熱「五条、ごめん」
布団の中から庵の謝る声が聞こえたが、五条には謝られる覚えがない。
ベッドのそばに座り込んで、風邪薬の錠剤が入っていたシートをゴミ箱に放りながら「何が?」と問いかけた。ホールインワン達成。ぴゅう、と口笛をひとつ。いつもなら聞こえてくるはずの、ゴミを投げるなという庵の𠮟責は聞こえない。
「アンタだって授業や任務で疲れてるんだし、夜くらいゆっくり寝たいだろうに」
「別に。俺、長くは寝ないから」
お𠮟りの代わりに聞こえたのは布団からのくぐもった声で、どうも調子が狂う。レトルトの粥を温めて食べさせたときも、薬を飲んだ庵を布団でくるんだときも、庵の反応はやけにおとなしくて、そんなところで彼女の不調を実感するのだ。ただ、不調の中にあっても他者を慮るあたり、いつも通りの姿も垣間見える。
「熱に浮かされてる歌姫見てるのも悪くねえし」
「人の苦しみをおもしろがってんじゃねえわよ」
ごそこそと庵が布団から顔を出した。先ほど五条が付け替えた彼女の額の冷却シートが、明かりを抑えている部屋の中で青白く浮きあがる。五条は手を伸ばして、シートに絡まっている前髪をのけた。
「コレはっつけてる顔とか、かなりマヌケだぜ。あ、写メ撮っとこ。硝子に見せたろ」
ばか、という弱々しい罵倒とともに、布団の中から手が伸びてきた。携帯電話のカメラを構える五条の腕を引き下ろす姿勢を見せようとしたのだろう。手首のあたりに触れた庵の手は、直に触れることができたことに驚いたのか、ぎくりと硬直した。五条は五条で、添えられた手のひらの熱としっとりした感触に心臓がぴょんと暴れた。
いつもの打てば響く庵の反応がない今、五条が黙りこんでしまえばこの部屋はとても静かだ。五条の肋が内側から打ち鳴らされている音が、庵にも聞こえやしないかと危惧するほどに。意識的に息を吸って、ゆっくり吐き出す。鎮まれ心拍。
ふいに手首に触れている体温が離れていったかと思えば、「五条」という声が部屋に転がり落ちた。
「ありがとう。アンタがいてよかった。後輩に世話かけるなんて、情けないけど」
五条は二、三度瞬きをした。声の出どころをたどって布団を見つめた。深く布団にもぐっている庵の頭の形を視線でなぞった。
何どうしたのめっずらしーじゃん、と声をあげようとしたが、喉が張りついて声が出ない。水が飲みたくなった。薬を飲ませるために用意したミネラルウォーターのペットボトルを引き寄せて、コップにつぎもせずあおった。喉を潤した水がするすると体の真ん中を落ちていくのを意識する。ふう、と息を吐いた。
「何、呆れた?」
布団を少し引き下ろして庵が顔を出す。五条がため息をついたと思ったようだ。ありがたく便乗する。
「歌姫が情けないのは、今に始まったことじゃねえじゃん」
「怒る気力が湧かない……ッ」
「怒れてる怒れてる。回復の兆しってやつじゃね」
「ああもう……。アンタのせいでもっと体温上がりそう」
庵の額を指でぐりぐりと押す。形のいい額が真っ白な冷却シートに隠れてしまうのはもったいないなと思う。早く取れればいい。シートを買ってきたのも額に張り付けたのも、全て五条だけれど。
「熱上がって汗かけば治るっていうだろ? いいじゃん、悟くん療法。ほれ、寝ろ寝ろ」
「何が療法だ。……アンタも自分の部屋に戻って寝なさいね」
お休みなさい、と言って目を閉じた庵は、すぐに眠りについた。やはり体力はなくなっているらしい。
壁にかかる時計を見上げて、朝までの時間を数えた。朝になったら家入が泊まり込みの任務から帰ってくる。家入にはきっと、連絡があればなんとかして夜のうちに戻ってきたのにとチクチク言われるだろう。
壁時計の秒針が時を刻む。時間が一秒一秒削れていく音を聞きながら目の前のベッドにもたれて、五条も目を閉じた。
せめてあくる朝、おはようくらいは言えたらいい。
(2111120823)