんてサトルは考える。
その「ちょっと」でどれだけの成果を持ち帰って来るかを知っている裏方の後輩が彼の考えを耳にしていれば、処理が大変だからお手柔らかに、と眼鏡の位置を直しながら青褪めた事だろう。
まあ後輩の仕事振りを信頼しているのもあって、そんな事をサトルが気にする訳もない。
「久し振りに二人で潜んねえ?」
彼の呟きを唯一聞き届けた白色がまるで笑ったような気がして、サトルも思わず口の端を持ち上げる。
「な、スグル」
オマエなら賛成すると思った、なんて上機嫌になりながら笛を軽く一度叩いて歩き出した。
✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼
ユウジが探掘家になって暫く。三人揃って蒼笛になってからあと少しで一年が経つ頃。
「おわぁ……」
「アンタ本当それ好きねぇ」
探掘前だというのに、今日も望遠鏡を借りて窓から大穴を覗き込むユウジにノバラは呆れた顔をする。元々気に入っていたようだが、半年程前に運良く巨大な原生生物を見てからはより一層この観測をしたがるようになった。青色のとても大きな鳥だったと、ツチバシ……また他の鳥型原生生物を捕食して争っていたと、大興奮で教えて来たのは記憶に新しい。
サトルの推測だと、その原生生物は恐らくかなりの深層からやって来ただろう、との事。何層から上がって来たのかまでは分からない。六層以上の深さならば、人の身では確かめてここまで戻る事は出来ないからだ。
「ユウジ、知ってるか?」
「ん?」
「オマエ確か、そのデカい鳥から何かが飛び降りたっつってたろ」
そう。ユウジの並外れた視力は望遠鏡の助けを借りながらとんでもないモノを目撃していた。全長五十メートル以上と目されるあまりにも大きな鳥の体から人型の生き物が飛び降りたらしいのだ。それは周りに集るツチバシを踏み付けながらひらりと宙に身を躍らせて穴の中……一層の地表方面へ落ちていったとの事。
「もしかして見付かった? 見間違いとかじゃなかった感じ?」
大鳥に捕まっていたにしろ何にしろ、あの高さから落ちればまず助からない。恐らく遺体が見付かったのだろうと悲しそうな顔をするユウジにメグミは首を横に振る。
「一層に居る、らしい」
「居るって、生きてるって事?」
「ああ。一部の探掘家はユウジが見た少し後くらいから存在を知ってたらしいが、最近まで箝口令が敷かれてたって噂だ。……この間、合同大探掘に行った連中居たろ」
「あーあれ、見覚え無い連中ばっかで何か異様な雰囲気だったってマキさんが言ってたわ。偶然すれ違ったらしいけど」
サトルや彼と親交のある他の隊に話が来ていないというのも変な話だった。有名所が参加しない合同大探掘なんて聞いた事が無い。
「帰って来てたかしら」
「いや。……壊滅だそうだ」
「は!?」
「壊ッ……そんな深くまで行ったのかよ?」
「一層」
メグミの声色は硬い。そして彼が呟いた階層は、合同大探掘へ挑む探掘家達が壊滅するとはあまりにも考え難い場所だった。
「どういう事? ……待って。まさか。連中の目的って、ユウジの見た人型の生き物?」
「ああ」
その探掘隊は一層に住みついた生き物を捕らえに行ったようだ。
どこからしがみついたかは分からないが、最深層から真っ直ぐ大穴のど真ん中を飛び上がる所に同伴し、あまつさえ飛び降りても生き延びる生命力。それに伴う強大なはずの上昇負荷を躱す生態。
そんな不可思議な生物に興味を掻き立てられた欲深な誰かが探掘家を雇うなりして捕縛を命じたのだろう。
ユウジからすれば、一歩間違えたら自分の身に降りかかっていたであろう事態だ。空恐ろしくなって思わず青褪める。
「それだけ強いって事ね」
「最近見掛けたって奴がちらほら居るし、棲家も割れたらしい。生き残りが話した特徴からして「成れ果て」じゃないかって話だ。もし出会しても、ちょっかい出したり巣に入ったりしなけりゃ無視されるそうだが」
成れ果て。六層の上昇負荷を受けた際に起きる「人間性の喪失」によるもの。六層のそれを受けた場合、ほとんどはそのまま死に至る。
が、運良く生き残ってしまったら成れ果ての完成だ。それでも体組織は崩壊して肉塊のような姿と化し、知性や人格が失われまともな意思疎通すら不可能になる。体の一部分や全身が毛で覆われたり大きな爪が生えるなど獣のように変化する事も多いらしい。こうなったらどうしようもないため、探掘家の間では介錯して遺品を持ち帰るのが通例だ。
原生生物を利用して上層までやって来るような知性と人格を保ったままの成れ果てが存在するのかは分からない。そして上昇負荷を受け付けなくなるのかも。
合同探掘隊のほんの僅かな生き残りは化け物じみた強さに対する畏怖を込めて、それを「成れ果ての王」と称した。
「で、その王様は一層のどの辺住んでんの? 次からの探掘、出切ればそこ避けた方が良いよな。ゴンドラで避けられるかもだけど」
「残念だが、瀑布ゴンドラの降下地点より少し下だ。……ユウジ、奴が住んでるのはオマエが寝てたあの場所らしい。赤笛達もその辺りは近寄らないように言われてる」
「えっ」
まさかまさかの事実。別に思い入れがあるという訳ではないが、謎の存在はあの場所に行きたがる何かがあるのだろうか。
上層負荷に見舞われないという点も共通していて、ユウジはよく分からなくなる。
「俺のお仲間とかじゃ、ないよな」
「アンタは見るからに成れ果てじゃないから違うんじゃない?」
「チラッと聞いたくらいだが、白くてモフモフしててデカいとか言ってたな」
「ほら。全然違う」
「そっかぁ」
安心したような、残念なような。複雑そうな顔をするユウジの背を両脇から叩き、メグミとノバラは腰を上げた。
「ま、一層の話だし。私等は二層の探掘で忙しいもの。近付かなきゃ大丈夫なら原生生物よりよっぽどマシね」
「一層メインで行く奴にちゃんと知れ渡って、そこから今の噂話に上るレベルになったんだろうしな」
探掘家の群勢を退け、その後も療養期間を要さず普通に暮らしているような戦闘力を持つ成れ果て。こうなっては他の探掘家が次鋒を担うとは考え難いので、捕縛も研究も手出しもこのまま計画を打ち切られる事だろう。まさしく王の名に相応しい強さである。
「ほら、荷物担ぎなさい! そろそろ行くわよ」
「ん、おう!」
もう大分通い慣れて来た道を三人で進む。
食肉として使える原生生物が居たら狩ってきて欲しいと頼まれているので、帰りがけにヒトジャラシやツノナキ辺りを狙おうか。コロニーにナキカバネが少なかったらそこも探索してみたい。
そんな事を話し合いながら進み、ゴンドラへ乗り込んで石の方舟へ降り立つ。そこから二層へ真っ直ぐ向かった。
何の変哲もない、いつも通りの探掘だった。
「ユウジ、ナキカバネ全然居ないわよ!」
「マジで? じゃあ遺物探そうぜ!」
「あんまはしゃぐなよ。声聞かれたら連中が戻って来るかも、」
その瞬間までは。
「ッ!?」
ビュオ、と吹いた突風。一瞬見えた白色にメグミはナキカバネが戻って来たのかと息を呑む。正直ユウジならばナキカバネ程度は敵ではないし、自分達も武器を持っているから対抗出来ない訳ではない。それでも群れで襲われれば無傷で切り抜けるのは難しいだろう。
一時退避が一番良い、そう判断して仲間の方を見て。
「っ、ユウジ!?」
ユウジが居たはずの場所に立つ白い影。
「む、ぐ……ッ」
そしてその白い影が伸ばした尾に口を覆われ、体を掴まれ宙に持ち上げられている友の姿があった。
刺青のある大柄な男性にも似たシルエットだが、あちこちが人のそれとは異なっている。大きな二重の耳、モフモフとした手足、五本生えた尻尾はいずれも真っ白。その内一つの付け根には蝶結びされた藍色の布があった。爪と三つある角は相反するように黒く、不穏な輝きを放っている。
ユウジも大概馬鹿力だが、四つもある筋骨隆々な腕で押さえ込まれては抵抗もままならない。
これが件の成れ果てだと、そう理解するのに時間は要らなかった。
「テメェ……ッ!」
「待てノバラ!」
ピッケルを手に飛びかかろうとする少女をどうにか押し留める。下手な真似をすればユウジがどうなるか分からないし、探掘隊を壊滅させた力を奮う可能性もあった。
ユウジがどうにも出来ない相手を自分達が相手取れる訳がない。真正面から行っても蛮勇に終わるだろう。一瞬、ユウジが「それでいい」とばかりにメグミへ向けて微かに頷いた事からそれは確信に変わった。
メグミはノバラへ手信号を使い、太陽玉を後ろ手に掴みながら隙を伺う事に決める。ユウジから興味を失ったらこれで目くらましをして森の中へ隠れるか、木の洞などあの巨体では入れない場所へ逃げるしかない。そう決めてじりじりと間合いをはかった。
一方で成れ果ての王は二人の事なぞ全く気に掛ける様子は無い。身を乗り出してユウジの全身を眺め回したかと思えば、クン、クンとしきりに匂いを嗅ぎ。そして右の主腕で袷から覗く胸元の肌へとほんの少しだけ爪を一つ立てた。
「……ッ」
プスッという生々しい感覚と微かな痛み。少しして離れた黒い爪には真新しい赤色が纏わりついていた。それを黒い紋様付きの大きく長い舌が舐め取り、味わって。ぴょこりと耳を軽く持ち上げた彼は未だに血を滲ませる場所へ顔を寄せ、今度は直に舌を這わせ始めた。
ユウジも大混乱で遮二無二手足へ力を込めるが、相手の膂力や押さえ込みの方が随分と上手だった。大きな手でガッチリと頭を掴まれては首も動かせない。
「……」
散々ユウジの胸元を舐め回した成れ果ての王はようやく口を離し、少し考えるような素振りを見せる。考え事に集中しているのか舌をしまい忘れている姿が何だか不思議と可愛く見えてしまい、ユウジは自分の思考が信じられずに困惑した。
「……この味、魂の形、……間違い無い」
喋った。
三人が耳触りの良い低音と紡がれた意味ある言語に耳を疑った瞬間。ぶわり、とユウジの体が面積を増した五本の尻尾に包まれる。
「むー!?」
とんでもない魅惑の手触りに驚愕しつつ、ユウジは毛の海から逃れようと必死で身を捩る。しかしあまりの毛並みの良さ故かそれとも尻尾の使い方故か、どれだけ藻掻いても真っ白な絨毯を撫でるだけに終わった。
直後感じた衝撃と遠ざかる友の呼び声に、どうやら成れ果ての王が尋常ならざる跳躍をしたのだとどこか冷静に理解する。
(何で? 何で俺、誘拐されてんの!?)
恐らく今もどこかしらを走ったり跳んだりしているのだろうが、ふわふわでふかふかな特等席に包まれているとあまり揺れを感じない。この王は身体の使い方も自分より上手だとユウジは認めざるを得なかった。
かと思えば段々とどこを進んでいるか分からないのに毛並みが良すぎて滑り落ちやしないか不安になり、きゅっと手近な毛を握る。それを感じてか更にしっかりと尻尾に絡み付かれたのでひとまずホッとする。
(た、多分、巣だよな。巣に行くよな)
他には考えにくい。そう信じたユウジの予想通り、ふわりと尻尾を解かれて下ろされたのは見覚えのある岩肌だった。
ただし。
「……あれ?」
自分が眠っていた小さな丘。その一面に咲き誇る真っ白な花。トコシエソウと呼ばれるアビスでよく見られる花だが、ユウジが目覚めた時には無かったはずだ。
「きれー……」
真っ白な花畑と、真っ白なモフモフ。ぽつりと思わず溢れた言葉はどちらに向けた物だったかユウジにも分からなかったが、それを聞いた成れ果てがどこか自慢げな顔をする姿は少し微笑ましく映った。あれ以上爪を立てるそぶりも無く、悪意や害意は感じ取れない。
無闇に近付くと危険だと聞いたが、あちらから来たのだから文句は言われないだろう。そう思ってユウジは不思議なくらい無警戒に声をかけた。
「なあ、この花畑……」
「オマエが綺麗だったと話したろう。俺と会う前に上の層で見かけたのだと。それを模して再現した」
「え?」
「? ……、そうか」
ユウジの反応と表情。成れ果ての王はそれをまじまじと見て、一度ゆっくり瞬きをした。瞼に隠れる直前、彼の瞳が複雑な……深い寂寞や激しい憤怒やらの混じった波濤に揺らいだ気がしたが、再びその赤色が現れた時にはすっかり凪いでいた。
「本当に忘れたのだな、何もかも。あれは冗談や例えの一つでは無かったという訳か」
「! オマエまさか俺の過去を、っあだぁ!?」
ごぃん、と雑に脳天へ拳骨を落とされた。視界に星が散った気がする程の威力と勢いにユウジは思わずしゃがみ込む。
「な、何すんだよッ」
「ふむ、叩いても戻らんなぁ」
「俺は壊れた機械じゃないですけど!?」
きゃんきゃんと吠え立てるように文句を言うユウジを赤い四つ目がチラッと見下ろしてくる。かと思えば目の前に屈み、また匂いを嗅がれた。
「……何?」
「ま、魂も味も同じだからな。また堕とせば良いだけの話か」
「いや、いやあの、摩擦熱。すげー摩擦熱」
仕方無いと言わんばかりのセリフと共に頭をぐりぐりずいずい擦り付けて来る。あまりの勢いにほっぺが火傷しそうだ。
このままでは押し倒されてのしかかられる。そう思ったユウジは成れ果ての王の逞しい肩を掴み、どうにか押し返そうとした。残念ながら微動だにしなかったので、作戦を変更して他の話題で気を逸らせないかを試みる。
「お、俺、ユウジ」
「知ってる」
「アンタは? 成れ果ての王サマ」
「は? 何だその呼び名は」
片眉を上げるのと同時にそっちの耳もぴょんと跳ね上がる。素直な動きが微笑ましくって、ユウジは思わず大きな耳を撫でていた。滑らかな手触りの毛が指の間を通り抜けていく。
「地上でそう呼ばれてる。アンタが強過ぎるからって」
「ふん、あの群れを叩き潰したからか? 花畑の羽虫共にも劣る雑魚だったな」
撫で始めたら擦り付けも収まり、作戦成功だと密かにユウジはホッと一息ついた。今度は撫でる手のひらの方へ心地良さそうに擦り寄られる事になったが。
「おい、手を止めるな」
「あ、はい」
これは撫で撫でに夢中で暫く名前教えてもらえないかな、とちょっと諦めかけたその時。
「スクナ」
「っ! 今、名前」
「手を止めるな」
「あ、はい。……なあ、今のって」
「前みたいに撫でろ。角のとこ」
「うっす。で、もしかしなくても」
「もっと強くていい」
「はぁい」
王様のご注文が最優先らしい。ぐるるるる、とド低音で喉が鳴らされるのを聞きながらユウジは両手で彼の毛並みを梳き続ける。
「オマエ、……スクナはさ、あのでっかい鳥に乗って来たの?」
「ん。ちょうど上へ向かう道中だったようだからな。行き先が同じならばと利用した」
ついでに味見もしたかったが、今回は礼の代わりに見逃してやる事にした。そう話すスクナは冗談を言っている風ではなかった。大あくびをして、後ろ脚で蹴り蹴りと耳を掻く姿からして強がりでもなさそうだ。
「乗り心地はともかく、速さは申し分無かったぞ」
「いや乗る予定は無いっすね……」
巣まで攫われて来てしまったが、どうやら自分は彼と知り合いらしい。思わぬ所で見つけた糸口だ、もう少し詳しく話を聞きたいと思うのは自然な流れだった。
「スクナは何でここまで来たんだ? 下層にこれまで住んでた巣があるんじゃねえの? 縄張り争いに負けたとかじゃなさそうだし」
「あ? あの一帯で俺に敵う奴なぞ皆無だ。水も肉も全て俺の飯だからな」
恐らく深層もいい所に違いない場所において、彼は生態系の頂点に立つのだという。こことは比較にならない程の、それこそ絶望的なまでに凶悪な原生生物ばかりが住む世界だろうに。
「俺が上がって来たのはオマエの戻りが遅かったからだ。そしてオマエの匂いが一番残っていたから、ここを新たな縄張りにした」
「……えっ」
ひらり、尾の一つに結わえられた藍色の布が揺れる。蝶形の結び方のせいか彼の見目に反してそこだけ可愛らしく映る。よく見れば少し端が擦り切れていて、彼がそれなりの時をこの布と共に過ごして来た事が分かった。
「俺、……スクナと何か約束してた?」
「ん」
あっさり頷かれ、ユウジは絶句する。自分はスクナの住む下層まで過去に行った経験があり、そこで何か彼と約束をしたのだという。
ユウジはきっと上層まで戻る用事があって、けれど何らかの理由で記憶を失い、スクナの元へは戻れなくなった。そのため待ちきれなくなったスクナがユウジを探しに来たのだ。きっと巣を守りながらあちこちに散らばる匂いを辿って、辿って、そうしてやっとユウジと鉢合わせる事に成功した。
今日の出会いまでに様々な障害や妨害があっただろうと思うと、ユウジはあまりにも申し訳無くなる。
「ご、ごめん。俺記憶が……」
「見れば分かる。まあ約束は下でなくても果たせる故、気にする必要は無い」
「そうなの? えと、じゃあ約束って何?」
多大な申し訳無さを滲ませつつ、スクナの手を握って真摯に尋ねる。毛並みこそふかふかではあるものの、その先端にはあまりにも鋭い爪が剥き出しで備わっている。
それを恐れず手に触れてくる姿は記憶があろうと無かろうと変わらない。スクナはその事に目を細め、そして言葉を紡いだ。
「俺と番え、ユウジ」
あまりにも優しい声音と爽やかな笑顔によって繰り出された爆弾発言。それでいて有無を言わせぬ圧。その全てが絡み合って、情報の暴力となってユウジへ襲い掛かった。
「ファ?」
この上なく間抜けな声を出して放心するという醜態さえ、スクナは見慣れているとでも言わんばかりにいなしてみせる。
そんな余裕たっぷりな姿を呆然と見上げながら、とりあえずユウジはこれまでの話を整理してみた。
スクナはそれまでの巣を捨て、ここよりずっと深層からやって来た。と言ってもただ上がって来るだけではない。ユウジの匂いが一番強く残る場所に新たな巣を作り、ユウジが綺麗だと言ったのと同じ花畑を用意して、広い広いアビスの中でユウジを見付け出し、味見はともかく程良くスキンシップをした。けれどそれ等は全てただスクナがユウジへ懐いているため、なんて甘っちょろい話ではない。
彼はユウジと番になるために……要するに結婚するために、それら全てを下準備としてこなしたのだ。ユウジが記憶を失っていたと知っても、やる事は変わらなかった。
──生半可な気持ちではない。
そう悟った瞬間、ユウジの顔は勝手に熱を持っていた。自分の意思とは関係無く、煙でも出そうな勢いで。
「クハッ! 相変わらずオマエの肌はよく色付くなァ」
「う、その、えと」
「ああ構わん。どうせオマエの事だ、中途半端な心持ちでは応えられぬとでも言うのだろう」
「!」
まさに言おうとした事を言い当てられ、ユウジは瞠目した。けれど誓ってその場しのぎをしようという腹積もりではない。
記憶を失った今、彼と約束をした当時の気持ちも分からないのだ。ならば全く同じとまではいかずとも、可能な限り近い関係値を再び築き上げて返事をするのが筋ではないかと思った。
ここまでの好意を示してくれたスクナへの誠意を。ユウジはその一心だった。
(今の俺にとってスクナは初対面なのに、満更じゃない……ってのがもう、何ていうか……)
魂から好きだった証拠では? なんて思ってしまわないでもない。が、それは見ないふりをして、ユウジは頬を扇ぐ。
「今オマエは上に住んでいるのか。そして穴へ探索に来ると」
「あ、うん」
「分かった。ならばオマエが下りて来た時に逢瀬をするぞ。匂いはもう混ざったから、容易に辿れる」
「……また会ってくれんの?」
「むしろ拒否なぞさせん。邪魔立てする輩は切り刻む」
ふすん! と鼻を鳴らすスクナはそのまま伸びをして、かと思えばまたユウジに擦り寄ってきた。
「切り刻むのはちょっと宜しくないけど、……会うのは良いよ。でも一応仲間には確認させ、ひゃわ!?」
かぷり。
そんな突然の刺激に飛び上がる。間近にある体温と呼吸。そして視界の情報。
──自分は今、スクナに頬を甘噛みされている。
そう理解したユウジは、先程揶揄された通りに再び肌を赤く色付かせた。はみはみしないでくれ、なんて言いかけた瞬間、勘付いたように牙が離れていって。
「ケヒッ。……これからまた宜しくな? ユウジ」
そう悪戯っぽく笑う表情にまたどぎまぎしてしまう。これから彼の手で振り回されまくる予感というか半ば確信じみたものに泣きそうになりつつ、ユウジは両手で顔を覆った。
「ひゃい……」
そんな、返事なのかそうでないのか分からない鳴き声しか溢せなくて。
向こうから聞こえる揶揄い混じりの笑い声に、暫くこの手は外せなさそうだと呻くばかりだった。