袖の下「お、いいところに」
高専からの帰路、最寄りのスーパーの前を通り掛かった庵に、聞き慣れた聞きたくない声がかかる。片手にスーパーのロゴが入ったビニール袋を提げて、五条が立っていた。横に掲げられている特売の幟が全く似合っていない。
ご近所さんの目があるからこの目立つ男に関わるのは避けたい、と感情が叫ぶ。このスーパーは庵も普段から世話になっている店だ。同じマンションの人いたなとか、このご家族先週も見かけたなとか、客の中には交流しないまでも知っている顔がある。今だって、資源回収ステーションで昨日あいさつした主婦が店に入っていくのが見えた。
しかし、ここで五条をスルーしようものなら、そのよく通る声で庵の名前を呼びつけては、あることないこと吹聴する未来が見える。そうなると、ご近所さんの目があるからこそ、この男を放っておくわけにはいかない、と今度は理性が庵を諭し始める。
果たして、論戦で勝利を手にしたのは理性であった。五条の前を一、二歩通り過ぎはしたものの、庵はなんとか足を止めた。
「アンタ、ここで何してるの」正対はせず、横目に五条を捉えて問う。
「何買ったか気になる?」言いながら五条が袋をチラつかせた。
「ここで何買ったかじゃなくて、ここで何してるのかを聞いてんのよ」
袋の中身が気にならないではなかったが、庵にとって必要なのは、もっと根本的な情報だ。スーパーだなんて衣食住の一端にズケズケと現れて、何がしたいのだろう。ここは住宅街である。地元の人間の暮らしの世界だ。出張で京都を訪れた人間が体を休めていくような宿なんかありはしない。五条は、何が目的で庵の生活圏にいるのか。
「えー、何買ったか聞いてよ」目元を覆う布の下で、不満げに顔をしかめられたのが分かる。「それなら答える」
「……何買ったの」
「袖の下」
五条が袋を庵へ差し出す。持ち上げられた拍子に、袋の中で缶と缶がぶつかる音が聞こえた。パイン、トマト、コーンといった食品の缶詰ではない。液体の入った、薄い素材で片手サイズの、缶の音。庵もよく聞く音だ。
肩にかけたトートバッグの持ち手から手を離さないまま、庵は五条の持つ袋を見つめる。袖の下だと五条は言った。差し出されているからには、贈賄先は庵なのだろう。それは分かるが、これを受け取った庵に五条が持ちかける代償が分からない。やはり買ったものではなく、目的を問い詰めるべきだったのだ。
「何が目的よ」
「『突撃!隣の晩ごはん』歌姫のお部屋篇」
「ビールで買収されるほど安かねえわ!」
改めての問いには、先のむずかりからは打って変わって即答された。しかし、その内容がまったくもっていただけない。
袋を差し出す腕をはたき落とす。実際には無下限で阻まれ、五条の腕に手を添えるような姿勢になったが、大切なのは気持ちだ。
その庵の手にさらに五条が手を重ねてきた。
「ご近所に見せつける気満々だね、歌姫」
「ごはん食べたいならタッパーに詰めてやるから、それ持って帰って」
収賄側が頼み込むというのも、おかしな話である。一応、液漏れしないタッパーくらいは用意してやろうと庵は思った。
(2111080243)